★大多喜藩の海防砲台跡 


  画像は御宿・岩和田海岸の日本メキシコ交流記念塔からみた太平洋
  手前が記念塔(下部)、奥にメキシコから贈られた銅像が小さく写っている
  ここにかつて大多喜藩の大砲が据え付けられていた

鎖国時代とはいえ太平洋は世界につながっているので外国船が来てしまうこともあります。
1609年、スペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴを乗せた船がメキシコに向かう途中で遭難し、生存者317名を献身的に救助したのが岩和田の人々でした。ロドリゴは大多喜藩主・本田忠朝とともに江戸城で徳川秀忠、駿府城で家康とも謁見し、翌年、メキシコに帰帆したのは地元では有名な話です。

その記念碑がある場所に幕末には大多喜藩が設置した砲台がありました。
江戸中期以後、ひんぱんに外国船が現れるようになると、幕府は鎖国を徹底するために外国船は有無を言わせず打ち払うように命令し、沿岸防備を各藩に厳命したからです。
その時に大多喜藩が設置した砲台はここ岩和田の他に、もう3か所ありました。

 * 岩船漁港北台地
 * 旧大井村浦北台地
 * 大原漁港小浜八幡神社台地

当時、御宿町から大原にかけての海岸は大多喜藩領(飛び地)でした。
上記合計4か所はいずれも太平洋に突き出た高台で、大多喜上原の反射炉(→●)で鋳造された大砲が設置された模様ですが、4か所とも「大多喜藩砲台跡」の表示はありません。
岩船や大井は記録からあの台地だなと推測でき、ちょっと足を踏み入れてみましたが、どこにもその痕跡を見つけることはできませんでした。残念。
大原小浜神社の砲台跡地なんか、浸食によって崩壊して海に沈んでしまい、今はもうありません。

隣の一宮藩(藩主:加納久徴 カノウヒサアキラ)が設置した一宮町の砲台跡地はきちんと整備されているのと比べると、ほとんど「無視」と言ってよいでしょう。
そのため、大多喜藩の砲台跡地はどこですかと地元の人に聞いても知らない人ばかり。

当時、4か所の砲台には見張り場もあり、藩士と村役人が常駐しており、一朝事あれば大原小佐部(オサベ)にあった大多喜藩陣屋から急使が城にたち、城から江戸に知らせる手はずになっていました。
小佐部陣屋跡は国道128号小佐部信号脇に未利用地として現在も残っており、陣屋跡という石碑もあります。

ところで、御宿から南、鴨川にかけては埼玉県の岩槻藩の砲台が11か所ありました。
埼玉県からなぜわざわざと思いましたが、岩槻藩主阿部氏は元大多喜城主で、岩槻に転封になった後も勝浦やいすみ市に領地をもっていました。
それで岬町中滝に岩槻藩陣屋がありました。現状は農地でそのおもかげはありません。
ともかくその縁で外房の海防を命じられたのでしょう。

文久3(1862)年、生麦事件が起き、対英賠償交渉は難航し、翌年幕府は戦争準備を各藩に指令して房総も一挙に緊張感が高まりました。
大多喜藩・松平氏は率先して戦う旨(ムネ)、幕府に回答するとともに農民兵を招集しました。総力戦の意気込みです。これは士農工商の枠組みを越えた国民皆兵制度のさきがけでした。
岩槻藩阿部氏の発した文書によれば、黒船が現れたらスキ・クワ・ナタなど武器を持った村人を集め、鯉のぼりでも何でも旗を掲げて備えがあることを黒船に示せとあります。

黒船の大砲の射程距離は2~3kmなのに、お台場の大砲はその半分も飛ばず、試射したら350mだったというあわれな話も伝わっています。
江戸では引っ越し・避難騒ぎも起きていましたが、物見高い江戸庶民は「怖そうで怖くないのは台場の大砲、小屋掛けお化け」と揶揄(ヤユ)したそうです。
国家機密をばらしたと逮捕されそうな話ですが、彼我(ヒガ)の実力の差は庶民にも知られていました。

では大多喜藩の新造大砲はどのくらいの威力があったのでしょうか。
残念ながらその資料が全く見当たりません。

1868年、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は大敗北を喫し、徳川慶喜は江戸に逃げ帰ります。
鳥羽伏見戦の幕府軍総裁は大多喜藩主・松平正質(マサタダ)でしたから、薩長新政府からきびしい処断をうけました。大多喜城は無血開城、全財産差し押さえです。
ところが提出した武器弾薬一覧に新式大砲が一門も記載されていません。
上原で200門も製造したという大砲はいったいどこに消えてしまったのでしょうか。

