★節分あれこれ

節分ザル
     画像は中央市豊富郷土資料館HP(→こちら)から転載

暇つぶしに 『目からウロコの民俗学』 という古本を読んでいたら、いすみ市の北隣町、長生郡睦沢町の昔の節分の行事が記載されていました。

――ヒイラギや豆の木を燃やした火を使い、焙烙(ホウロク=素焼きの皿)で豆を炒り、神棚に供えた後、「鬼は外、福は内、鬼の目玉ぶっ潰せ」と言いながら家中を清める。――
最近は鬼の面をかぶったご主人が鬼に扮し、豆をぶつけられる役回りになっていますが、
もともと、家にすくった鬼は目に見えるわけがない。
だから、家中、家の隅々まで豆を撒いて清めるのが本来の豆撒きなんでしょうね。
なにせ、豆は ”魔滅 マメ” ですから、小豆より大豆の方が強力そうです。
家に住み着いた不幸の根源=鬼を追い出し、立春の日をすがすがしく迎える伝統行事でした。

さらに、―――年齢の数だけ豆を食べると厄を逃れる――
昔は0歳児というのはありませんでした。誕生と同時に1歳でした。
また、誕生日を祝う習慣もありませんでした。
家族全員、いや日本中の人々が節分を区切りとして一斉に1ツ、齢を重ねました。

現代社会では誕生時は0歳から始まり、誕生日ごとに年齢を1ツ加える「満年齢」が基本ですから、節分で食べる豆の数はいくつなのか混乱があります。
今年、何歳になるのか、その数だけ食べるのが現代風でしょうか。
もっとも、私ぐらいの年齢になるとその数の豆を食べるのは大変ですから、1粒で10歳としています。

睦沢ではさらに独特の習慣がありました。
――大きくて目のあらいザルを逆さにして竹竿の先にくくりつけ、屋根の上に載せておく。
翌朝、「鬼がかかっているぞー」と叫び、子どもたちをおこす――

いすみ市でもそんな習慣があったのかと年配の方に訊きましたが、知らないとのことでした。
睦沢町の歴史民俗資料館の話では、「皆無とは言えないが、もうそのような習慣はないでしょう」 とのことです。

調べてみると他にもザルを掲げる習慣があった地域がありました。
西隣りの大多喜町西畑地区でも竿につけた目のあらいザルを屋根におく習慣があったといいます。
画像をお借りした山梨県中央市豊富地区も郷土資料館のHPに掲載されていました。
どうやら鬼は一つ目小僧のようで、目が多いザルを見るとおびえて逃げ出すと考えたようです。

睦沢町の続きです。
1年の区切りである節分の夜はこの1年の天候・吉凶占いも豆で行いました。
――12か月に見立てた12個の豆を囲炉裏の炭火におき、黒くなれば日照り、白い灰になればシケ、転がってしまえば強風だという。その焦げ具合を見て稲の作柄を選ぶ。ワセ、ナカテ、オクテの三通りで判断して種を撒いたという――
節分が神事だった頃の名残でしょう。
今では節分の豆は、炒り豆を購入するのが普通ですから、このような豆占いはできませんね。

もうみんな昔の習慣となり、知る人もいなくなりました。
今では節分というと、どこのスーパーでも恵方巻の大宣伝。
子どもたちは節分といえば恵方巻を思い出すことになるのでしょう。


 
 
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★旧正月になれば梅の花も咲きそろう

紅梅 白梅
       紅梅白梅とも隣町(一宮町)で撮影

中国では春節(日本の旧正月1/28)の大連休が始まり、日テレによれば30億人が大移動すると言います。日本への旅行客も大挙して来ることでしょう。
中国のみならず、台湾、ベトナムやタイ、シンガポールなどでも祝日です。
横浜、長崎、神戸の中華街でもお祝いムードで爆竹が鳴り響き、大騒ぎになります。

年末年始は「ゆく年くる年」で、除夜の鐘を聞きながら1年を振り返り、翌年の幸を願って静かに迎えるというのはどうやら日本独特の風習らしい。
南米・北米・ヨーロッパ、そして中国でも新年のカウントダウンをして、その瞬間に花火が上がり、祝福の大騒ぎをするということです。
日本でも、渋谷のスクランブル交差点では見知らぬ者同士がハイタッチをして興奮状態になりました。

