★今も広常公を供養し続ける渡辺家の人々 

渡辺氏宅かぶき門
  江戸時代の名主の格式を残す渡辺家の黒塗り冠木(カブキ)門 

上総広常は源平の時代に源頼朝を支援し、多大な功績がありましたが、その勢力が強大であったために謀反を疑われ、1183年に謀殺されて一家断絶になってしまいます。

しかし広常に反意がなかったことは、広常が玉前神社へ奉納した鎧から証明されました。
頼朝は悔やんで、上総国で最大な供養を行ったそうです。
その供養のための布施料にあてられたのが現在のいすみ市大原の布施地区。

その布施地区の殿台は広常の館跡と目されており、その台地に登る手前に牛舎があります。
「いすみライフスタイル研究所」のSさんはその牧場に勤務していたことがあり、Sさんの紹介で牧場の渡辺さんにお会いしてきました。

渡辺さんのご先祖は広常の重臣で、広常の死後、布施名熊に定住し、一族は以来八百数十年にわたり広常公の供養を続けています。
いすみ市は歴史の古い町ですが、現在も古い歴史がそのまま生きているのかと感嘆してしまいます。

高さ30数cmほどの厨子扉の裏に、「総見院殿観寶廣恆大居士」という広常の戒名と 「建久辰七年九月廿五日  上総之介従三位平之朝臣広常卿」 と書かれ、中に広常の木造坐像が収められております。
相当古いものでボロボロに近くなったので、塗り直したら新品のようによみがえってしまいビックリしたと笑っていました。

その実物や写真は残念ながらお手元になく、拝見できませんでした。
というのも渡辺家の子孫一族、現在は十数軒持ち回りでこの厨子の広常公像を1年交替で自宅に安置して広常公の霊を祭るとともに渡辺家の先祖の供養ならびに渡辺一族・一家の家内安全等を祈願しており、「今年はどこの渡辺さんちにあるのかなぁ」ということでした。

昔は春秋年に二度、渡辺一族が集まり、広常像に礼拝し供養する集まりがあったと聞いていますが、やがて年に一度となり、現在は全員集合はめったになく、渡す家と受け取る家でお互いの都合の良い日どりで儀式が行われています。それで他の渡辺さんには広常公像が今どこの家にあるのか、調べないとすぐには分からない、とのことでした。

先祖伝来の貴重なものであり、受け取った家は1年間責任を持って預かり毎日礼拝するのだそうで、置き場所は床の間が多く、泥棒に盗まれないように気を遣い、その1年間は真心を込めて奉仕しており、決して義理や習慣だからと続けているのではないと強調されていました。

後日、Sさんを通じて渡辺さんから広常の下の木造画像がメールで届きました。
何かの役に立てば、ということでありがたいことです。

広常公

衣冠束帯という当時の高級貴族の正装で、黒い衣装は四位以上の者に限定されます。
右手に杓(シャク)を持つ若い姿で、やや微笑んでいる穏やかなお顔の像です。
鎌倉時代の芸術はリアルな写実主義が特徴なので、この木像が生前の広常公の面影を少しは伝えているのならば、広常公は穏やかな性格であり、『吾妻鏡』が伝えているような傲岸不遜な人物ではなかったことでしょう。

仏像のように壇の上に載っており、その壇の模様は笹の葉のように見えます。
頼朝の紋章は笹竜胆(ササリンドウ)とされ、現在は鎌倉市の市章になっていますが、当時、頼朝は無地の白旗を掲げ、無紋であることを源氏嫡流の誇りとしていました。
しかしながら、頼朝=笹竜胆という俗説が流行する下地として、鎌倉=笹という認識が当時からあったことを推測できる興味深いデザインです。

民俗学的にはこのような一族の集まり・グループを“名字講”といいます。
先祖を同じくする渡辺一族の集まりですから“渡辺講”というのが適切でしょう。

なお、厨子にある建久七年(1196)とは広常公の十三回忌にあたって厨子と広常公像を造ったと読み取れます。
また戒名は名熊の石造供養塔に刻まれたものとまったく同一ですから、これが広常公の正しい戒名だと断定して良いでしょう。
贈従三位という高位は余人には にわかには信じられませんが、この厨子と坐像が建久七年の物とすれば同時代資料として尊重されねばなりません。

