★これも毒草、キツネノボタン

キツネノボタン

タンポポに似た黄色い花。
かわいらしい丸いトゲトゲの実が特徴的で、これをキツネがボタン代わりにするのだと想像しての命名だとずっと思っていました。

ところが、ボタンは衣料用のボタンではなく、花の方の牡丹でした。
春先の地面に貼りついたような根生葉が牡丹に似ているそうですが、牡丹の若い葉を見たことがないので真偽のほどはわかりません。

頭に 「キツネ」 と付く時はだまされたとかニセモノという意味になります。
時には 「有毒」 という意味で使われることもあるようです。

この場合、若い葉だけ見れば牡丹のようだが牡丹じゃない、ニセモノという命名。
また牡丹に似た有毒植物という命名かとも思われます。

身近にある春の毒草で、かなり強力です。
引きちぎった時に茎や葉の汁液が皮膚につくと、赤く発泡して水膿を起こすといいます。
別名が 「ウサギゴロシ」 で、他の雑草と混じってウサギに食べさせると死ぬことがあるのだそうです。
人間でも誤って食べると呼吸麻痺、下痢、嘔吐や幻覚など起こすそうですが、もちろん、わたしは試してはいません。

だれかが試したから毒草として伝わっているのでしょう。
それならば、人類の知恵、昔の人の貴重な教えとして語り継がねばなりません。

自然は素晴らしいだなんて気楽に言ってはいけない、と自然の中で暮らしていると思います。


 
 
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★カモミール&チャイブの収穫

カモミールチャイブ
   自作のネットでカモミール           餅焼き網でチャイブ

庭のカモミールが満開で、出ベソのように中央が膨らんだ花を収穫します。
アブラムシが付いていると収穫の際に指にべとつき感が残るのでわかります。
今年はアブラムシが全くいないので収穫は気持ちよく、あと何回かは収穫できるでしょう。
ティーにするにはフレッシュが一番ですが、消費しきれないのでドライにします。
45cm四方で木枠を作り、網戸用のネットを張って乾燥用具にしました。

チャイブは西洋アサツキみたいなもので、細い葉を小口切りにして和風・洋風何にでも使えますが、そう大量に使うものではありません。
それで放置しておくと画像のような薄紫色のかわいいネギ坊主ができます。
ネギ坊主の形を崩さずにドライにするには餅焼き網が大変便利です。
これはドライにして飾ります。

レモンバームもしっかり葉を伸ばして最初の収穫を終えました。
これからハーブの季節です。


 
 

★クマンバチが飛んできて

クマンバチ
    庭のグミで蜜を集めている

庭を歩いている時、ブーンと耳障りな羽音が聞こえてくるとちょっと驚きます。
アシナガ蜂やスズメ蜂だと危険で、この春から初夏にかけて、この時期には活発に蜂が活動します。
庭の横に巣を掛けられたこともありますから、相手がだれか、確認せねばなりません。

ここ数日は毎日、画像のクマンバチ(熊蜂)が数匹連れ立って来て蜜をあさっています。
蜜がある花ならば花の種類を選ばずに飛び回っています
姿かたちは大きいし、嫌な羽音を立てていますが、性格はおとなしく、人を襲うようなことはありません。
カメラを近づけてもまったく無視。
蜜集めにいそがしくて人間には興味がないようです。

どの野生生物もそうですが、いたずらに人を襲ったりはしません。
大声を出したり、手を振り回したりすると相手は身の危険を感じて反撃してくることがあります。
だから何もせず、そっと現場を離れるのが基本です。

リムスキー = コルサコフの『熊蜂の飛行』というやかましい曲を聞いたのは中学生の頃だったでしょうか。熊蜂がいそがしく飛び回る姿を写実的な曲にしたものです。

それよりは『ブンブンブン』の方がいいですね。
ボヘミア民謡なのに日本人の感性に合うような気がします。

   ぶんぶんぶん はちがとぶ
   おいけのまわりに のばらが さいたよ
   ぶんぶんぶん はちが とぶ

原詩とは全く異なった歌詞だそうですが、野バラが咲くころに毎年、何有荘にもクマンバチが訪れて、受粉を手伝ってくれます。
この曲と歌詞は蜜蜂よりもクマンバチがふさわしい。

そして6月になればグミの実の季節となります。
野バラの花も木苺になっていることでしょう。


 

