★門松の話 


  ありあわせの材料で門松を作りました 

昨日(30日)、里山の竹林整備で伐採した孟宗竹とご近所様の枝打ちした大王松、それとナンテンで作りました。
松竹梅でそろえるのが筋ですが、明日の元旦は旧暦ではまだ12月1日。梅をそろえるのは季節的に無理と言うものです。
それでナンテン(南天)。ナンテンは「難を転じる」縁起物です。

松も竹も常緑で、どんな厳しい季節でも負けずに生き生きとしています。
現代社会では長生きするのもリスクの一つになってしまいましたが、昔は乳幼児死亡率が高く、若年で没する例も珍しくありませんでしたから、長寿は珍しいことでおめでたいことでした。

松は永遠の大自然を象徴し、神霊や霊魂が宿ります。だから能の舞台の背景は老松です。
老松は風格がありますが、正月に使われる松は若松で、都会の切り枝の門松によく使われていますね。花札の1月の図柄が若松で、おめでたさの象徴です。
年年歳歳、生命力の更新を祈願し、その生命力にあやかるためには若松が一番ふさわしいと考えられてきました。

一方、竹は旺盛な生命力の象徴で、タケノコはどんどん切っても切っても竹林は滅びませんから子孫繁栄の象徴でもあります。
竹の成長の速さは驚異的で、昔話の絵本でタケノコが床を突き破り、屋根を突き破ったなんて絵柄を見た覚えがありますが、里山で竹林に付き合っていると、その話が本当に思えてきます。
記録に残る最高記録は1日に120cmも伸びたそうです。

松も竹も昨年の葉が散らないうちに今年の葉が伸びてきます。
親が健在なうちに子が立派に育つ――それが理想でした。
幼い子を残して親が亡くなる、その“逆”など死亡率が高かった時代には普通でしたから、家族がみな無事でこの1年を過ごせるようにという願いを込めたものです。

同様の葉に“ゆずりは”があり、江戸時代には随分人気があり、鏡餅の上に載せられていました。
鏡餅の上に載せる橙(ダイダイ)も同じ趣旨です。
じいさん、ばあさん、おおじいさん、おおばあさん、代々の家族が元気で過ごせるようにというシャレですから、ミカンやキンカンじゃ本当はシャレになりません。
そんなこと言ったって、最近は橙を売っていませんからミカンで我慢してもしょうがありませんね。

本年1年、長たらしいブログにおつきあいいただき感謝しています。ありがとうございました。
新年3が日はお休みいたします。
良いお年をお迎えください。

  

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★寒いけれど霜が美しい朝です。


 手前はブロッコリー、奥の菜は「カツオ菜」で、福岡県名産の野菜

房総は晴れ渡り雪のかけらもありません。
明け方、新聞を取りに行くと山の端が赤く染まり、有明の月が残っています。
こういう日は画像のように霜が降ります。
大正堰も一面の氷になりました。
早朝の外気温は-1℃。
(室温は、昨日の太陽様の熱を蓄えてあるので18℃。これは助かります)
やがて朝日が昇ると、斜めの日差しを浴びて霜はキラキラと輝きだす。

冬は水遣りしないでも、明け方の寒さで霜が降り、それが陽に溶けると結果として最低限の水分を畑地に戻すことになります。
そのような自然の仕組みに感心します。

通常、水が凍ると体積が膨張するので植物の細胞膜は破壊されてしまいます。
ところが冬野菜が霜にも雪にも負けず、植物体内の水分が凍らないのは不凍液になっているから。
自動車の不凍液はエチレングリコールなどによりますが、植物の場合は糖分です。
だから冬野菜は甘く、おいしい。
自然の仕組みに驚き、自然の恵みに感謝です。

さて、画像のカツオ菜はお雑煮に使う予定です。
2013年の正月に初めて使いましたが、小松菜とは違ったおいしさがあります。
「汁物に仕立てるとカツオ節がいらない程風味に富む」のでこの名がついたといいます。
残念ながらカツオの味がする、というわけではないのですが、独特の歯触り、味、香りが楽しめます。

今年もあとわずか。
昨夜の内にやっと年賀状が書き終わりました。
今日は大掃除や車の掃除、そして正月飾りに、おせち料理と大忙しの予定です。

  