そのため本当は大砲は製造されなかった、上原の反射炉は失敗だったという説もあります。
日本史教科書やwikiに大多喜藩の反射炉が一行も記述されていないのは、記載すべき中身がないということなのでしょうか。

私の手元には上原で拾ってきた溶けた鉄クズが一つ保管してあります。
上原には確かに反射炉があった証拠として。
大多喜藩の反射炉―――いつの日にか資料が整い、その全容が明らかにされることを望んでいます。

  

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★たぶん一番簡単な柚子茶の作り方 


  本柚子5個使用。氷砂糖を入れて1週間もたてば

【材料】
  ①柚子――適量。  ②氷砂糖――柚子と同じ重さ

【作り方】
 ①柚子はよく洗って水気を拭き取り、2分割してから皮と果肉(袋付き)に分ける。
 ②よく切れる包丁で皮は千切りにし、果肉はタネだけ取り出し細かく切る。
  ※種は柚子ローションに使う。今回は種も一緒に柚子茶にしてしまいました。
 ③皮と刻んだ果肉(袋付き)を混ぜ合わせる。
 ④消毒したビンに③を入れ上から氷砂糖をかぶせ、(画像左)
 ⑤常温保存で1~2週間で出来上がり。(画像右)

白いワタを取れだの、何回も茹でこぼせだの面倒なことは一切ありません。
刻んで氷砂糖をのせておけば、どこから水分が出るのだろうと思うほど水分(果汁)が出てきます。
それにしたがって柚子の皮も小袋も柔らかくなってきます。
苦みが出ないのが不思議ですね。
お茶うけとしてそのままいただいても良し、柚子茶として湯を注いでいただいてもOK。

種は小瓶に入れ、35°の焼酎を入れて柚子種ローションにしますが、焼酎が嫌ならば水でもOKです。
柚子の種水ローションでもペクチンが出てきて、冬のカユカユ症状がおさまります。
今回の柚子茶は種も一緒にして、トロミが出るように考えました。
もちろん種以外は全部食べられます。
いただく時に種をよければ良いという考えですが、上品に作るならば種は最初から別にしておく方がいいでしょう。

どうでもいい知識
柚子(ユズ)は完全に日本語化していますが、元は外来語。韓国語ではユジャです。
韓国では喫茶の習慣が弾圧された歴史があり、茶葉を使わない「茶」が広まりました。
柚子茶もその一つで、高麗人参茶や生姜茶は日本でもおなじみです。
で、元々は中国語だったと思うのですが、現代中国語で柚子を引くと「文旦 ブンタン」となるからややっこしい。
なお、英語で柚子は Yuzu です。フランス語でもユズと発音するのは幕末に日本から欧米に輸出されたからでしょう。

  

★寒くなればシャコバサボテンの花が咲く 


   バスルームは事実上の温室

右側の赤みがかったピンクのはなやかな花がシャコバサボテンの花。
今年で7年目。最初は小さかった株が大きくなり、毎年豪華な花を楽しませてくれます。

シャコバサボテンとはシャコに似た葉のサボテンの意味で、シャコは漢字で蝦蛄。寿司ネタになるシャコのことです。そういえば葉がギザギザで甲殻類に似ています。
花ガラを摘み取れば次々に咲き続け、冬のバスタイムを彩ってくれます。
花が終われば、姿を整えるために切り取った葉を土に挿しておけば根が出てくる不思議な植物です。
別名がクリスマスカクタス。クリスマスの頃に咲くカクタス(サボテン)の意。

サボテンも実は半分日本語で、石鹸のことを昔はシャボンと言いました。
南蛮人がカクタスを日本に持ち込んだ時、トゲのないサボテンを切って泡立て、「石鹸のように使える」と言いました。
「石鹸のような物」を漢字で「石鹸体 シャボンテイ」と書き、それがサボテンになまったと言われています。

シャコバサボテンの隣りがレモングラス。
レモングラスは地植えのまま越冬させています。もちろん保温処置はしてあります。
でも万一のための保険として、一部を鉢上げしてバスルームに置きました。
一度、全滅させたことがありますからね。

左側がバジルで、バジルも外でビニールをかけて越冬させていますが、厳しいでしょう。
一部を鉢上げして育てています。
バスルームで育てれば、春まで元気。そうなれば挿し木でどんどん増やせます。