若いご主人は、色々ある資料をそのうち整理してまとめてみようと思っているのですがなかなか暇がなくズルズルと、とおっしゃっていました。
ぜひその作業が成就するようにとお願いして渡辺家を辞しました。


  
スポンサーサイト

★ボロボロのブドウで純ブドウジュースを作る

ブドウジュース1ブドウジュース2
    大鍋で煮こんで 1.5ℓ できた

お米作り顧問のIさん宅には立派なブドウの木があるのに、今はもう放任状態。
市販品と比べれば大きさ不ぞろい、見てくれは悪く、それでもおいしいブドウができます。
ところが自家消費もままならず、ハクビシンのエサになっているとか。
それで「里山米クラブ」会員は 欲しければどうぞ とお墨付きをもらっています。
わたしが出かけた時は大方は採集された後でしたが、残りをチョキチョキとゲット。
そうとうボロだけれど食べられる物もあり、摘まんでみると確かにオイシイ。

≪純ブドウジュースの作り方≫

1.食べられそうな実だけを枝からはずし、丁寧に水洗いしてザルにあけ、
2.大鍋に入れて強火で15分。(画像左)液が上がってきている。
3.弱火で40分。実と皮が分離。全部分離してなくとも気にしない。
4.一度目は目の細かい金ザルでこし、二度目はキッチンタオルでこす。
  この時、大切な布巾など使うとブドウ染めになってしまうのでやめた方が良い
  こす時は自然落下。無理やりこすと苦みが出てしまう。
5.熱湯やアルコールなどで消毒したビンに入れて保存。
  火を通してあるが冷蔵庫保管が無難。
  発酵しだしてしまったら、そのままブドウ酒にすれば良い。
  さらに発酵してしまったら、ブドウ酢になりますヨ。
  ※皮は種を除いて砂糖を加えてさらに煮込めば<ブドウジャム>

やや煮詰まっていますからそのままだと濃いので、少しの水や炭酸で割るのが良いと思います。知人は焼酎で割っていました。

******

              布ぞうり
          最近の作品・布ぞうり(左右は23cm。中央は男性用27cm)


★豊葦原瑞穂国はいずこへ

ガマ

   たわわに稔り、刈り入れを待つ田の横にはガマ(蒲)が生い茂る

夷隅(イスミ)川が運んだ土砂が堆積したいすみ市の平野部は、いつ夷隅川が暴れるか分からぬ危険地帯であり、永らく葦が生い茂る低湿地・原野でした。
江戸末期から新田開拓が行われ、戦後は用水施設、排水施設も整って豊かな穀倉地帯に変わりました。
それが今は再び元の低湿地・原野へ戻りつつあります。
画像のように条件の良くない田んぼは耕作放棄され、蒲(ガマ)が生い茂り、葦がおい繁るようになりました。

葦原の景色も、ガマの景色もわたしは好きですが、耕作放棄地を見るとさびしくなります。
近隣の農家も80歳を超えると農作業がきつくなり、今年でやめるという話を時々聞きます。
日本の農家は政府の手によって安楽死を強いられているように感じます。

その一方で今年政府が打ち出した農業戦略は農協を解体し、一般企業が金儲けのための農業に参入しやすくする制度設計でした。
農家に対する補助は数年で打ち止め、それを参入企業に振り向けるのだそうですが、それで安心安全な食料が確保できるのかどうか。
ブラック農業企業なんてイヤですね。

わたしたち「里山」の仲間は耕作放棄地を借り、良心的な農家の援助・支援を受けつつ今年も稲刈りの季節を迎えることができました。
とても品質の良いお米で、親戚・知人に送って喜ばれています。

中国や米国と同じ土俵で張り合うのではなく、日本の農業の道は日本の歩む道として、細やかな配慮の下、品質・安心・安全を確保しながらであってほしいものです。


 
 

★ 8月下中の野の花

タマアジサイ
  タマアジサイのツボミはまるでちょっと大きなピンポン玉

アジサイの葉に似ているけれどアジサイにしては変だなぁと思う林間のアジサイが画像のタマアジサイ(玉紫陽花)