★昔、桑田に矢竹城があった―――万木城攻防戦始末記 


    古沢郵便局の裏手。城というけれど実際は砦に近いものだったろう

わたしたちの里山の会のフィールドのすぐ近くに戦国時代には矢竹城がありました。
土岐頼春の万木城の5つの支城の一つで、城主は浅生主水助(アソウ モンドノスケ)。
彼の兜は金の一文字をあしらった見事な物で近在では有名だったようです。
その主水助が大手柄を立てた物語です。

敵方は長南城主・武田兵部少輔信栄。千葉県長生郡長南町に居城がありました。
甲斐の武田氏とは親戚関係にあり、上総武田氏は真理谷(マリガヤツ)、長南を拠点として勢力圏を広げようとしていました。

――――
天正17年(1589)4月。長南の武田信栄は永年の敵である夷隅(イスミ)の土岐頼春を攻め滅ぼす絶好のチャンスが来たと小躍りした。
土岐氏は小田原の北条氏によしみを通じており、万木城という天然の要害を拠点としていた。その土岐氏が北条の求めに応じて小田原に300余騎を送ったという情報を得たのだ。城内が手薄な今こそ天の助け、攻め時だ。

信栄は軍議を開き、万木城の有力な支城である鶴ケ城・亀ケ城の勢力を封じ込めれば万木城は要害といえども裸同然。早朝に不意打ちをしかけるという必勝の作戦を立てた。
亀ケ城へ鶴見甲斐と70余騎・足軽射手100人・野武士50人を、鶴ケ城へは一宮隼人率いる50騎・足軽射手70人・野武士100人を夜陰に乗じて派兵し、自らは500余騎を率いて夜半に長南城を出立した。

信栄の本隊は午前4時、松丸に本陣を置いた。周囲よりやや小高い丘で、現在は『よじゅえもんチーズ工房』がある場所である。万木城は目の前の至近距離。戦況が一望に見渡せる。信栄が采配を振り下ろすと、部下は夷隅川を密かに渡渉し、万木城城門に迫った。
城兵は敵兵が攻め寄せているは夢にも知らず、明け方になって敵兵が城下に満ちていることを知って驚愕した。

土岐頼春が矢倉に立って見渡すと、武田勢は無数の楯を並び敷き、鉄砲の一斉射撃をしかけてきた。その援護射撃の下で歩兵が動きだし、大手門の突破の波状攻撃をしかけている。
不意を衝かれた土岐勢は武装もあたふたと配置につくが気が動転している。大岩・大木を坂道に転げ落として時間をかせぎ、土岐頼春の大声の下知にしたがって弓矢・鉄炮で防戦するが連携が取れていない。
敵は大勢、味方は小勢。大手門を突破されるのも時間の問題という時に援軍が現れた。

桑田の矢竹城主・浅生主水助の部隊が松丸の武田軍本陣を急襲したのである。
城攻めに注意を取られていた武田勢はうろたえた。本陣の殿が討たれたら攻城の意味はない。本陣と前線との連絡も途絶えた。その混乱を見た城方は大手門を開いて攻勢に転じた。
同じ頃、支城の国府台(コウノダイ)城主・加治五郎(カジ ゴロウ)が援軍を率いて参戦した。
地の利は城方・土岐勢にある。攻守は逆転し、土岐氏優勢となった。一番槍は27歳の東平源五郎(トウヒラ ゲンゴロウ)。敵を槍で衝き殺し首級を挙げたという。

武田方も奮闘した。前線で指揮を執っていた浅生主水助の自慢の「金一文字」の兜めがけて轟音が一発鳴り響いた。主水助の兜は吹き飛び、落馬転倒した。「浅生主水助殿、討ち取ったり~!!」と武田方は大歓声を上げる。
しかし死亡の記録がないから実際には手負い傷ですんだのだろう。動揺してひるんだ土岐勢の間隙をぬって武田勢は撤退を敢行した。

ところが土岐頼春は敵の退路を予想し、すばやく伏兵を先行させていた。
現在の『睦沢つどいの郷』付近の日之子坂(ヒノコザカ)で武田勢は壊滅的な打撃を受ける。重臣多賀六郎左衛門が討たれるなど散々な目に会い、ほうほうの体(テイ)で長南城に逃げ帰った。
武田方の首級は93。土岐方の死者は雑兵30余名と伝えられている。
土岐頼春率いる土岐勢の見事な勝利であった。―――
                    『房総治乱記』(江戸初期:著者不明)による

土岐勢勝利の要因は絶妙のタイミングで出現した矢竹城主浅生主水助らの奮戦によります。
おそらく地元農民の注進によって主水助は事態の急変を知ったのでしょう。
ということは土岐氏は地元民に愛されていた良き城主であったことが推察されます。
また土岐頼春の采配も適切なものでした。
上総に土岐頼春あり、とその名を関東各地にとどろかせたそうです。

