★秋の花、ホトトギス

ホトギス
 
今の季節、里道や山道を歩いていると気づく野草がホトトギス。
画像は飯綱寺の庭園で撮影したもので、和風庭園には野草もよく似合います。

Wiki には花弁が6枚と記述されているけれど、正確には3枚で、後の3枚は萼(ガク)が変化したものです。
このような花はユリ科の特徴ですから、ホトトギスもユリ科に属します。

ユリの仲間だと言われても、にわかには納得できません.
でも、花の形態だけでなく葉の形や葉脈もある種のユリに似ているじゃないかと指摘されればシブシブ納得せざるをえません。

百合の花との一番の違いは、何といっても花が二階建てになっているように見えることでしょう。
こんな形の花は他にないように思います。
花の中央のメシベがすっくと立ち上がり、上部で6本に散開するので、花の中に小さな花が咲いているように見えます。
しだれた茎の間に点々とホトトギスの花が咲くのは愛らしい風情があり、もしも秋の七草を新しく選定し直すとすれば、このホトトギスを推薦したと思っているくらいです。

hototogisu.jpg 香川の県の鳥・ホトトギス

名前の由来は、花びらにある紫色の点々模様が野鳥のホトトギスの胸の模様に似ているからだとか。
似ていますかねぇ。
中国では野鳥のホトトギスを 「杜鵑」 と言うので日本でも杜鵑草と書いてホトトギスと読みますが、まず無理ですね。読めません。
それにしても果たして中国でも日本と同じように野鳥ホトトギスとこの花が同名かどうか。
手元の日中辞典ではわかりませんでした。

英名は Toad lilies。Toad とはヒキガエルのこと。
紫のドット模様がヒキガエルの肌の模様に見えたようです。
イギリス人に風情を求めるのは、まず無理と言うことなのでしょう。


 
 
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★お彼岸の墓参りと松の枝

墓前
       お隣さんの墓前には松の枝が

往復6時間かけてお墓参りに行ってきました。
墓前には季節の花を添えて 「幸せに暮らしているから大丈夫」 と報告しておきました。

由緒あるお寺なので江戸時代の古いお墓もあり、最近建てられた新しいお墓もあります。
いくつかのお墓には画像のように松の枝が飾られていました。
松は古くから神霊の宿る木とされ、祭礼に用いられ、待つの意味を持ち、永遠にあなたを忘れないという願いが込められています。

能の舞台の正面にはみごとな老松が描かれていますね。
能は多くの場合、神あるいは死者の霊が登場して過去を物語ります。
その舞台に描かれた老松は霊を暗示するものと考えて良いでしょう。

若松は元気さ、生命力の象徴として正月の飾りに。花札の1月の図柄も若松です。
♪めでためでたの若松様よ、と婚礼の席で歌われもしました。
一方、老松は不老不死・不老長寿の象徴として七五三の千歳飴の袋に描かれています。

      磐代(イワシロ)の 浜松が枝(エ)を 引き結び
             真幸(マサチ)あらば また還り見む  有馬皇子(巻2-0140)

歌の意味は――磐代の浜に生えている松の枝を結んだ。幸いにして許されたなら、帰り道でこの枝を見る事にしよう。――
松の枝を結ぶとは、長寿のおまじない、または永遠の誓いのパフォーマンスでした。
有馬皇子が中大兄皇子の謀略にかかり、謀反の罪で連行される時の歌。
この翌日、絞首刑。18歳でした。

松に関しては聖徳太子3歳時のエピソードも有名です。
――父が庭の松の枝と桃の花の枝を手に取り、どちらが好きかと尋ねた。太子は「松が好き」と答えたので、父は不思議に思い、なぜかと再度問うと、「桃の花は美しいけれどはかなく、松は万年枯れることがないからです」と答えた――

栄華を求めず、真理のみを幼い時から求めていたという太子のエピソードです。
いかにもウソ臭い話ですが、松の枝が持つ意味を端的に伝えています。

時は移り、現代社会ですからお彼岸のお墓の前は花盛り。
それでも伝統的な 「御松」 を飾る方がいるのですねぇ、感心しました。
ちなみに、歴代住職様の墓前は松+仏花でした。


  

★これが銀行からの偽メール 

無題
   個人情報の不正入手をたくらむメールが届いた

東京三菱UFJ銀行から『メールアドレスの確認』と称するメールが届きました。
これは偽メールです。

 1. 銀行が「こんにちは」で書き始めるなれなれしいメールなど出すわけがない。
 2. 日本語が一部不自然。
 3.担当者の部署、職名、氏名、電話番号、メールアドレスなどの記載がない。
 4. つまりこんなメールを出したら上司からの評価が最低となるシロモノです。
 5. これはメールアカウントの確認と称しながら、個人情報を引き出す手口です。