この近辺では梅雨が終わり、アジサイも終わった8月頃になると咲きだします。
画像のようにピンポン玉が割れて中から花が顔を出しますが、並行してピンポン玉の周囲からも花芽が伸びて花が咲きだします。
満開になると、その姿はガクアジサイとそっくりですが、ガクアジサイよりは葉が厚くてザラザラしており、ピンポン玉があちこちに残っているのでタマアジサイだとわかります。

品種改良されていない野生のアジサイで、山道の日陰、沢沿いでよく見かけます。
紫陽花の仲間ですからやはり水が好きなのでしょう。
どこにでもいる野生のアジサイだと思っていましたが、関西以南には分布していないのだそうです。

タカサゴユリ
   これは タカサゴユリ でしょうか

これも山道で野生の花をよく見かけます。
ところが今年、人家の庭や道路沿いに咲いているのを多く見かけました。
急に増えた感じです。

ヤマユリの季節と入れ替わり、8月に咲き始めます。
ヤマユリは豪華という印象がありますね。こちらはすんなりと清楚な雰囲気です。
昨年まで、テッポウユリだとばっかり思い込んでいたのですが葉の感じが違います。
よく見ると葉が細く、とんがってまばらな点がテッポウユリと異なります。
しかし、タカサゴならば、花の基部に薄い色が付くはずなのに純白。
困ったなぁ
ま、テッポウユリかタカサゴユリです。


 
 

★ アイナメのカルパッチョ 

アイナメのカルパッチョ
       新鮮なアイナメが手に入ったので洋風刺身にしてみました

慣れない魚はなかなか手が出ないものですが、漁師の拓さんちへ援農ならぬ援漁として網にかかった藻屑を取り除く作業をしに行くと、報酬としてその日に網にかかってしまった魚貝類をゲットできます。
何が手に入るかその日の網次第。好き嫌いなんて言っていられません。
アイナメがおいしい魚だと知ったのも援漁の成果です。

今回はお刺身風にスライスしてオリーブオイルをかけ回しました。
下に敷いたのは庭のキュウリのスライス。
赤と黄色の実は庭のミニトマトのドライのオリーブオイル漬け。
緑の葉は庭のイタリアンパセリ。
要するに食材はほとんどタダ。
これをお醤油でいただくとなんとなくカルパッチョ気分。
オリーブオイルと醤油の相性は抜群です。

田舎暮らしはどんなに暑くとも都会のヒートアイランドよりはマシ。
庭で作った作物と、知人が回してくれた作物と、海で採れた魚介類とあれやこれやがグルグル回って食生活は安上がりで新鮮で豊かで…
こういう何気ない平凡で平和な暮らしを「しあわせな暮らし」と言うのでしょう。

                      漁師工房拓のブログ→●

 

★東光寺――上総広常公の位牌 

上中下
   位牌の上部・中部・下部

いすみ市に合併する前の『大原町史』(1993年)に次のような記述があります。

――春谷山東光寺(曹洞宗) 上寄瀬区
当寺に現存している上総介広常の位牌に「天養元甲子年八月二十八日」とあるが天養元年は一一四四年であるので、広常没後八四〇年になる。―――

この記述は一読すると論旨明解ですが実は意味不明。
まず没後840年とは何を基準にして840年としたのでしょうか。
文章上からは天養元年を基準にしたと読み取れますが、広常の没年月日は1183年12月20日。
1183年を基準にして没後840年は2023年になってしまいます。

1144年(天養元年)を基準に840年加えれば1984年となり、町史原稿執筆当時まで840年となりますが、天養元年が広常の没年月日であるはずがないので、「広常没後840年」の記述は宙に浮いてしまいます。

原稿執筆者は位牌にある「天養元甲子年八月二十八日」を広常没年月日と勘違いして、本当の没年月日を調べなかったのではないでしょうか。
怠慢と言わざるを得ませんし、そのまま出版した編集責任者の責任も重いはずです。

さて、そういうわけで東光寺をお尋ねして現物を拝見し、お話をお伺いしました。
高齢のご住職は快く応じて下さり、位牌を奥から取り出して見せてくれました。

位牌は高さ40cm程度、黒漆塗り。長い年月で漆が乾燥しすぎて剥げ落ち、下地の木部や胡粉が一部見えていますが、文字はかろうじて読み取れます。

右にやや小さな文字で、「天養元甲子年八月二十八日」
中央に 「〇(判読不能)館 當寺開基 春谷院殿音山道観大居士 尊霊」とあり
左下にやや小さな文字で、「當国領主 上総之助廣庸公」 とあります。
背面は無地。