武田勢の敗因は、矢竹城を小城と侮って備えを怠ったこと。実際は浅生主水助は数百名の加勢を繰り出したようですから、地元の農民も加勢したと思われます。それは想定外の出来事でした。
また、『腹が減っては戦ができぬ』といいますが、武田勢は腹が減っていました。昨夜食べたきり、兵糧を持っての攻城戦です。長南から野を越え山を越えてからの攻城戦で、飢えと疲れがたまった頃に土岐の援軍に背後を衝かれて大混乱しました。
一気呵成(イッキカセイ)に落城させるという作戦に無理があったと言えるでしょう。

四百数十年前の出来事ですが、当時は殺し殺されるという戦国時代でした。
男は首狩り族よろしく敵の首級を挙げ、その首実検のために生首を洗い清め、場合によっては化粧を施すのは女の仕事でした。
やがて秀吉・家康による天下統一により土岐氏も武田氏も滅び去ります。それは個々の領主にとっては無念なことであっても、庶民にとっては平和が訪れたことになります。

矢竹城は廃城となり、今は単なる小山にすぎません。それでも登って調査した人の話によれば、かつて城塞であった痕跡がかすかに残っているといいます。
県道夷隅太東線(153号)沿いにあり、昔からの重要な街道を監視する位置にありました。

 

★味醂の作り方 


     米麹+もち米+焼酎

年末になると産直の店に米麹が並び始めます。
塩麹を作るのも簡単ですが、味醂を作るのも簡単で、何有荘の年末行事になっています。

【材 料】
      ①米麹500g ②もち米3合 ③35°焼酎900cc

【作り方】
 1.冷えた米麹は常温に戻し、手でよく揉んで復活させる。
 2.もち米は炊飯器のおこわ機能で炊く。または白米の水加減を2.5合分で炊く。
 3.炊けたもち米をばらして熱を40℃程度に下げたら米麹をよく混ぜ、布巾をかぶせて保温。
 4.梅酒用のビン4リットルを焼酎でよく消毒し、上記を入れる。
 5.焼酎を注いで出来上がり。完成するのは6か月後。その間、放置。

地元の米麹は作りたてならいいのですが、時間がたったものはかなり乾燥してシンがあります。
それで炊き上がりのおこわと混ぜて活性化させてから利用しています。
もっとも焼酎を入れれば麹菌は死滅してしまいますから、活性化にこだわる必要はありません。
麹菌は死滅しても米麹に含まれていた酵素が徐々におこわや自分自身を分解し、味醂を作り出していきます。

原材料が焼酎ですから“味醂とは甘いお酒だ”と言ってもいいでしょう。
だから本物の味醂はお酒屋さんで売っています。
シロウトが味醂を作って売ると、密造酒として酒税法にひっかかるらしい。
焼酎には酒税がかかっているし、梅酒と同じような製法なのに違法とはおかしなことです。
ともあれ、個人で楽しむ分を摘発されたという話は聞いたことがありません。

甘いお酒とはいえ、アルコール飲料ではなく調味料だという証拠として、味醂には塩分が添加されています。
自家製の場合、塩分を2%ぐらい添加するか否かはお好みでしょう。
上記レシピは塩分無しですが、市販品はみな塩分がありますから、できあがった時点で塩分を添加する方が使いやすいかもしれません。

味醂はとろんとしています。
そのため食材にまとわりつき、食材にしみ込みやすくなる点が、<日本酒+砂糖>とは異なる点で、日本人が発明した魔法の調味料の一つでしょう。
照りも出ますしね。
砂糖の甘さよりもお米の甘さが上品で奥深い味を生み出しています。

味醂のおいしさは手間ひまをかけたというよりも時間が作り出す神秘です。
たいした作業量ではないし、簡単ですから、作ってみることをお勧めします。

★今シーズン初、ウグイス来たる 


  グミの木の枝にとまり、何やらつつきまわしている

ジッジッという鳴き声が聞こえたので窓の外を見るとウグイスが来ていました。
梅にウグイスと言ったって、エサがなければ何でも食べるのでしょう。
たぶん、新芽をつついていたのだと思います。