以前にもこのような偽メールがありました。
その時は東京三菱UFJ銀行に、こんな偽メールが届いたと連絡したのに、銀行からは何の反応もありませんでした。
だから今回は連絡しません。
被害が出たら東京三菱UFJ銀行の対応が鈍く、不誠実であることに一因があるでしょう。
この銀行は窃盗団に狙われていると思います。

振り込め詐欺など、善意を利用した悪質な手口が広まっています。
アドレスの確認など、そもそもする必要はありません。
少しでもおかしいと思ったら、絶対にワンクリックなどしないことが上策です。
利用者は自分で身を守らねばなりません。
嫌な世の中です。

 
 

★彼岸花の季節

曼珠沙華
   仏教では天界に咲く花と言われている

明日は彼岸の中日。秋の彼岸前後に必ず咲くので彼岸花。
今年も季節を間違わず、あちらこちらで咲いてもう彼岸だなと知らせてくれます。

彼岸とはあの世という意味で、この世は此岸(シガン)といいます。
その間を流れる川が三途の川。
曼珠沙華とは仏教で言う天界で咲く花ですから、此岸であるこの世に咲いているはずはないのですが、まぁ、天界に咲く花と見まごうばかりに美しい花ということでしょう。

その川を途中まで渡って引き返すことがあるらしく、あの世は花が咲き乱れた素晴らしい世界で大いなる愛に包まれた―――と臨死体験者が語っていました。
地獄を見てきたという臨死体験者の報告はありません。
地獄とは宗教者や為政者が考えついた空想の産物、脅しの一種でしょう。

脳の血流がストップすると、大脳辺縁系はドーパミンだか何だかを放出し、あの世はとても良い場所だと幸福感に包まれて此岸を去るらしい。
脳波が停止したと従来考えられていた何秒間を精密な装置で計測したら微細な波が検出されたそうです。
その何秒間で良い夢を見ながら彼岸に行くのならば、寿命が尽きるのも楽しみかもしれませんね。

さて、彼岸花も曼珠沙華も仏教がらみの名前で、仏教渡来以前の名前は何だったのか?
原産地は中国ですが、縄文遺跡から球根の残骸が発見されていますから、大昔から日本に咲いていました。
それで全国各地に様々な名前があり、異名の数は1000を越えます。
それほど印象的な花だといえます。

韓国では想思花と言うことがあるそうです。
開花時期には葉がなく、葉があるときは花がない――男と女のすれちがい、韓流ドラマのような命名です。
日本でも「花は葉知らず、葉は花知らず」といいますが、おそらく韓国からの知識が影響しているのでしょう。
もっとも花と葉の時期がずれているのは誰にでも気づくことで、日本でも韓国でも同じようなことを考えたとしても不思議ではありません。


  

★大多喜藩の精錬所跡地から

出土土器
    上原(ウエバラ)で出土した土器と鉄くず

大多喜の上原には幕末に反射炉があり、洋式製錬が行われたと地元の一部ではささやかれてきました。

反射炉とはレンガ造りの溶鉱炉の炉の部分の天井がお椀型になっており、炎がそこに反射して炉の一部が高温になって鉄鉱石を溶かす仕組みになっています。
現存するものとしては伊豆韮山に、江川太郎左衛門が建設した施設が保存されています。
実用に供された反射炉として一番有名なのは佐賀藩で、江戸防衛のために築かれた台場に設置された大砲がここで製作されました。

幕末の反射炉としては他に薩摩藩、水戸藩が有名で、実物大復元模型が観光名所になっています。
長州藩ではレンガが不足し、玄武岩で組み上げた施設が残っています。

幕末の鎖国政策の下で、欧米のアジア侵略に抗して国防強化策が図られ、そのためには進んだ外国の知識が有効でした。
オランダ語の原書だけを頼りに反射炉を築いた江戸時代の人々は非常に優秀だったと感服せざるをえません。

そのような反射炉が大多喜にも存在したのでしょうか?
日本鉄鋼史のような文献には一切記載がないし、大多喜町史の記載もあいまいです。
つまり公式には大多喜の反射炉は認知されておりません。

しかし、火のないところに煙は立たず、何もない場所に反射炉があったというウワサが伝わるでしょうか。
現に上原では溶けた鉄くずやレンガの破片が発見されており、今回は地元のT先生より、画像のような土器の破片が発見されたとの連絡を受けました。
連絡を受け、公民館で現物を拝見しました。
厚手での土器で、溶けた鉄を受けるための道具だった思います。