★夷隅町、夜泣き地蔵の民話

夜泣き地蔵
  大多喜といすみを結ぶ国道465号沿いにある祠(ホコラ)

通称“夜泣き地蔵”といわれ、夷隅町の説明板が建っています。

―――行川と増田の境に丸太橋が架けられ「夜泣き橋」といわれていました。この橋のたもとに小さな祠があり昔から小児が夜泣きして困るとこの祠に詣で、この小石をいただき小児の枕の下に入れると夜泣きが治ると言い伝えられ、夜泣きが治ると小石を二つにして返すならわしがある。―――

お地蔵様が夜泣きをするのではなく、赤ちゃんの夜泣きを治すお地蔵様です。
ところが祠の中にはお地蔵様はいらっしゃらない。
川原石のような細長い丸い石が中央にあり、「夜鳴霊神」とあります。
この石がご神体であることはまず間違いないでしょう。
すると、本来は夜泣きを治める神様であったものが、いつの間にかお地蔵様にすり代わってしまったようです。
お地蔵様は赤ちゃんを救う仏様でもありますから、その辺で混同があったのでしょう。

この祠に関して、地元の「夷隅民話の会」の会長・斎藤弥四郎さんが『夜泣き地蔵』という題で大変素晴らしい話を発表しています。
少し長いですが全文転載いたします。

――― 夷隅町、増田と行川(なめかわ)の境に小さな川が流れている。この川近くに「夜泣き地蔵」と呼ばれる小さな祠(ほこら)がまつられている。この祠には次のような話が伝えられている。

 むかしむかしのことだ。京の都の戦さで負け、この地まで落ちのびてきた夫婦がいた。身分の高い人らしく、錦の着物を身につけていたが、長い逃亡生活に錦の着物も、汗と泥にまみれていた。夫の顔は無精ひげにおおわれ、左足に傷を負い、足を引きずっている。妻は頬(ほほ)がこけ、よごれた長い髪は風に乱れ、乳飲み子を抱いていた。

 「もう一歩も前に進むことができません」
 「なにを申す。都からこの辺境まで逃げ延びてきたではないか」
 「……この3日間、満足に食べ物さえ口にしていません。赤ん坊もおなかをすかせて泣いてばかりいます」
 「……………」
 妻の言葉に夫はだまってしまった。あたたかな春の風に小鳥の声がきこえてきた。2人はだまったままだった。

 妻が青空に映えた桜の花を見ながら、口を開いた。
 「都も桜の季節でしょうねぇ」
 「ああ、都の桜も咲くころだね」
 「……都の生活……楽しかったです」
 「ああ、楽しかったね。おまえと過ごした都での生活、今は夢のようだ」
 「あなたと初めてお会いしたのは、ちょうど、このような春でしたね。……新録におおわれ、桜がさき、小鳥が鳴き……」
 「わしも、君に初めて会ったのを、きのうのことのように思い出すよ」
 「まあ、うれしい。あの日のことおぼえていらっしゃいますか………」
 「若菜をつむ君の姿、美しく可愛かったねぇ。わしはその日以来、君のことが頭からはなれなくなったのじゃ」
 「私こそ、あなたさまの凛々(りり)しいお姿を目にしたあの日は、眠れませんでした」
 「ははは……そうだったのか、うれしいことを言ってくれるのぅ」
 二人は遠い都での生活を思い出し、しばし疲れを忘れていた。都の話ははずんだ。はじめて二人が出会った桜の春、水遊びをした夏、紅葉狩りの秋、嵐山の雪……。
 二人の顔はうっとりとしておだやかであった。
 ………………
 ……時が流れた。
 「都に帰りましょう」
 「都に?」
 「そう、都にです」
 「……敵が……」
 「敵」という言葉に現実にもどされ、顔はけわしくなった。
 また沈黙がつづき、小鳥の声と川音と春風があたりを支配した。
 ………………
  妻が口を開いた
 「都に帰りましょう」
 「帰ろうか………」
 「……このまま死んだら、魂になって都に帰れるでしょうか………それも二人が出会ったあの都に………」
 「二人が出会ったあの時代に……….」
 「楽しかったあのころに………」
 ………………
二人の声は涙声にかわっていた。
 「帰りたい。もう一度帰りたい、都に……あなたと出会ったあのころに……」
 突然、妻が泣き叫んだ。夫は妻を抱いた。二人は泣き続けた。