さて日本の新春には梅がふさわしい。
いすみ市の梅はまだチラホラですが、一宮町では満開になっている梅が多くみられます。
後10日もすれば立春(2/4)となり、いすみ市でも本格的な梅の季節となるでしょう。

    東風(コチ)ふかば にほひ起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ  菅原道真

東風をコチというのはきっとすごく古い日本語なのでしょう。
南風をハエと言うことはたまに聞きますが、北風、西風はあまり聞きません。

北風は冬、南風は夏ですから、東風は春に相当します。
この場合、実際に東風が吹いたか、本当は南風だったかは問題ではありません。
春になったら思い起こせ、と言っているのに等しいのです。

あるいは西の大宰府にいた道真は、東からの風、つまり京都方面からの風に懐旧の念を抱いた歌だったと読むことも可能でしょう。
誰も自分を思い出してくれなければ、ここまま西の果ての大宰府で生涯を終えねばなりません。
そして実際、ここで生涯を閉じました。

京都にあった旧道真邸の梅の木だけが道真を慕たって飛んできたという飛梅伝説は、中央政界から見捨てられ、孤独に死んだ道真を地元の人が気の毒に思い、道真公が梅の花を愛していたという実績から生み出した伝説ではないかと、ふと思います。


蛇足
千葉県銚子電鉄の駅に笠上黒生(カサガミクロハエ)という駅がありました。赤字ローカル鉄道ゆえにネーミングライツ(命名権)を売って今や『髪毛黒生』(カミノケクロハエ)という衝撃的な駅名になりました。
クロハエとは「梅雨の雨雲が垂れ込めて、暗く陰鬱な 空模様のときに吹く湿った南風を言う」そうで、どちらかというと強風です。
そして笠上地区は岩礁地帯で、江戸時代から航海の難所として知られていました。
笠上で難破船が出るときは決まって黒生とよぶ強い南風が吹くときだ――ということでついた地名なのでしょう
遭難慰霊碑が建っている海岸です。



 

★新感覚調味料、レモン酢・塩レモンを作ってみた

レモン酢塩レモン
         画像左=レモン酢    画像右=塩レモン

いつも里山ボランティアでご一緒しているOさんは、庭のレモンの実をたくさん持参して「どうぞ ご自由にお持ち帰りください」と太っ腹。
地元産直店で売っている無農薬レモンよりずっと見目麗しく大きなレモンでした。

レモンはジャムを作る時にしか購入しませんが、せっかくのご厚意なのでいくつかいただきました。
レモン酢は最近、話題沸騰のようで、レモン酢関係の書籍も出ています。

新聞に載っていたその本の宣伝文句を列挙すると 
やせただけでなく整腸効果もあり、便秘も改善、耳鳴りもおさまりました・レモン酢を続けて10kgやせた・代謝が上がり、血圧、血糖値、中性脂肪の量は下がって正常値に近づいています・細胞の老化を防ぐと聞いて飲みだすと、肌がツヤツヤと白くなったと言われた・レモンのおかげか、疲れがとれて、行動的になれた――とまぁ、万能薬のような扱いです。

宣伝文句を信じるかどうかは別にして、レモンの新しい利用法として作ってみることにしました。
国産無農薬レモンですから気が楽です。

レモン酢
良く洗って水けをふき取ります。
なるべく薄く丸切りし、氷砂糖を適当量(レモン重量の2/3程度)用意し
消毒したビンにレモン・氷砂糖を交互に入れ、すき間を酢で埋めれば仕込み完成。
酢は手元にあったりんご酢を使いましたが、米酢でも黒酢でも何でも良いと思います。

レシピによってはレモンを細切れにしろだの、レンチンしろだの書いてありますが、一番簡単な方法で作りました。

塩レモン
塩レモンはレモンをぶつ切りにして塩で埋めただけです。
数日するとレモンから水分が出てきます。
すぐ使い始める人がいますが、1か月以上寝かしてから使うという人もいます。
レモン酢も塩レモンも使い方はご自由用です。