大多喜藩の反射炉は未完に終わったと推測しています。
その細かい理由は省略しますが、そもそも反射炉は海防強化の大砲鋳造が急務だったから莫大な予算が投入されたはずで、現存する、あるいは記録がある反射炉はいずれも雄藩と呼ばれる金持ちの藩の事業です。
ところが、大多喜藩にはそれだけの経済力はなかった。むしろ困窮していた。
それにもかかわらず、大多喜藩主・松平正和は幕府きっての開明派若手官僚であり、藩の兵制を様式に改変して海防強化を図っているので、太平洋沿岸の領地の砲台に最新式大砲を設置する必要性を人並み以上に感じていた。
ところが時代は開国・通商と進み、大量の文物が日本に流れ込むことになります。そして欧米ではもはや高炉の時代になり、反射炉が時代遅れと知ることになります。
高性能武器は手っ取り早く輸入できる時代となってしまいました。

こうして反射炉建設の実験炉としての上原の施設は中途半端のまま沙汰やみとなります。
幕末の動乱で幕府陸軍の責任者を務めた大多喜藩主・松平正質はA級戦犯に指名され、大多喜城は官軍によって無血開城。実験炉の資料は散逸してしまったのでしょう。

文献資料には残っていなくとも、上原には鉄くずやレンガの破片、そして今回の土器片などの精錬関係の遺物が出土するのですから、少なくとも実験炉があったことは事実として認めるべきでしょう。
だからこそ、反射炉があったというウワサが地元に残されたのです。たとえそれが完成の域に達していなくとも、反射炉を作る気だった、そのような心意気だったことを地元の人は郷土の歴史として誇りに思って伝えてきたはずです。

遺跡出土地の現状は風雨にさらされ、看板一つありません。
もちろん観光協会のパンフには一行の説明もありません。
江戸初期の大多喜藩初代藩主・本多忠勝一色に町は染まっていますが、幕末の歴史にも脚光が当たれば良いのになと思っています。


 

★ヤドカリも食べられる?!

ヤドカリ1 ヤドカリ2
  引き抜くとこんな感じ              焼いて裏返して

ヤドカリはオイシイヨと言う人がいて驚きました。
人間って何でも食べてしまうんですね。それで真似して食べてみました。

1.貝殻から身を引き抜く
  そのままだと身を固くして殻の奥にこもり引き抜けない。
  それで水責め。水道水に漬けておくと弱って抵抗できなくなる。
  貝殻を回しながら慎重に身を引き抜く。
  途中でちぎれてしまうものもあり、その場合は貝殻を割らねばならない。
2.水道水で身をよく洗って汚れを落とす。
3.裏表をよく焼いて出来上がり。赤く色づきます。

上半身はまるで毛ガニのようなスタイルですが殻に隠れた下半身は何とも頼りない。
下半身は見てくれに反してたいして身が詰まっていません。
ワタもこの下半身にあります。

焼いたヤドカリはハサミで縦割りにしました。
一番おいしかったのは爪の身で、まさにカニの味がします。
脚などにはほとんど身がありません。
下半身は袋状になっており、中に身が多少あり、薄茶色のワタと一緒に頂きます。

タラバガニやハナサキガニはカニの仲間と言うより、ヤドカリの仲間だとは知っていました。(脚の数が違う)
椰子の実を食うような南方の大きなヤドカリは食用になることも知っていましたが、房総半島のヤドカリを食べてみようとは考えたこともありませんでした。

今回試食してみて、
小さなヤドカリはほとんど食べる所がない。
比較的大きなヤドカリは食べる所が少々はあり、その味はエビ・カニに似ている。
房総では何も好んで食べなくとも他においしい海産物がたくさんある――
好んで食べる人はどうぞご自由に、という感想でした。

 
 

★蕎麦の花

蕎麦の花

いすみ市では最近、あちらこちらで蕎麦の花が咲いているのを見かけます。
以前と比べて多くなったように思います。

蕎麦の花を最初に見たのはもうずいぶん昔、信州ででした。
一面に咲く蕎麦の花を見て美しいと思ったものです。
青い空と遠い山脈に白い花が映えて風にそよいでいました。
だから信州の蕎麦はおいしいのかと妙な納得の仕方をしました。

最近では震災後での会津で。
緩やかな斜面に蕎麦の花がどこまでも続いています。
これだけあると、どれほどの収穫量になるのだろうかなどと現実的なことを考えていました。