正直言って困惑しました。
一・二行目を素直に読めば、これは天養元年に亡くなった東光寺初代住職のご位牌です。

開基とは、たとえば唐招提寺の開基は鑑真和上である――のように初代住職を意味します。
法名(戒名)の書き出しに 「當寺開基」 と初代東光寺の住職だとはっきり明示してあり、春谷院殿とはこの寺の山号“春谷山”と同じですから、初代ご住職の法名にまず間違いありません。

通常、法名(戒名)は故人の業績、人柄、氏名等を暗示する文字が入るものです。
布施にある石造の広常供養塔に刻まれた戒名は「総見院殿観宝広恒大居士」で、いかにも上総の実力者にふさわしく、広恒と表記することで広常の戒名であることを暗示しています。

ご位牌と供養塔では戒名が異なり、それでもなお、このご位牌が広常の位牌だと記述した理由を原稿執筆者は何も語っていません。

問題は三行目で、奇妙な文字使いです。
通常、 「上総介」 と三文字で書くべきところを、「上総之助」 と四文字表記でしかも 「スケ」 の文字が異なります。
さらに「広常」が 「廣庸」 となっています。
はじめは広常とは別人、広常の親族の誰かが僧になり、このお寺の開基になったのかと思い、年上親族を調べみると、一族に廣庸なる人物はいませんでした。
漢字辞典で調べると、廣庸でヒロツネと読むことができます。
廣庸=広常と認定して良いでしょう。

今日の位牌は「俗名 〇〇××」と表記されるので誤解の余地はありません。
このご位牌の場合、法名の人物が俗名広常だとすると、広常=初代住職の意味になってしまいますが広常が僧職にあったとは聞いたことがありませんし、第一、没年月日が合いません。

ではなぜ三行目に広常の名が刻まれているのか、この位牌が広常の位牌であると断定してよいのか、謎は深まるばかりです。
しいて言えば、亡くなった初代住職のために立派な位牌を作ったのが広常である、と位牌に表記したと推測すれば合理的な解釈ができますが…。

ご住職は、「さぁ私たちもはっきりわからないのです。このご位牌だって本物だかどうだか。お寺に代々伝わっていますから大切にしています」と正直なお話でした。

『大原町史』の記述としては “上総広常の名を刻んだ位牌が伝わっているが、広常本人の位牌かどうか検討の余地がある” 程度の記述にしておくべきでした。
“現存している上総広常の位牌”と何の論証もなしに断定したのは早計でした。

なお、『大原町史』はこのお寺の山号を 「春谷山」 と表記していますが、これも間違いです。
昭和28年に釈迦谷(シャカヤツ)にあった龍谷寺を併合してから、龍谷寺の本尊も合わせ、山号を 「龍谷山東光寺」 と今は称しています。

釈迦谷の龍谷寺は広常の館があった布施の殿台に近く、広常の子息の病気平癒の祈願が行われたそうです。東光寺には広常の名を刻んだこの謎の位牌があります。
どちらのお寺も広常に関係深いお寺です。だから龍谷寺を吸収合併したのでしょう。

大原地域は広常の影が今でもチラホラ垣間見える地域です。


  

★酷暑が続いている 

かわせみ
    何有荘前、大正堰には毎日早朝にカワセミが訪れる。夫婦かな。

千葉県茂原市は何有荘から車で40分ほどで、この近辺では大きな町です。
その茂原が連日、列島の最高気温ベストテンに顔を出しています。
だいたい36.7℃ぐらいで、37℃を越すこともあります。
何有荘の簡易寒暖計でも外気温は36℃。室温31℃もあるともう汗ダラダラ。
今年は特に暑いです。

一方で広島では大災害で心が痛みます。
この間、新しい単語を二つ覚えました。

「レインバンド」――「線状降水帯」 と訳すらしい。南西から北東にかけてレインバンドが現れ、その直下の市町村では連続して大豪雨となり、ちょっとはずれた町では降ってないということがおきるのだそうです。