 やがて、赤ん坊の泣き声で、二人はわれに返った。
 「この子をどうしましょう」
 「二人のために赤ん坊の命をうばうことは………..」
 「どうすればいいんです」
 「……………」
 「三人一緒に死んだほうが幸せです」
 「いや、この子にも生きる権利がある………この子は生かしてやりたい」
 「………そうですね。このような桜の美しさも、この子はまだ目にしたことがなく、私たちのような恋も知らないのです。この子の人生はこれから……」
 「……………」
 「この橋のたもとに置いておけば、通りがかりの人がひろって……育ててくれるのでは………」

 妻は着物をぬいで赤ん坊をつつんだ。そうして胸から紅(あか)いお守り袋を取り出すと、赤ん坊のふところに入れ、赤ん坊を草むらの上にそっと置いた。
 二人は、手をとりあって、近くの川に入って行った。
 桜の花が、はらはら散った。

 その後、残された赤ん坊は、大多喜城下に向かっていた旅人に発見されたが、やせおとろえて亡くなっていた。
 不思議なことがおこったのは、その後だ。日暮れに、この橋を通ると赤ん坊の泣き声が聞こえてくるという。野良仕事を終えてかえってくるお百姓さん。今夜の宿を求めて足早に急ぐ旅人が哀(かな)しげに泣く赤ん坊の声を聞いたといううわさがひろまった。
 「あの泣き声は捨てられた赤ん坊のなげきだろう」
 「ほんとうにかわいそうに」 ……とあわれんだ。
 「赤ん坊を弔(とむら)ってやろう」
 ということになり、橋のたもとに小さな祠(ほこら)を建てて、冥福(めいふく)を祈った。それ以来、泣き声は聞こえなくなった。その後もここを通る人たちは赤ん坊の冥福を祈った。
 「赤ん坊があの世に行くには、三途の川という河原を渡らなければならないという。その時、小石を積み上げながら渡るという。しかし鬼がじゃまをして小石の山を崩していく。そこで、現世の人が小石を積んで、赤ん坊を助けようとする」
 という言い伝えがある。それで祠のそばには小石が積み上げられた。
 やがて、野良仕事で疲れて帰って夕食のしたくをし、夜なべ仕事をする農家の女たちが夜中に赤ん坊が泣いた時に
 「赤ん坊よ、野良仕事で疲れているんだ。せめて泣かないでおくれ」
 という願いから、祠のお参りをするようになったという。この祠をおがむと不思議なことに、火のついたように泣いていた赤ん坊も泣き止んだという。今も祠は「夜泣き地蔵」とよばれ、道ばたに祭られている。―――

夜泣きは若い夫婦にとって“危機”ともなる重大問題です。
夫は協力しないばかりか「どうにかしろ」と怒り出す。あるいはグーグー寝ているか寝たふりか。妻は孤軍奮闘で全責任を背負い込まざるをえません。
精神的にも肉体的にも疲弊し…。
そんな時、このお地蔵さんは役に立つらしく、祠の中には小石がいくつも奉納されています。

欧米では「夜泣き」という単語すらないと聞いたことがあります。
赤ん坊は別室で寝ているので大泣きしても気にならないのだとか。
授乳の時間以外はホッテおかれるので、場合によっては「サイレントベービー」という無感動な赤ちゃんになるとも聞いたことがあります。

その点、日本の母子関係は濃密すぎるという批判がありますが、母子が仲良くても相互依存関係でなければ良いことだ、と思います。
困った時の神頼み――夜泣きの赤ちゃんをダッコしてこの祠にお参りすれば泣き止むことがあったのでしょう。ホッとして母親の精神が安定すれば子育てに良い影響があります。
そんな経験的な知恵が現代でも続いていることが、祠に置かれた小石で示されています。


 
 

★アブラムシがいないソラマメ

そら豆
  手前はソラマメの花、中央の白い花はカモミール、奥の黄色い花はブロッコリー

ブロッコリーにはたくさん黒いアブラムシがいますが、カモミールにもソラマメにもアブラムシはいません。

カモミールは共栄作物(コンパニオンプランツ)として、守りたい野菜の側に植えるとアブラムシなどを呼び込み、作物が守られるといいます。
カモミールはそもそも虫が付きやすいようです。だけどティーにするためカモミールを収穫するのに虫が付いているとテンションが下がってしまいます。
それが今回は虫が付いていません。
ソラマメにもいません。