いすみ市に来てから里山ボランティアの会に参加し、その有志で蕎麦クラブなるものを作りました。
蕎麦を打って食べることから始まり、蕎麦の栽培にも取り組み、収穫・脱穀など並大抵の作業ではないことを実感しました。
だから蕎麦が高いのも納得しますが、逆に言うと米が安すぎるとも実感します。

もう一つ、蕎麦の花が結実するためには蝶や蜂など昆虫の力が欠かせません。
ところが昨年は結実してない実が多くありました。
蜜蜂の世界に異変が起きていると新聞ニュースなどで聞くことはありますが、わたしたちの蕎麦畑にも蜜蜂が少なかったのでしょうか。
蜜蜂を育てている人が、蜜蜂が脱走したと嘆いていたことと関係があるのでしょうか。

今年もまた蕎麦の花が咲き誇っています。
よく見ると蝶や蜂が飛んでいるので少しは安心しています。
豊作だといいな。


  

★桑田地区、前玉神社の移動式神楽宮

神楽殿1神楽殿2
   屋根に3本の御幣(ゴヘイ)がたち、神楽の面が前後に六面飾られている

いすみ市では今、お祭り気分です。お祭りのことを地元では “まち” といいます。

13日は一宮の玉前神社の例大祭。(十二社祭)。神馬も出てくる汐踏み祭礼。
23・24日は大原十八社の祭礼、はだか祭でここもまた豪快な汐踏みがあります。
25日は中根・長者地区の十三社祭。人間ピラミッドを作り「親の日だ」と叫ぶ奇祭です。
いずれも各神社の合同祭礼で、観光協会が大きなポスターを貼りだし、観光客でにぎわいます。

一方、桑田の前玉(サキタマ)神社のように地元だけの祭りを貫いている地区もあります。
14日は桑田地区のほか、古沢地区や国吉地区などでそれぞれの祭礼が行われました。
金をかけたポスターなどありませんし、観光客はほとんどいません。
地元の、地元の人による、地元のための祭礼です。

桑田地区の前玉神社の祭礼を初めて垣間見ました。
画像は大人神輿、子ども神輿の前を進む神楽宮で、笛や太鼓でにぎやかです。
むかし、桑田地区の人口がもっと多く、人々の娯楽が少なかった頃、神社の例大祭では神楽が奉納されていたそうです。
神楽の伝承は途絶えてしまい、いくつかの面が残されました。

それで神楽宮を作り、神様の乗り物である神輿の前を鳴り物入りで進み、神様に対する敬意と感謝を表すことにしたようです。
あくまでも神楽殿の縮小モデルであって神輿ではありません。
中をのぞいてみると、獅子舞の赤い獅子頭が鎮座していました。
囃(ハヤシ)し手の横笛の中にオーラソーマさんがいてびっくりしました。
屋根の上部前後には神楽面が飾られ、オカメにヒョットコ、それにたぶん英雄や悪人、田吾作に権兵衛、あるいは田の神様ではないでしょうか。
面白おかしい神楽だったのだろうと想像します。

産土(ウブスナ)の神様である神輿の行列は地区内を老若男女で練り歩きます。
時々、祭唄(マチウタ)が小学生を含むのど自慢によって披露されながら進みます。
休憩所になった楽働会のクニさんは、子どもたちが白い祭り衣装に身を包み元気にしている姿を見て目頭が熱くなったそうです。
地域の伝統的行事というのは人を感動させる力がありますね。

子どもの数の減少が危惧されている現代ですから、昔から続いてきた村祭りの伝統が将来どうなるかもわかりません。
しかし前玉(サキタマ)神社とは“幸魂 サキタマ”神社だという人がいます。
桑田地区の人々――お年寄りや子どもたちも祭礼を通じて幸せの魂が身に宿り、息災に過ごせることを願っております。

 

★初めて見た “サメの卵 ”

サメの卵
  何となく 『バットマンの巾着袋』 っていう感じ

伊勢エビ漁師の拓さん宅で網にかかった藻屑などを除去する手伝いをしている時にゲット。
「サメの卵だよ」と言われましたがにわかには信じられませんでした。
丈夫な黒いビニール製のようであり、四隅に奇妙な飾りがついています。
昆布かカジメの切れ端か? それとも海のクワガタムシ? 
ふっと思いついたのがバットマンの持ち物。
たぶんバットマンのお財布だろうと推測しました。

正確にはサメの卵殻 ランカク。
これは卵の殻で中にサメの受精卵が一つ入っています。
四隅の突起で海藻に引っ掛かり固定され、
ヒヨコと同じように、卵の中である程度成長すると殻を破って大海に泳ぎ出るらしい。