酢にせよ塩にせよ、通常の酢や塩と同じように使いますが、レモンの風味が加わって、なかなかよろしいという評判です。
使うときに、クタクタになっているレモンを一部取り出してさらに細かくして料理と一緒に食べてしまいます。
レモンを食べることで健康向上に役立っているのでしょう。


 
 

★1月25日は 『八百屋お七の火事』の日

         八百屋お七
    火の見櫓(ヤグラ)のはしごに登り、半鐘を打つお七

先だっての糸魚川大火災は中華料理店から出火し、折からの強風にあおられて飛び火し、甚大な被害となりました。
死者が出なかったのは不幸中の幸いで、糸魚川の消防・警察・行政の連携が良かったのだと思います。

現代社会では失火の刑事罰はたいしたことなく、中華料理屋のご主人は死刑になることはありません。自宅が消失しても、火災保険に加入していなかった人は丸損です。

江戸時代は放火の罪は殺人罪よりも重い罪でした。
1683年1月25日、当時の暦では天和二年師走28日正午ごろに出火し、鎮火は翌日の朝だったそうです。大火の死者は3500人にもなり、俗に「八百屋お七の大火」とも呼ばれています。
翌年、お七は放火犯として大森の鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑となります。

鈴ヶ森の近くに勤めていましたから刑場脇を通ることが何回かありましたが、今では立て札一つが立っているだけで、刑場だった面影はありません。完全に市街地になっています。

しかし天和の大火はお七の放火ではありません。駒込の大円寺から出火とされています。
本郷の八百屋の娘・お七はこの大火で焼け出された被害者で、一家そろってお寺で避難生活を送っていました。
そのお寺の寺小姓と良い仲になりましたが、やがて本郷に八百屋が再建されると、隠れた恋ですから二人は別れねばなりません。
悶々と暮らしたお七は、もう一度火事が起これば恋しい人に会えると思いつめます。
そして放火に至るのですが、それはボヤで消し止められました。
ところが放火した現場を見られたために逮捕されます。

当時も少年法みたいのがあって、15歳未満なら減刑になるので、奉行所は「本当は14歳だろう」と助け船を出したのに、「16歳だ」と言いはったので、放火犯=火あぶりの掟に従った判決になりました。

この「実話」を本ダネにして大阪の井原西鶴が『好色五人女』を執筆して大当たり。
歌舞伎・浄瑠璃で演じられ、舞台ではボヤじゃ面白くないので、お七が火の見櫓の半鐘を鳴らすという場面に変更されています。(画像)
火事でもないのに半鐘を鳴らすのは、これもまた重罪でした。

西鶴のフィクションが独り歩きし、本当は何が真実か現在では不明です。
ともかく天和二年は、江戸の大火として記憶に残りました。
あの大火がきっかけでお七さんが火刑になったのネ――という話からその大火そのものが「お七の大火」と呼ばれるようになり、やがてその火事の放火犯だと誤解されていきます。

火の始末、火の用心は大切ですね。
大勢の命を奪い、財産を奪い、人生を狂わせます。
今の時期は大寒で、今朝は零下の気温、最高気温も10℃にならず、湿度は20%台。
西高東低。風も強く、もっとも火災に注意すべき時期です。

蛇足
1)
ワープロが普及し始めたもう何十年も前の話。
同僚が八百屋オヒチと言いました。江戸=東京の住民はシとヒを区別できません。
オシチだと言っても納得しませんでした。ワープロで入力して初めて負けを認めました。
高校時代の地理の先生は朝日新聞をアサシヒンブンと発音していました。

2)
お七の生まれ年は丙午・ヒノエウマ だった言われています。(今年2017年は丁酉・ヒノトトリ)
ヒノエウマ年の女は気性が荒い、男の命を縮める――などの迷信は八百屋お七の頃からでしょう。
最近では1966年がヒノエウマ で、出生率が激減しました。
次回のヒノエウマ は2026年。その頃はもう、迷信そのものが消失していると信じたいところです。


 
 

★戦国時代末期の「椎木城」跡地

椎木城
      般若寺入口の急峻な坂を登り、画像右手の台地

JR外房線・太東駅の東側に国道128号が通り、房総半島の主要な街道になっていますが、戦後になってから細道を直線化、拡幅、新設された道路です。
歴史のある古くからからの街道は太東駅西側の椎木商店街の街道で、伊南街道と呼ばれていました。
現在は県道152号です。
伊南とは夷隅郡南部という意味で、伊北とは夷隅郡大多喜方面を指していました。