一手に引き受けているのが瀕死のブロッコリー。
収穫し終わった株を放置しておくと菜の花に似た黄色のかわいい花が咲きます。
だけどもう寿命が尽きかけているのでしょう。どこからともなく虫が集まってきます。
寄ってたかって寿命を縮めているように見えます。

同じような体験はキュウリでもありました。
たくさん実を提供したキュウリも寿命が近づくとウドン粉病が葉に出たり、アブラムシが集まってきます。
ケールは多年草とはいえ、何年か経つと弱ってきます。すると途端に虫が寄ってきます。

健康優良児に育った野菜には虫も寄り付かない。
寿命が尽きかけた野菜はアブラムシなどを一身に引き受けて、最後の役目を果たそうとしている―――そんな風に思えます。
やがて本体は枯れて朽ち果てて地面に帰り、次世代の栄養分となる――自然のサイクルだと思います。

では、どうやって健康優良児に育てるのか?
そのコツが分かれば、今頃大もうけしていますヨ。
たぶん、過干渉でもネグレクトでもいけないのでしょう。
もちろん無農薬です。
欲張って肥料をたくさんやったりしない。雑草の中でもまれて育つ。雑草が成長の妨げになってきたら雑草を地際で刈り取り畝にかぶせて地に戻す――そんなことに気を配っています。


 

★しめ鯖と野菜の簡単マリネ

しめ鯖

おいしそうなしめ鯖を買ってきて、野菜と一緒の簡単マリネにしてみました。
こうすると野菜も食べやすくなります。

お酢は柿酢で、これは手作り柿酢です。
カットした柿をビンに入れ、酢で満たしておくと実にマイルドな簡単柿酢に変身します。
画像の柿酢は柿だけで作った本格柿酢で、熟柿をビンに詰め込んでおけば自然に柿酢になってしまいます。
おいしい酢になるのでたいへん重宝しています。

オイルはヒマワリ油で、里山仲間のそのまた仲間の手作りです。
休耕地でヒマワリを育て、その種から絞り出した純粋ヒマワリ油だそうです。
ラベルがシロウトっぽくて好感が持てます。
口に入れるものはだれがどう作ったのか、出自がしっかりしているものがいい。

オバマさんが来るので東京は大騒ぎ。
TPPの妥結は、米国基準の安い農産物――化学肥料や農薬を大量にぶっかけ、大規模栽培の農産物だらけになることを意味します。
農薬に耐性のある病原菌や虫やらが出現したので、より強力な農薬になり、挙句の果てに遺伝子組み換えの作物を作りだしました。
どんなに除草剤や殺虫剤をばらまいても死なない作物です。
そんな食品しか食べられなくなる未来をだれが望んでいるのでしょうか。
だれが利益を得るためにTPPを推進しているのか、しっかり見抜かねばなりません。

作物に農薬をかけると作物は身を守るために固くなります。
わたしたちが作る野菜が、どれも柔らかく甘くておいしいのは単に採れたてというだけではなく、無農薬だからだと思います。
野菜本来の味がするのだと思います。
野菜嫌いの人に食べさせたい野菜です。


 

★春の毒草二種。きれいな花には…。

クサノオウムラサキケマン
           クサノオウ              ムラサキケマン

クサノオウ 
草の王、草の黄、瘡の王 とも書きますが、本当は瘡の王だと思います。
瘡(クサ)とは悪質な発疹をともなう皮膚疾患のことで、天然痘やコレラ、梅毒などもクサと呼ばれました。
茎を引きちぎると黄色の液が滲み出て、それに触るとかぶれて発疹するので瘡の王。

4月下旬~7月にかけて野原でヤマブキソウに似た美しい花を咲かせるので、室内に活けようと思うかもしれませんが、さわらぬ神に祟(タタ)りなし。
野草を生け花で飾るなんて素敵ですが、皮膚に汁が触れればとんでもないことになります。