バスルームは普通、北側の一番寒い場所にあることが多いようです。
何有荘では南面するように設計しました。
日当たりが良く、天気が良いと今の時期、昼間は28℃にもなります。
暑くてでムッとするくらいで、それで換気のために一日中窓を開けている日が多くあります。
お天道様の力は本当に偉大です。

◆秘密保護法案、衆院通過
今だってじゅうぶん秘密主義なのにね。
秘密というのは何か悪だくみか、大失敗を隠しているに違いない。
秘密ではなく情報公開。これががわたしたちのスローガンです。
どんなに困ったことでもみんなで考え、みんなで解決していけばいいじゃないですか。

  

★イソギク(磯菊)の花、満開 


   太東崎灯台にて

この近辺では珍しくもない花ですから、「大切にしよう!!」という掛け声はどこからも聞こえてきませんが、千葉県では準絶滅危惧種に指定されています。
名前の通り、海岸沿いに多く、時たま庭の生け垣の下草のようにして育てている家もあります。
条件が良いと1m近くになりますが、風が強い場所では地を這うようにしています。

ネット情報だと「千葉県犬吠埼から静岡県御前崎」までに分布するといいます。
同じ文書がいくつもあるのは、たぶんコピペしたからでしょう。
実際には、茨城県のひたち海浜公園でも咲いていますし、京都府の日本海側の海岸でも咲いています。
人が持ち込んだものが野生化したのか、もともと自生していたのか、興味があるところです。

犬吠埼と御前崎を底辺として、頂点を八ヶ岳にとった三角形を考え、その北側の関東東北地域、西側の西日本地域、そして三角形の内側の地域と日本を三分割して考えてみましょう。
日本の文化がこのラインで東西に区分されるとは有名な話です。
実は動植物もこのラインで東西が異なるといわれています。

このラインは昔ならったフォッサマグナラインとほぼ重なり、三角形の中のみに特徴的な植物群を ”フォッサマグナ要素”と言うそうで、イソギクはその代表選手ということになります。

ならば、もうちょっと大切にしてやりたいものです。
近くの国指定の海浜植物群もだんだん雑草化が進んでおり、保存地区だから取るな、触るな、立ち入るなと言うだけではなく、周辺地域では積極的に保護、育成していく時期のように思います。
太東崎灯台をイソギクの名所にするなんていうアイデアはどうでしょうか。
地元の準絶滅危惧種を守り育てる活動は、景観ばかりではなく社会的意義も大きいと思います。

何有荘でも直販所「なのはな」で購入した株を1株植えたのですが消えてしまいました。
植える場所を変えてまた育ててみようと考えています。

  

★冬を越す青筋アゲハのサナギ 


   長さ3cmぐらい。孟宗竹に極細糸で体をくっつけている

アゲハやキアゲハのサナギは見慣れていますが、画像のサナギは何か、ちょっと迷いました。
姿かたちからアゲハの仲間だろうとは思います。でも孟宗竹についている事がやや気になる。
竹や笹を食草とするアゲハの仲間はいませんから。
そうしたら相方さんが、川崎で良く見かけるよ、ポストの脇の木に時々いると言うではありませんか。
郵便受けの脇といえばクスノキですから、きっとアオスジでしょう。
サナギになる場所を求めて竹林に来てしまったと思われます。
「アオスジ サナギ」で画像検索をかけ、アオスジアゲハのサナギと確定しました。

        参考画像:アオスジアゲハ

昨日は里山センターの竹林の整理清掃のために有志が集まりました。
会員のお子さんで4歳の男の子が来ていたので、見せてあげました。
イモムシは知っていて、赤いツノを出すんだよねといいます。(タイシタモンダ)
うん、そうだね。そのイモムシが秋になって冬になって寒くなるとサナギになって冬眠しちゃうんだよ。春になると蝶々になってまた飛んでいくんだ、と教えました。
興味を示したようです。
で、触ってみな、と勧めましたが触りません。
わたしが触ったところ、サナギが少し体をひねったので驚いたのだと思います。
噛みついたり刺したりしないから大丈夫だとなだめて、ようやくそっと触りました。
その子はわたしの顔を見てにっこり笑いました。

昆虫や大自然の生き物が好きな子になってくれるとうれしいですね。
虫を見たら条件反射的に殺虫剤では世界が狭くなってしまいます。
ご両親もいろんな体験をさせたいと思っていらっしゃるようです。

アオスジは年に何回か羽化するので、正確には寒くなったからサナギになるのではありません。
このまま羽化しても冬を生き延びられないと判断するとサナギのまま越冬します。
アゲハとアオスジの幼虫の差など、細かいことはそのうち理解していくでしょう。
今は、イモムシがサナギになってしまうという不思議を自分の目で見てくれれば十分です。
やがて蝶になって飛んでいくことに驚きと期待とを胸に秘めて成長してくれるといいな。