戦国時代、伊南万木城(マンギジョウ)に陣取る土岐氏と、伊北に陣取る正木氏は敵対関係にありました。
それどころか、南の大原には槍田氏、北の長南には武田氏も穀倉地帯である万木の地を奪おうと死闘を繰り返していました。

今から思えば、何も殺し合いをしないでも、と思いますが、戦国時代とはそういう時代で、親族が殺されたから復讐だ、という負の連鎖の時代でした。
椎木城は北の武田氏にそなえる砦のような城です。

伊南街道・椎木交差点を北に少し行くと太東郵便局になり、交差点付近がかつての繁華街の中心かと思われます。郵便局をさらに少し北上すると般若寺があります。
周囲を崖に囲まれ台地の上にあり、平安時代から続く天台宗の名刹です。この急坂は自動車でもキツイので、自転車族が体力を競い合う舞台になると聞いたことがあります。

つまり椎木城は伊南街道には接していませんが、伊南街道をすぐ封鎖できる位置にあり、しかも旧矢上村へ続く街道に接しており、また旧古沢村に続く街道との分岐点にあります。
武田氏がどこから侵攻してくるか、どのルートからであっても対応できる場所です。

昔はここが交通の要衝(ヨウショウ)の地だった位置にありました。
東西南北どちらの方角にも出陣できる好位置に砦を築いたのは昔の人の慧眼(ケイガン)です。

般若寺の急坂を登り、本堂の南西の不動堂付近が椎木城の本体があった場所だと考えられています。
防衛に適したこの急峻な高台から周囲を見渡し、いざという時に備えたのでしょう。

わたしの手元に 『千葉県いすみ市を対象とした集落形成の調査』2015 という小冊子があります。
千葉の某大学院建築学の院生が中心になってまとめたようです。
その冊子の地図では、椎木城が伊南街道沿いで、隣町・綱田村との境界付近に図示されていました。

院生がどのような資料に基づいて ここが椎木城跡地としたか 知る由もありませんが、
その位置だと伊南街道はすぐ封鎖できますが、他ルートを侵攻する武田軍には対応できません。
何よりも防衛に適した急峻な丘がありません。

院生が椎木城はどこにあったのか、『岬町史』など基本資料さえ参照していないのは残念なことです。
一度文章になって公表されると、それが独り歩きすることもあります。
文章を発信する人は裏付けをきちんと取る――ブログを書くわたしの自戒です。


 

 
 

★寒風に干し大根

大根1大根2大根3
   すっきりした青空に大根を干す

房総半島は雨が少ない。まして雪になることはめったにありません。
房総の山々は標高が低く、最高峰の愛宕山でも408m。せいぜい300mレベルの山並みが続いています。
そのため太平洋からの東風も、東京湾を越えてくる西風も山脈にぶち当たって雨雲を作るということが少ないのでしょう。

連日、気温は寒くとも晴れて乾燥した日が続き、干し野菜を作るには絶好の季節です。
寒いから台所作業です。

泥の付いた大根を頭を切り落としてから、よく水洗い。
大根本体の皮をむくのが上品だけど、むいてもむかなくとも 歯ごたえ・味に大差はありません。
皮付きの方が栄養価は高いでしょう。

円盤形にスライスした大根と、千切り大根の二種類干しました。
うっすらと色が変わり、カサカサになるまで干すには数日間かかります。
干しが足りないとカビの原因になりますが、冷蔵庫保管ならば問題ないでしょう。

干せば栄養価は高くなるけれど、たいてい水に戻して使いますから、単位重量当たりの栄養価はたいして変わらないでしょう。
植物繊維とカルシュームは戻しても増えているそうです。不思議ですね。