昔はインキン・タムシに水虫――これもクサとよばれた――にこの汁を付け、文字通り毒で毒を制する治療法があったそうですが、生兵法はケガのもと。シロウトが手を出す方法ではないでしょう。
ちいさなお子さんにはよくよく言って聞かせて下さい。
ゆめゆめ、お母さんに摘んでプレゼントしようなんて考えぬように。
葉は菊の葉に似ています。

ムラサキケマン 
紫華鬘という難しい漢字で書きます。
ケマンとは仏教用語で、仏様の胸飾り、仏壇の装飾デザインのことです。
元々は古代インド語であるサンスクリット語の「クスママラ」の音訳だそうです。
元の意味は花輪のことで、インド人は愛する人や聖者に花輪をささげる習慣があります。

もとよりこの花を花輪にしたのではなく、この細いラッパのような花の形がデザイン化された仏様の胸飾り・ケマンに似ているので名付けられたものでしょう。
雑草の類(タグイ)ですから手で引きちぎることがあります。その程度のことでは何の問題もありません。
葉を食べなければ大丈夫です。

花がまだ咲く前、若い葉の状態では、食べられる野草シャク、セントウソウによく似ています。
人参の葉やイタリアンパセリ、チャービルにも似ていますね。
誤って食べると死亡例はないものの、吐き気、心臓麻痺、呼吸麻痺…。

今年も先日、ニラとスイセンを間違えた食中毒事件がありました。
スイセンは毒草ですが切り花、生け花にしますよね。
毒草でも触れるだけなら問題はありません。
汁には触らない方が良い――植物も反撃の機会を狙っていますから。

◆港の朝市(大原漁港)にスリ出没!?
 月一回の港の朝市は好評で大勢の人が集まるので、スリも来たともっぱらの噂です。
 なにせ近在の人々は人を疑わないし、戸締りもろくろくしません。
 スリにとっては絶好の稼ぎ場。
 注意を払い、連帯してとっちめましょう!!


 

★アミガサタケの季節です

アミガサタケアミガサタケ2
   15cmほどのアミガサタケ    玉ねぎと炒めてチーズをからめた

タケノコの季節に竹林の近辺で毎年、アミガサタケが顔を出します。
欧米じゃ高級キノコだとわたしが仲間に教えても、見てくれが悪いので誰も食べません。
それでわたしの独占状態。

生で食べると微毒があるそうで、加熱する必要があります。
生まれて初めて食べた時は、細切れにして炒め、恐る恐る食べたものです。
最近では味と食感を楽しむために、大胆に半切りにしていただきます。
少なくとも4分割ぐらいに留めないと、何を食べているかわかりません。

◆アミガサタケの炒め物レシピ
 1.土の付いた軸下部を切り捨て、本体を縦半分にする。
 2.少し(10分ぐらい)水に漬けておく。虫が付いていたら薄い酢水。
 3.ザルに上げ、水気を軽く飛ばして炒め物。
 4.今回は玉ねぎだけですが、人参、キャベツ、ハム、ベーコンなどご自由に。
 5.油はバターを使いました。サラダ油でももちろんOKです。
 6.今回はとろけるチーズを本体の裏の窪みに散らしました。
 7.味付けは醤油をたらりで完成です。――オイシカッタ~!!

定番はシチューだそうですが、個人的にはピンときません。
炒め物のほか、ピザやパスタの具に合います。
旬のタケノコと旬のアミガサタケを一緒に茶碗蒸しなんていいかもしれませんね。
今度、試してみましょう。


 

★いすみ市に今年もまたコブハクチョウ

コブハクチョウ 
   夷隅川河口左岸の水の入った田んぼで

この白鳥は去年いた白鳥ときっと同じ個体でしょう。
昨年いた場所とほとんど同じ場所で泳ぎ、くつろいでいました。
17日の朝8:30頃見かけ、午後1:00頃にも見かけました。

コブハクチョウはもともと一種の家禽で、オオハクチョウ、コハクチョウのような渡り鳥ではありません。
千葉県では手賀沼で繁殖していますから、そこから飛んで来たのでしょう。
1羽だけというのが情けない。
相方さんがいなければ繁殖できないじゃないですか。
もっとも外来種が日本で勝手に繁殖するのはケシカラン、という人もいます。

鳥の仲間は車にはあまり警戒心を払わないので、車で近づいてしげしげと観察しました。
けっこう大型の鳥で迫力があります。
脚は黒。長靴をはいているように見えます。
赤味のあるクチバシは根元が黒く膨らんでいる。それでコブハクチョウ。