この世は不思議なことがたくさん起こります。
だから自然は素晴らしく、この世は美しい。

  

★大多喜藩の反射炉遺跡 


   くず鉄や耐火煉瓦破片が露出している

いすみ鉄道は、わたしが小学生の時は国鉄木原線という名前だったと覚えています。
その木原線の歴史を調べていて、おもしろい歌を発見しました。

 鉄道唱歌 ~木原線バージョン~    作詞:苅米繁幸

       10番 大多喜すぎて上原の/台地に反射炉ありしとこ/
               時の城主松平/大砲つくりし処なり

この歌詞を見てびっくりしました。
エッ!! 大多喜に反射炉があったの!?。

反射炉とは、幕末の最新型溶鉱炉のことで、伊豆の韮山(ニラヤマ)には江川太郎左衛門が作った反射炉が現在も保存されています。
反射炉は伊豆韮山の他、佐賀鍋島藩、薩摩藩、長州藩、水戸藩が知られていましたが、大多喜藩は初耳です。
世界大百科事典にも、wikiにも大多喜藩の反射炉は載っていません。もちろん教科書にも。
大多喜の人に聞いても知らないという答えばかり。

大多喜の図書館に問い合わせて資料を見せていただきました。『大多喜町史』『大多喜城物語』(渡辺包夫・市原允共著)
司書の方から小倉土建のそばと聞いたので現地を見てきました。グーグルの写真地図でおよそのアタリをつけていきましたが、台地上にその痕跡はまったくみつかりません。
現状は更地となり、畑地や住宅地となっています。
旧家らしきお宅の人に尋ねたら、鉄くずが露出している場所を案内してくれました。

細い三叉路の一画で、道路面からほぼ1mほど高くなり、雑草をかき分けてみると確かに鉄くずやレンガの破片がうずもれています。道路わきの蓋のある側溝にも散らばっています。
察するに、反射炉を撤去した時のガレキ捨て場だったか、あるいは昭和25年にこの道路ができた時の残渣捨て場だったのでしょう。
では、反射炉本体はどこにあったのか、その地図などはなく、残念ながら不明です。

時の城主は松平正和(マサトモ、1823-1862)。徳川譜代の家柄で小大名ながら開明派であり、ペリーの黒船来航(1853)以来、国防強化のために進んだ海外の技術を採用して国産の大砲鋳造を決意しました。
その溶鉱炉が上原の反射炉であり、製造した大砲は約200門と言われます。
明治維新に際し、すべて官軍に接収され、現在は1門も保存されていません。
反射炉も撤去されて、今は草むらの影で昔を偲ぶしかありません。

反射炉建造では韮山の江川太郎左衛門の指導を受け、地元の鋳物師の棟梁・三上氏の采配で建造されたようです。房総は大昔から優れた鋳造技術の伝統がある地域です。
しかし、耐火煉瓦製造技術や石炭などない時代にどうやったのか、不明な点だらけです。
現地では火力の強い松の木炭が発掘されていますから、石炭ではなく木炭を利用したのでしょう。
鉄鉱石は近辺では鉱山がありませんので原料をどこから調達したのでしょうか。
夷隅川の砂鉄とも考えられますが、大量にとなると考えにくいし、幕末の砂鉄採集事業の話は伝わっていません。
すると、太平洋戦争末期のように、既成の鉄製品やクズ鉄を再利用したのでしょうか。

何もかも記録がなくなり、記憶も薄れ、「台地に反射炉ありしとこ」という歌さえ知る人がいなくなりました。
せめて残土置き場であったと推測される現場を教育委員会が保護・保存の処置をとることを望みます。

参考のために、佐賀鍋島藩の反射炉を描いた図を紹介します。画像元→こちら
     
 
大多喜・上原の反射炉は600平方m、高さ2mの土塁で囲まれていたといいます。
これは反射炉本体のことで、万一、反射炉が崩壊した時に溶けた鉄が暴れないように土塁で囲んだものでしょう。
200門の大砲を作るためには、上記佐賀藩の絵のように付属の工場もあったはずで、倉庫や資材置き場を含めればその敷地は上原の台地全体に広がっていたと思われます。
台地上で黒煙を吐く巨大なレンガの塔に地元の人は度肝を抜かれたに違いありません。