煮物やみそ汁の具に大活躍しますが、油で炒めるのも良いという話です。
炒めると言えば大根の葉ですが、そう大量に食べられるものではありません。

葉もきれいに洗って刻み、乾燥させます(画像右)
葉は干物ネットに入れておかないと、乾燥した葉は風で飛ばされてしまいます。
これは “大根葉風呂” 用です。

野にあるヨモギの葉でも入浴剤になります。
食用になる野草なら安全ですが、スイセンなどの毒草は入浴剤にはなりません。
見た目や香りが良いからなどと ウカツに利用すると新聞沙汰になってしまいます。


 
 

★味噌つくりの強力助っ人

ミンサー
     ミンサーを購入
 
今年も味噌つくりの季節になりました。
新大豆が出回り、雑菌の恐れの少ない小寒、大寒の時期、つまり旧正月の前、旧暦師走(シワス)に味噌を仕込むのが日本の風習でした。

毎年、友人・知人と一緒に味噌を作っています。
大豆を蒸す鍋の都合で、大豆は500gずつ蒸しあげ、ポテトマッシャーでつぶします。
だんだん仲間が増え、今年は大豆を13kg購入しました。

蒸した大豆をポテトマッシャーで少しずつつぶすのは手作り感満載ですが疲れます。
それで今年度、購入したのが画像のミンサー。
ひき肉を作る道具で、大豆をミンチするのも便利です。
昨年と比べると圧倒的に作業が楽で、はかどりました。

ところが、大豆があまりにもきれいにつぶれるのが不満に思えてきました。
手作り感があまりないのです。
人間って、ぜいたくな生き物ですね。
それで手作り感、達成感を満足させるために、一部をマッシャーでつぶして仕込みました。

大豆が完全にはつぶれてなく、味噌汁にしたときに「カス」が残る時があります。
手作り味噌は、それがまたいいんだよね、ということです。

お汁粉でも、粒餡(ツブアン)か漉し餡(コシアン)か、好みの差があります。
粒餡がすきな人が、大豆の形がわずかに残っている味噌が好きなようです。
漉し餡みたいな味噌だと市販品と同じような感じがするからでしょう。

つぶした大豆に塩麴を混ぜ、団子にして味噌樽に投げつけ、空気を抜いて仕込みます。
塩と焼酎を使ってカビが生えぬ処理をし、重石はビニ袋に入れた塩です。
こうすると中身を密閉できるので空気が遮断され、カビが生えません。

味噌つくりはカビてしまうと、また来年も作ろうという気にはなりません。
夏を越してフタを開けた時に、きれいな味噌で、しかも家族に美味しい味噌だとほめられると作って良かったと思います。

カビてしまうか、カビないか、最後に気を配って仕込みを終えます。
寒の時期の寒さの中でじっくり・ゆっくり発酵が進み、
夏の暑さをくぐり抜け、無事しのげば味噌の完成です。


 

★庭のメジロ

メジロ
    ミカンにつられてやってきた

何有荘にノラ猫が住み着き、ここが自分ちだと思っているらしい。
朝晩、エサ遣りをしているのだから、もうノラ猫だとは言えないのかもしれませんが…。
頭の良い猫で、叱られるので決して室内に入ろうとはしません。
しかし天気の良い日は濡れ縁でのうのうと横たわっています。

だから今年は野鳥のエサ遣りはやめようと思っていました。
時々、スズメが犠牲になっていますから。
それに、ヒヨドリがエサを独り占めしようとするのを追い払うのも面倒です。

ところが山茶花(サザンカ)の花が盛りを過ぎたころから、庭木の枯れ枝にメジロが飛んでくるようになりました。
もしかしたら、“たしか去年はここにミカンがあったはずだ”なんて思っているのかもしれません。
たまたま干からびたミカンがあったので枝に刺したら、すぐ飛んできてご機嫌につついています。
チイーチュルチュル とさえずっているのは雄でしょう。
雌はあまり鳴きません。

1羽で来るときも、2~3羽で来るときもありますので、まだツガイにはなっていないようです。
椿が咲き、梅の花が咲くようになるまで、たぶんエサ不足でしょうから
猫がジャンプしても届かない場所にしばらくはミカンを置いてやりましょう。

ついでながら、梅の花に来るのはウグイスではなく、メジロです。
メジロはあまり人を怖がらず、こちらがジロジロ見ても動ぜず、熱心に蜜をつついています。
ウグイスはめったに人前に姿を見せません。