「バックビルディング現象」---これも今回の広島での土砂崩れの説明に使われました。
レインバンドを構成している積乱雲が次々に現れ、正面の山にぶつかってぎゅう詰め状態になって壊滅的な降雨をもたらすらしい。

千葉県は高い山がないのでもともと雨が少ない地域ですが
高気圧の配置次第ではレインバンドの下になることは十分あり得ます。
広島市では避難勧告が遅れたと悔やんでいるそうですが、行政を頼りにしていると不意打ちを食らうことがあります。大島もそうでした。

天候を読み、このままだと危険だと察知する能力、原始的な危機管理能力を各人が持たねばならぬ時代のようです。
自分の身は自分で守る―――でもどうやって?
きっとその時には想定外のことが起きてあわてちゃうのでしょうね。


  

★圧力鍋で簡単、和風カボチャスープ

カボチャスープ
     庭の紫蘇の葉を刻んで、ちょっと入れすぎました

この時期、カボチャがゴロゴロ。
煮物、天ぷら、素焼き。どれもおいしいけれど、今回はスープです。
大きなカボチャは色々変化を付けてたべないと消費しきれません。

【材料】
  ① カボチャ半個 ②玉ねぎ1個 ③和風だし少々 ④牛乳100cc ⑤バター20g
  ⑥ 醤油適量   ⑦水400cc

【作り方】
  ① カボチャは少しチンすると半分に切るのも皮をむくのも楽です。
  ② 種を除き、適当な大きさに切り分け、玉ねぎも柵切り。
  ③ 圧力鍋に入れ、和風だし(顆粒)水200ccで煮込む。
  ④ おもりが触れたら火を落とし、自然冷却。
  ⑤ ミキサーに何回か分けてガーする。ガーしやすいように水、牛乳を加える。
  ⑥ 鍋に移し、バターを加えもう一度煮込んで出来上がり。
  ⑦ 保存はジップロックに入れて冷めたら冷蔵・冷凍保存。

ストッカーにコンソメがなかったので急きょ、和風に変更しました。
和風でも少量の牛乳・バターを使うと口当たりが滑らかになり、和風の味を損ないません。
たくさん使うとスープの色が薄くなり、味も洋風に近くなってしまいます
和風であることを強調して紫蘇の葉を使いましたが、あってもなくても何でもOK。
和風ですが、パン食にも合います。
冷たいスープの方がおいしいと思います。


 

★ドライミニトマト、けっこう気を遣う 

ドライドライトマト2
 二つ切りを乾燥用網にキッチンタオルを敷いて載せて乾燥。右はオーブンで乾燥
 
ドライトマトなんて簡単だ、半分に切って干せばいいのでしょう?
たしかに三日目までは順調だったのです。
四日目に気づいたらカビだらけ。
泣く泣く、生ごみ堆肥に直行しました。

敗因の一つは切り口に塩をまぶさなかったこと。塩味が付くことを嫌ったからです。
二つめは三日目の晩から湿度が上がって来ていたこと。

それで作り直し。
毎日毎日ミニトマトは採れますから材料には事欠きません。
湿度は前日よりも高く、このままではカビが予想されます。
それで霧吹きで消毒用アルコールを日に二度吹きかけることにしました。
はっきりしない空模様で前回よりも乾燥が進みません。

二日目午後、思い切ってオーブンで乾燥させることにしました。
オーブンにクッキングシートを敷いて並べ、100℃60分を3回。
見た目は画像右のように十分乾燥したように見えましたが、摘まんでみると軟弱で水気が残っているように感じました。
カサカサのドライになることを期待していたのに、なかなか難しいものですね。

事実上、セミドライというところでしょうか。
これ以上の乾燥をあきらめ、保存瓶に入れてオリーブオイルで充たして保存にしました。
その前に摘まんで食べてみると、皮がやや気になりますがアマーイ!! です。
ヨシヨシ。
これでミニトマト活用の幅が広がります。
さて、何を作りましょうかね。

******

スズムシがきれいな声で鳴きだしました。
例年より1週間か10日遅れです。
窓の外では昨日初めてカネタタキのチンチンチン…という声が聞こえました。
気づけば草むらでツヅレサセコウロギも鳴いています。
どんなに暑くとも朝晩は涼しくなって助かります。