さすが海の王者サメだけあって、一つひとつ卵を産み落とす。
タラコなんてあれ全部が卵ですからね。
あれ全部が成魚になったら太平洋はタラだらけになっちゃうが、そうならないのは途中でみんな食べられてしまうから。
サメは一回にいくつ産み落とすか知りませんが、生存率は相当高いのでしょう。

いろいろ検索して次の画像を見つけました。 
    卵殻    画像元→●

確かにあの“巾着袋”の中でサメの赤ちゃんが育っています。
この画像はトラザメ(体長50cm)の赤ちゃんだそうです。

いやいや海の世界って奥が深い。
謎だらけの世界です。


 

★いすみ市大原、故郷の山は最上山(2)

       案内図
        大宿口の入り口にある最上山ハイキングコースの看板

標高89mの最上山山頂に小さいながら立派な最上神社の祠(ホコラ)があります。
登山口は三つ、北・東・西。
それぞれ大宿口登山口、坊谷口登山口、新田谷(ニッタヤツ)登山口と呼ばれています。
大宿、坊谷などなにやら由緒深げな名前がついているのは、おそらく房総修験道と関係があるのでしょう。
中でも東ルート=坊谷口ルートは細い登山道が岩肌を刻んで作られ、しかも苔むして歴史を感じさせる趣があります。
大原の旧中心街、昔の大原漁港からの最短の参詣ルートとしてにぎわったことが偲ばれます。

天然痘撲滅の神様は普通は疱神様(モガミサマ)といわれ、特に固有名詞がないのですが、ここは固有名詞のある神様なので驚きました。解説版に 「比比羅木其花豆美神」とあります。読めませんね。
振り仮名がふってあり、「ヒヒラギノ ソノ ハナマズミノ カミ」 とありました。

調べてみると古事記には大国主神の子孫として比々羅木之其花麻豆美神が登場します。
解説版の神様名には「之」麻」の二文字が脱落していますが、読み方は同一です。
この神様は、神様の系譜に出てくるだけの神様で、何の神様かはっきりしませんが、比比羅木とはヒイラギ(柊)のことですから、ヒイラギの化身、魔除けの女神だと考えられます。

実際に歩いてみると、そう多くはありませんが確かにヒイラギを見出せます。
ヒイラギを魔よけとして節分の日に飾る風習は今日でも細々と伝えられています。
邪悪な疱瘡も追い払う神力があると信じられたのでしょう。

となるとこの山頂の神社の創建はいつになるのか気になります。
古事記とは奈良時代の書物。
永らく秘本で世に知られるようになったのは本居宣長の『古事記伝』以後のこと。それにしても比々羅木…の神様なんて通常の人は知りません。

大原で最も古くて格式がある「上座(カミクラ)三社」と言われる瀧内神社、鹿島神社、日月神社には日本武尊伝説があり、それぞれ最上山頂から東南東、東南、南南東の位置にあります。
三つの神社からの視点が最上山に集中しており、そのことは山頂の最上神社の創建が三社と同じ頃、つまり日本武尊伝説の時代にさかのぼることを示唆しているのではないでしょうか。

大原は奈良時代の木簡に都への献上品としてアワビ゙を送ったとして知られる土地です。
その頃の大原の集落はこの三つの神社の周辺でした。
奈良時代の頃、比々羅木…の神様を信じる行者が、疾病に苦しむ大原の人々のために山頂で魔除け・疱瘡除け・疾病除けの祭礼を執行したのだと想像をたくましくするのはシロウトの歴史探訪としては楽しいことです。

以後、この山頂は疱神山(最上山)として、聖地の扱いを受けるようになり、山頂には松の大木が立ち並び、故郷の山として大原の人々の精神的な支柱となってきました--。

      ♪ 最上山 松は緑に 塩田川 流れは清し…。    (大原中学旧校歌)

ウサギ追いし彼の山…。最上山に野ウサギもまだいるはずですが、訪れた日にはキョンが不気味な声で鳴いていました。
山頂の松は枯れ、これもまた時代の流れなのでしょう。

なお山頂の最上神社は、真東にある山裾の八坂神社に明治44年に合祀されました。
八坂神社は通称・寄瀬の天王様で祭神はスサノオ。
ヒイラギ…様、オオクニヌシ、スサノオ、いずれも出雲系の神様です。
スサノオ、オオクニヌシは医療の神様ですから、八坂神社にヒイラギ…様が引き取られたのは誠にふさわしい場所をえたものです。

≪ハイキングルート地図≫
 最上山地図

           途中の道標                山頂の最上神社
     案内標識 山頂神社