ついでに言うと保険会社アフラックの白い鳥はアヒルで、白鳥ではありません。
黒い鳥はブラックスワンで、黒い羽の白鳥で実在します。

白い「アフラックダック」は正義の味方というCMですが、私に言わせればとんでもない悪党です。
TPP締結以前に米国政府の圧力で、かんぽ生命独自のがん保険計画をつぶし、提携の名の下で全国の郵便局で米国資本のアフラックがん保険を売り出すことで決着しました。

頼りにならない健康保険制度に改悪し、不安になった国民が保険を掛けるように仕向け、儲かるのはアフラックと言う仕組みを作ったのは日米両政府です。

アフラックダックの大繁殖と比べれば、コブハクチョウが日本で少々繁殖したって、まだかわいいもんじゃないですか。


 

★巡礼谷の美女と白蛇伝説

巡礼坂善応寺
  いすみ市高谷の巡礼坂の碑      高谷の善応寺(上総国三十三所巡礼8番札納所)

いすみ市には天台宗のお寺が多く、しかも観音様を本尊とする例が多い。
高谷には画像の善応寺(十一面観音)のほかに観音寺(聖観音)があり、北側の山を越した鴨根には坂東三十三観音霊場第32番札所である音羽山清水寺(千手観音と十一面観音)があります。
有名無名、いずれも千数百年の観音様の古刹であり、この地域が古くから開け、信仰心の篤い地域だったことを伝えています。

江戸時代に庶民の間で爆発的な旅行ブームが起き、お伊勢参りや霊場巡りが盛んになりました。
今はもう、どこから見ても静かな農村である高谷地区にも観音様霊場を巡る巡礼者の姿を見かけることが多かった、そんな時代に生まれた伝説があります。

―――月明かりが雑木林の繁みより洩れ、山道は明るかった。若者は早く家へもどろうと早足で坂道を登っていたが、少し疲れて立ち止まった。空を見上げると月に雲がかかり、やや暗くなったが、白い山桜の花がぼんやりと浮かび上がっているのが良く見える。
若者は桜を眺めながら汗をぬぐうと、ふと怪しんだ。桜が動いたのだ。いや、桜が動いたように見えたのは月明かりがもどって気付いたが、白衣の巡礼者の姿だった。
巡礼者が一人、山道を下って近づいてきた。若者は道の端によけ、通り過ぎる巡礼者の横顔を見て驚いた。美しい若い女性だった。若者は思わず「若い身でお一人、夜分にどうして清水寺に参詣するのですか」とたずねた。
すると美女は振り向きもせず、一言も語らずに道を降りていく。「もし」ともう一度声を掛けた時に再び月がかげり、巡礼者の姿は掻き消えた。驚いて目を凝らすと白蛇が一匹山道を降りて行った。
若者は目の錯覚だったのか、それとも夢でも見たのかと疑い、翌晩も山道で待つことにした。
すると確かに白い巡礼服の娘が現れた。しかし若者が声を掛けても答えることなく再び姿が消え、足もとにはまたもや白い蛇がいた。
三日目の晩、若者が声を掛けようとしたとき、巡礼女が先に声を発した。
「お前はここで何をしている。早く去れ。この辺は万事狭い。わたしはもっと広い場所へ行く」と言うやいなや白蛇の姿になり、もと来た道を戻っていった。若者は後をつけたがどんどん離され、やがて姿が見えなくなった。どうやら南の方、遠く房州方面(現在の鴨川方面)へ去ったようだった。以来草深きこの地を巡礼谷というようになった。―――

巡礼谷は、最近まで使われた小字(コアザ)では順礼谷と文字が少し変わっています。
清水寺-巡礼谷-仙人山-菩薩谷-高谷という順に山越えをする巡礼道があったのでしょう。
現在はふもとに狭いながらも車道が整備され、山道を越える人はいなくなりました。

白蛇が去ったという伝説は、時代が変わり巡礼者が減ってしまったという意味があるのかもしれません。
だとすると、この伝説はそれほど古い時代に生まれたのではないでしょう。
しかし、画像の「巡礼坂」石碑は市が立てたのではなく、昭和62年に四国の篤信家によるものです。
観音信仰は現在も細々ではありますが、しっかりと続いている証拠です。