ホーホケキョと鳴くのは恋の季節で、自分の縄張りを宣言する歌。
年末はまだ時期ではないので、歌はうたいません。
ジッジッという地味な鳴き声を「地鳴き」といい、普段はそんな鳴き声です。
スズメのチュンチュンより少し大きく濁った鳴き声なので、慣れれば姿は見えなくともウグイスがいるなと気づきます。

野鳥もそろそろ野山の食料が乏しくなってきたので何有荘まで来たのでしょう。
バードフィーダーを吊るしてエサをやることにしました。
野鳥への年末食糧支援、ボーナスです。

サラリーマン時代はボーナスがあり、職を辞した頃は6月や年末にさびしい思いをしましたが、最近は慣れて、ないのが当たり前。うらやましくも無くなりました。
それよりも恐ろしいのは、税金に国民健康保険、それに介護保険料とごっそり持って行かれることです。
4月からは消費税がアップ。

確か100年安心なんてスローガンもあったし、消費税も社会保障充実のためという口実でしたよね。
ところが税率アップなのに社会保障・介護保険・医療費の水準ダウンに実費増のトリプルパンチ。

こういうのって 「社会保障やるやる詐欺」 っていうんじゃないのかしらね。
詐欺に引っ掛かる方が悪い、信じた方がオロカと言うけれど、だます方が悪党に決まっている。

まぁともかく無駄な出費は押さえて自給自足、物々交換で自衛策を強化しましょうか。
あっ、でも小鳥のエサ代ぐらいは必要経費で認めて下さい。
野鳥はわたしたちの仲間みたいなものです。

 

★ドライアップルを作った 

 
   干からびるとずいぶん小さくなってしまいます。

リンゴを買ったらリンゴを頂きました。
まだ食べ終わらないうちにまたリンゴを頂いてしまいました。
毎日食べているのになくならない。
それでドライにしてみました。
はやく乾くように小さく切ってザルに並べましたが、ちょっと小さすぎた感はあります。

小さくなりましたが、その分ぐっと甘さが濃縮します。
おやつ代わりにそのまま食べても良いけれど、サラダに混ぜるとまた格別です。

寒い冬の乾燥した空の下、ドライのリンゴはとても素敵です。

★どうでも良い知識―――
---「冬至は陽が昇るのが一番遅く、日が沈むのは一番早い」は勘違い。

  今朝の日の出(12/24 6:44am いすみ市岬町雀島)

まず、日昇時刻で調べてみます。
冬至の日の日昇時刻は 6:43(千葉県銚子)です。
ところが元旦は 6:46 、1月8日は 6:47。
これから1月8日にかけて、まだまだ夜明けが遅くなります。
日昇時刻が一番遅いのは冬至ではなく。実は1月になってからで、1月7~8日頃。

一方、日没時刻が一番早いのは、12月8日頃の 16:23。
冬至(12/22)は 16:28 だから、すでに日没時刻は遅くなりつつあったのです。
つまり12月上旬と比べると5分ほど日差しはすでに伸びていた。

では冬至って何の日?といえば
―――昼が一番短い日(夜が一番長い日)。または太陽の南中角度が一番低い日、です。
例えば12月8日の場合、日の出から日没まで 9時間50分。
冬至(12/22)は 9時間45分。1月8日は 9時間53分。
だからやっぱり冬至の日が一番昼が短い。

地球が23.5°傾いたまま公転しているので、このような現象が起きるのだが、説明しても判らない人にはわからない。
ともかく冬至が終わったのだから、これから寒さは本番だけど徐々に昼が長くなるのは間違いない。
つらいけど頑張ろう~!!という気持ちになりますね。

 

★まるで宝飾品のようなカメムシに出会った 


    オオキンカメムシ(大金亀虫)

布良(メラ)海岸近く、常緑樹の散歩道を歩いている時に発見。
陽をあびてノロノロしていたのは、越冬個体が天気が良くて日光浴をしていたからでしょう。
カメラを近づけたら触角をピンと上げて威嚇したつもりらしい。
背中の羽の部分は金色に黒の模様。胸部と頭部は赤地に黒模様とオシャレな虫です。
しかもピカピカと輝き、宝飾品のようですね。
エジプトのスカラベよりずっと高貴で、世が世であれば信仰の対象にさえなりそうです。

はじめて見る個体なので、名前がわかりません。
自宅に帰って図鑑をめくってもわかりません。ネットでしらべても不発でした。
そういう時には 『いすみ環境と文化のさとセンター』 に問い合わせると親切に教えてくれます。
その結果、オオキンカメムシと判定しました。
(図鑑には載っていたのですが、色が違うので見過ごしました。色違いということは自然界ではよくある話なのに。図鑑よりも画像の個体の方がずっと美しい。)