 
 

★大原の頼朝伝説――二つの神社

御嶽神社八坂神社
        御嶽神社(大原6894)             八坂神社(大原7004)   

いすみ市大原の裸祭りは近隣十八社が競い合い、潮踏みすることでよく知られています。
その内の二社――上寄瀬(カミヨセ)の御嶽(オンタケ)神社、北寄瀬(キタヨセ)の八坂神社はともに創建が1180年と伝えられる古社です。

1180年に何があったのでしょうか?
1180年とは治承4年、源頼朝が反平家の旗を揚げた年です。
石橋山の戦いで惨敗し、命からがら真鶴半島から海を渡って安房の国に逃亡し、安房・上総・下総の武家を招集して再起をはかった年です。

上総の国の実力者は上総権介(ゴンノスケ)広常でしたから、頼朝のために実際に兵力を招集したのは広常のはずですが、伝説では頼朝がこの地に来たことになっています。
上寄瀬の御嶽神社の由緒について、明治二年の「社籍書上書」によると、

――治承四年(1180)、右兵衛佐(ウヒョウエノスケ)源頼朝、豆州石橋山に敗績の後再び兵を挙げんとして総州に至り、遠近の義兵を催促し、勢(イキオイ)漸(ヨウヤク)く振(ニギワ)う。兵を集めし地を後に寄勢村と名付く。陣中疾病の難を抜かんとし、命じて少彦名(スクナヒコナ)命並に素盞鳴(スサノオ)命を祭らしむ。後、人社を建て当地の鎮守とし春秋の祭礼を営み来れり――

寄瀬(ヨセ)という地名は頼朝が反平家の軍勢を寄せ集めた場所だからという地名起源伝説。
陣中の病害を除くために頼朝が神を祭らせたという神社起源伝説が読み取れます。

ところが下寄瀬の八坂神社もまったく同様の伝説が伝わっています。
境内にある石造の八坂神社縁起によると

――治承四年(1180年)、伊豆国で反平家の旗を挙げた源頼朝が、石橋山で敗れて安房に逃れ、上総・下総の有力武士を従えることに成功。その陣中、疫病の難を防ぐ為命じて、素盞鳴命、少彦名命を祭らしめたのを後世の人がこの地の鎮守としたもである、と「八坂神社明細書」に記されている―――

八坂神社に地名伝説はありませんが神社起源伝説は同一とみて良いでしょう。
ともに治承四年(1180年)に陣中の疫病の難を防ぐ為に頼朝の命により創建されたとしています。
違うのは祭神の順序――御嶽神社=少彦名命、素盞鳴命
                八坂神社=素盞鳴命、少彦名命

頼朝伝説には荒唐無稽の子供騙しみたいな話が多い中で、この地に伝わる伝説にはやや信憑性があります。
最上山の山裾になだらかな扇状地が広がり、旧街道に沿って四方からの交通の便も良い。
大原の地は夷隅地域南部の中心都市であり、昔から栄えた土地でした。この地域で武士を集結させるとなるとこの寄瀬地区はふさわしく思います。
ここで集結して、出陣決起集会を行い、武運長久と五体満足で凱旋することを神仏に祈願したことも十分あり得ることです。

ただ、武士を寄せ集めた場所だから寄瀬村と名付けたという地名説話は単なる語呂合わせで、いだだけません。
おそらくずっと大昔からこの地域は ヨセ と呼ばれてきたのでしょう。漢字を当てるとなれば 与瀬 が適当でしょうか。そこがたまたま集合場所になったため、寄瀬 という漢字に変更された考えられます。
寄瀬で ヨセ と無理やり読ませる理由はそんなことではないでしょうか。

また、祈祷を行った場所に社を建てて神社となったという伝説も疑わしい。
何もない所で祈願したのではなく、すでにそこに御嶽神社、八坂神社の前身となる社があり、そこに命じて祈祷・祈願を行ったと考える方が合理的です。
両社ともいつが創建とも知れぬ小さな古社だったが、それをエポックメーキングな名誉として創建は1180年という伝承が生まれたと思っています。

もちろん、何の根拠もない勝手な想像ですが…。