世に言う “ウグイス色 (黄緑)” はメジロ色で、本当のウグイス色はもっと茶色がかった渋い色です。
JRも悪いんですよ。ウグイス色のラインが入った電車は山手線だなんて言うもんですから、黄緑をウグイス色だと思い違いをしている人が多いと思います。

メジロは名前の通り目の周りが白く縁どられています。
だから、スズメよりやや小型で黄緑色、眼のふちが白ければメジロです。
まん丸目玉がかわいいのですが、よく見ると恐竜の子孫らしく恐ろしい顔つきをすることもあるんですよ。


 

★木へんに春と書けば椿です。

椿
    ようやく近隣の庭で椿が咲きだした。

日本でできた漢字を国字と言い、本家の中国にはない文字です。
峠、枠、杣、笹、躾、畑、働 など数々ありますが、椿も国字です。

万葉集の時代、椿は中国流に“海石榴”と書いてツバキと読ませたのだから不便ですね。
面倒くさいから漢字を作っちゃおうと考えて“椿”が生まれたのでしょう。
緑のつややかな葉とあでやかな赤い花は春を迎えるのにふさわしい花です。

考えてみれば緑と赤の組み合わせは、正月の千両、万両と同じですし、クリスマスカラーのポインセチアや西洋ヒイラギも緑と赤の組み合わせです。
ダヴィンチの“最後の晩餐”でも緑と赤が効果的に使われています。
洋の東西を問わず、常緑樹は永遠の命の象徴として扱われてきました。

ところで、椿という文字は本家の中国にも本当はありました。チャンチンというセンダン科の落葉高木だそうです。
国字と漢字の“椿”が存在し、同じ漢字が日中で意味が異なることはよくあることです。

ツバキを“海石榴”と書くのは解せませんが、海外から来た石榴(ザクロ)に似た花の意味だそうです。
ザクロも真っ赤な花で、中国の政治家にして詩人の王安石が「詠柘榴ザクロヲヨム」という詩を残しています。
その一節が有名な「万緑叢中(ソウチュウ)紅一点」で、紅一点の語源です。

“あたり一面の緑の中で赤い花が一輪、気高く咲いている”が本来の意味です。 
春をめでるのに雑多な言葉はいらない、紅一点あればそれで十分だと言っています。
暗に多言の人を批判しているのか、俗に染まらぬ孤高の人を理想としたのか…。
いずれにせよ、男の中に女が一人、という単純な話ではありませんでした。

画像の椿の花、紅がいくつもあり、紅一点とは異なりますが、絡み合った緑の葉の中で赤い花が咲いているのを見るといつも王安石の「万緑叢中紅一点」を思い出します。


 

★臘月(ロウゲツ)の蝋梅(ロウバイ)

蝋梅2
     まるで蝋細工のようにつややかなロウバイの花

中国では旧暦が生きていて、1月28日(土)が2017年の元旦、春節といいます。
その前日から2月2日(木)までなんと7連休。日本にも観光客が押し寄せることでしょう。

ということは本日はまだ12月だということになります。
12月の別名は師走のほかに数多くあり、その中に「臘月(ロウゲツ)」があります。
古代中国で、冬至の後の3回目の戌(イヌ)の日に猟を行い、その獲物を神に供えて1年最後の祭りとしました。その祭礼を“臘”といい、それが12月の異名になったものだといいます。

臘月に咲く梅に似た花だから蝋梅。
蝋梅が咲くころだから臘月なのではありません。
また蝋(ロウ)細工のような花だから蝋梅だという説もありますが、たぶんコジツケでしょう。

昔の人は年の暮れに咲く蝋梅を見て、あぁ今年ももう年末だ、と感慨を深くしたそうです。
現代日本人は梅よりも一足早く咲く蝋梅は、年初めの縁起の良い花、春を迎える花でしょう。

都会暮らしの時は、新年になると、なんとか蝋梅の花を見ようと遠出したものですが
いすみ市には庭に蝋梅を植えているお宅が何軒かあり、良い香りが漂います。
里山にもどなたかが植えて下さり、画像は里山で撮りました。

今朝も氷がはる寒さでしたが、そうであればこそ、春の兆しを見つけると嬉しくなります。