あらためてオオキンカメムシで検索をかけると、おもしろい話が載っていました。
ノーベル化学賞の福井謙一博士はむかし昆虫少年だったそうで、もう一度見たい昆虫は?の問いに、オオキンカメムシと応えられたそうです。
有名人に愛されると、とたんに格が上がるような気がしますね。

カメムシは野菜の害虫で、ビックリするとひどい異臭を放つので嫌われ者。
ところが、オオキンカメは柑橘系の香りだそうです。
その時は触っては見ませんでしたが、それが本当ならば、それも愛される理由になるでしょう。
今度出会ったら、ちょっとつついてみるつもりです。

付録
   
          畑のサツマイモを採集したら、まるでイノシシのように見えました。

★青木繁・『海の幸』の海、布良海岸 


  明治37年(1904)作。重要文化財。石橋財団・石橋美術館所蔵画像元→●

所用で出かけた布良海岸で、初めて『海の幸』の製作場所がここだと知りました。
記念碑もあり、逗留して制作に没頭した民家(小谷家)も残っています。

今年の夏祭りで、浜の男たちが女装して神輿をかついだとかのニュースは聞いていました。
また、青木繁が描いたのは神輿をかつぐ男たちがモデルだとの解説も読んだ覚えがあります。
今回、二つの知識がはじめて現場で結びつきました。

明治時代、若き日の青木繁が仲間と共に訪れ、その夏の体験から生まれた作品です。
一度見たら忘れられないインパクトがある作品ですが、常々疑問に思っていたことがあります。

  A.『海の幸』という題にも関わらず、歓喜の様相が伝わってこないのはなぜか。
  B.こちらを向いている不安げな白い顔の人物は作者だろうか。

Aの疑問は解決したわけではありませんが、おいたちや生涯を調べてみると、彼は過剰な自信家でありながら常に不安と向き合っていたようです。28歳で失意のうちに夭逝。
『海の幸』が日本で初めて独自の洋画の世界を切り開いたという自負とともに、理解してもらえるかという、いくばくかの不安を宿していた証拠ではないかとさえ思ってしまいます。

印象的な白い顔の人物は同行していた恋人・福田たね。
彼女もまた繁の才能を認めながら、彼の精神のあり方に不安を抱いていたのでしょうか。
腹を見せたサメを間にはさみ、直近で前を向いた横顔の眉の濃い青年が繁本人だとされています。

行進する男たちがほぼ全裸であることは、西洋神話の絵画・彫刻の影響とみる人が多いのですが
わたしは布良のリアルな体験に基づいていると考えています。
昔から日本の漁民はほぼ全裸で仕事をしていました。
ふんどしは身分の象徴であり、だれでも自由に締めこんで良いものではありません。

昭和の初期まで、身分が低い漁師はワラ一本で始末をつけていたことは数々の証拠があります。
九十九里浜の「いわし博物館」には証拠写真が展示されていましたが、天然ガスの爆発で閉鎖されて今は見ることができないのが残念です。
漁師と身近で暮らしていたわたしの叔父や、いすみ市の年配の元漁師の方からも証言があります。
繁はそこに飾らぬ人間の本当の姿を見、ワラを省略して全裸の姿で描いたものでしょう。

なお、繁と福田たねとの遺児が「♪ひゃらーりひゃらりこー」笛吹童子のテーマソングで有名な福田蘭童(ランドウ)。そのまた息子がハナ肇とクレイジーキャッツの石橋エータローであることを調べて知りました。
それぞれの人生を書くつもりはありませんが、それぞれつらい人生があったようです。

作品制作の1904年とは日露戦争の年でした。
繁の『海の幸』は歓喜に満ちあふれているどころではなく、むしろ葬送の列の描写のように見えます。
戦勝、戦勝で浮かれる世論の向こう側に、繁は戦場に倒れた日露の青年の姿が見えたのでしょうか。
それとも、自分と子孫の運命が必ずしも幸福ではないことを予見したのでしょうか。
残照の砂浜を黙々と歩く人々の群。
その絵を見ていると色々な想いが浮かんできてしまいます。

  

