★九十九里浜は玉浦(タマノウラ)(1) 


  単調な海岸は波荒く、サーファーに愛されている

上総国一の宮・玉前(タマサキ)神社の名前の由来は、「玉浦」すなわち九十九里浜に面しているから「玉前」なのだと言われます。

九十九里浜が初めて文献に登場するのは『日本書紀』景行天皇40年10月の条です。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が「海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至った」とあり、
葦浦が現在の鴨川市吉浦、玉浦が九十九里浜とみなされています。
つまり九十九里浜の昔の名前は玉の浦だった。
               九十九里浜の名の由来は→こちら●と、こちら●

古代の海岸線は標高4mラインと考えられており、現在のすっきりした弓なりの海岸線とは異なり、非常に複雑で大きな入江や広大な湿地帯が広がっておりました。
凸凹だった海岸線を最短距離で移動すれば「玉浦を横切って」という表現になります。

湿地帯に生い茂る葦原は今でこそ荒地とみなされ、未利用地として経済的価値がないように扱われていますが、古代は違いました。
なにせ日本国の古代名、美称は、豊葦原中津国(トヨアシハラノ ナカツクニ)ですからね。
この葦原に灌漑施設を整えれば、豊葦原瑞穂国(トヨアシハラノ ミズホノクニ)になります。

夷隅川と一宮川下流域はその意味では絶好の立地条件でありました。
川沿いの氾濫原=葦原を手入れすればモミをばら撒くだけの当時の粗放稲作の最適地であり、
川の水と海が交わる汽水域はさまざまな海の生き物たちの楽園です。
そして目の前には豊かな黒潮が流れ、魚は無尽蔵にいました。

いつの頃か、金属器と稲作技術を持つ海洋漁労民が黒潮に乗ってたどり着き、定住して村落を作り、やがて広域連合として「伊自牟国 イジムノクニ」が成立します。
目の前の太平洋を「玉浦」と名付けたのは、この外来定住民族でしょう。

全国には玉之浦、玉野浦、玉浦と称する海岸がいくつかあります。
いずれも海の幸に恵まれた場所であり、外房の太平洋を見た西国からの移住者が、「ここは玉の浦だ」と直感的に思ったのは理解できます。

では、豊かな海をなぜ玉の浦というのでしょうか。

豊かな海の恵みの神様、竜宮城の主を「綿津見 ワタツミ」といいます。
「ワタ」は「海」の古代語で朝鮮語由来、「ツ」は接続詞の「の」、「ミ」は「霊、神」を意味します。
ワタツミの別名が、豊玉彦。

豊玉姫は『古事記』『日本書紀』では豊玉彦の娘とされていますが、豊玉彦・豊玉姫と並べてみれば父・娘とは思い浮かばず、夫婦だと思いますよね。
本来は、海の神(男性)=豊玉彦、海の神(女性)=豊玉姫で、固有名詞というよりも一般名詞だったと思われます。

玉の浦とは、豊玉彦・豊玉姫が住みたもう海。
「玉」とは大切な宝物=海の幸のことでしょう。
豊玉彦・豊玉姫があふれるばかりの海の幸を分け与えてくれる「宝の海」―それが玉の浦です。
でも、それだけの意味ではありません。
                               (来週金曜に続く)

 

関連記事
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

ブログ、拝見いたしました。広範囲にわたり、足で稼いだ労作に感心致します。いろいろ知らぬことも含まれており、参考にさせていただきます。今後もよろしく。

筆無精な人間なので中々更新も出来ておりませんし、日本武尊伝説等にスポットを当てたものではありませんが、一応私のブログです。宜しければ、お立ち寄りください。http://rd.yahoo.co.jp/blog/smart/article/mytop/*http://m.blogs.yahoo.co.jp/takuya718_126fh6135