★布良(メラ)海岸から見た富士は絶景 


  画像では判然としませんが、海の向こうに大きな富士山が見えます。

所用で、車で2時間、房総半島の突端にある布良(メラ)海岸に行きました。
「布良」で「めら」と読むのはむずかしいけれど、ワカメ(若布)のメだと言えば納得。

正面には伊豆半島の上に雪を被った富士山。やや左に伊豆大島が大きく見え、利島(トシマ)・新島(ニイジマ)も見えます。かろうじて神津島(コウヅシマ)も見えました。
手前は布良海岸の荒磯。このアングルの富士山は初めてで、とてもすばらしい。
漁協直営の相浜亭の海鮮丼は950円。安くて新鮮、切り身は厚く大きく食べきれないほどです。
東京に近ければ大観光地になるでしょうが、ご多分に漏れず小学校が統廃合されたといいます。

  相浜海岸、相浜亭の海鮮丼(950円)

大昔、縄文人しか住んでいなかった房総半島にはじめて弥生系の忌部(インベ)一族が黒潮に乗って上陸した地点と伝えられています。
それが布良崎神社で、神社の二つの鳥居越しに富士を眺めると、鳥居の中央に富士があるのですが、東電の電柱が邪魔して絵になりません。(そのうち移動するとは地元のオジサンの弁)
重さ800kgもある大きな神輿を見せてもらいました。担ぎ手は50人近く必要。担ぎ棒は電柱のように太いとオジサンは自慢げでした。

房総半島の先端は昔の安房(アワ)の国で、これは四国の阿波の国と音が同じですから、ご先祖は四国の住民が新天地を求め、流れ流れて房総半島まで来たのでしょう。
どちらも「粟の国」が語源で、豊かな食糧の国の意味です。
和歌山県に目良(メラ)、伊豆に妻良(メラ)があり、勝浦や白浜も同じ地名が紀伊半島・伊豆半島・房総半島にあります。

わたし好みの神様で言えば、この布良崎神社には金山彦という製鉄精錬の神様も祭られており、付近には古代の製鉄遺跡が点在しています。移住目的の一つが海や川の砂鉄資源だったと考えています。
ついでに安房国一の宮の安房神社も参拝しました。
旧官幣大社で広大な敷地を持つおごそかな神社で、付近の地名は大神宮といいます。

宿舎は「安房自然村」の中の 正翠荘 にしました。ここの温泉が目当てです。
千葉県は全国有数の温泉県なのに、有名観光地+温泉の組み合わせが少ないためか知らない人が多い。ここの温泉は薄い褐色で肌がスベスベになり良く温まるお風呂です。
岩盤を掘り抜いた先にあり、野趣が漂います。
虫に刺された箇所が一日で好転したのには驚きました。
                                   つづく

 

 

★冬はフユイチゴでしょ!!


   野のフユイチゴ  実だけを集めてジャムにします 

冬の山道を歩くとフユイチゴを時々見かけ、一つ二つ摘まんで食べるのが楽しみな人は多い。
そのフユイチゴをコンビニ袋いっぱいに摘んできてジャムにするのが年末の恒例で、
イチゴジャムのような甘い香りはしませんが、甘酸っぱくておいしいジャムになります。
今年はちょっと少なめにしましたが…。

フユイチゴジャムの作り方は、裏ごしをかけるか・かけないか、どちらも一長一短、お好みです。

     *裏ごししない→簡単。ツブツブが気になる。ワイルド。
     *裏ごしする →面倒。なめらかなジャム。上品。

◆裏ごししないフユイチゴジャムの作り方
  1.摘んだイチゴをよく水ですすぎ、ゴミを落とし鍋へ。
  2.重量の半量程度の砂糖を加えてできれば1時間放置。
  3.つぶしながら煮込めば出来上がり。
  4.レモン等は加えませんが、少し赤ワインを加えて煮込んでも良い。

思いのほか、イチゴの皮やツブツブの種が舌に触ります。でもそれがワイルドで良い。

裏ごしをかけるために実を引き上げると、鍋に鮮やかな煮汁が残ります。
これを煮詰めてジャムにすればなめらかで上品なジャムになりますが、いかにも量が少ない。
それで量を増やすために裏ごしをかけると、色がくすんでしまう場合があります。
不思議なことに、くすまない場合もあります。

今回は鮮やかな赤いルビー色で透明感のあるしっとりしたジャムになりました。
運しだいです。
くすんだとしても、見苦しいことはなく、そういうものだと思えばよろしいです。
味に変わりはありません。

フユイチゴはイチゴと名前がつきながら、草の仲間ではなくツル性バラ科の低灌木なので、枝や葉にトゲトゲがあります。素手で採集する場合は注意してください。