およそ150年前の江戸末期、確かにここに文明開化のシンボルと言うべき耐火煉瓦造りの反射炉があり、そのために汗水流して苦労した多くの人々がいて、その反射炉を誇りにした地域でもありました。
それは忘れてしまうにはあまりにも惜しい事実です。
                                      つづく
   
鉄くず発見場所はこちら→●


 

★寒い朝はサフランティーをどうぞ 


 3本の赤い雌しべは根元で1本になっている    湯を注いで5分だとまだまだ

1杯のティーに花3個分、つまりメシベ9本程度を使います。
サフランは他のハーブと異なり、成分がなかなか溶け出ません。
少々の湯に5分間浸し、熱湯をかけて更に保温し10分待つという感じで黄金色のティーになります。
サフランライスやパエリヤを作る時に、事前に半日ぐらいは水出ししますよね。
それと同じです。

いろいろとサフランの効果がうたわれています。
しかし、どれも気分のような気がするのはわたしたちがニブイからでしょうか。
「あぁ、何と素晴らしいんだろう」と頂くのが、けっきょく一番体にも心にもいいのでしょう。

毎年、サフランを育てています。
ところが昨年の分は葉が出ても花が咲かないのは育て方が悪いのでしょう。
ともかく葉は出ますから、大きく育てれば球根も大きくなるかなと期待はしています。

何も知らずに「ほっとけ栽培」というのは、うまくいかないことも多い。
栽培業者さんは手間ひまかけているのだから、何もしないで同等の品質を求める方がおかしいのだと少し反省しています。

  

★天然柿酢の作り方 


  左:ビン詰め1週間後    右:2か月たって

必要なものは柿と梅酒用のビンだけ。
水を一滴も使わない純粋柿酢=天然柿酢はマイルドで栄養たっぷり。作り方は簡単です。
樽に柿をぶち込んでおけば自然にできると豪語する人もいますが、それは達人の話。
少々は面倒をみてやるのも楽しみの内です。

◆柿の仕込み
  1.渋柿、甘柿を問わない。完熟柿の方が発酵が早い。
 2.皮つきのまま利用。種もそのまま。ヘタや小枝は切り捨てる。
 3.柿は洗わない。ゴシゴシ拭かない。表面に自然に付着した酵母菌を利用するので。
 3.消毒したビンの底に柿を並べ、固い柿ならば四等分にしてビンの口まで入れる。
 4.ドライイーストや種酢を使えという人もいるが不要。
 5.キッチンペーパーをかぶせ輪ゴムで留める。その上に軽くフタを載せおく。

◆発酵・熟成
  1.そのまま放置すると数日で水分が出始め、間もなく泡も出てくる。
   柿の糖分が分解されてアルコールになっていく。ドブロク造りと同じです。
 2.時々フタをきっちり締めてビンを転がし、すべての柿が液に濡れるようにする。
   カビ防止、均一な発酵を促すため、
 3.半月もするとビンの中は見るのもおぞましい姿になっている。
   泡が出なくなったら次はアルコールを酢に変える行程が自然に進む。
   開栓した清酒を放置していたら酢になっちゃった経験、あれと同じこと。
 4.1か月後、ポテトマッシャ―で柿をつぶす。カビ防止、均一な発酵を促すため。
 5.表面に大量の白い酵母菌がコロニーを作ってきます。気色悪いが無害です。
   これは白カビではありません。白カビならば綿ホコリのような雰囲気ですから。
 6.2か月もすれば出来上がり。濾しましょう。ザルを2~3枚用意します。
   上のザルで大物を、下のザルはキチンペーパーを敷いて細かいクズを濾します。
 7.それでも画像のように透明な酢にはなりません。気にしない。
    濁りの主因は酵母菌の残骸ですから、そのうち沈殿してしまいます。
   ビオフェルミンは酵母菌の残骸を固めたものです。
 8.保存はキッチリとフタができるビンに入れておけば、常温で1年。

使用する柿の熟度によって、出来上がりが早い場合も遅い場合もあります。
柿をつぶさず、そのまま放置する人もいます。半年もすれば酢になっているからと。
つぶさない方が出来上がりの透明度は高い。
でも失敗する可能性も高くなる。かびたり、蒸発したり、コバエが入ったり…。

いすみ市では取り残された柿が夕陽に輝いています。
それは柿酢にするには絶好のコンディション。
あなたも作ってみませんか?

 

 

★柚子をもらってジャムを作る 

 

我が家の柚子はたわわに実り、今年はどこのお宅でも豊作らしい。
「柚子、いる?」と聞かれたので「もちろん頂きます」と答えて、さてどうしようか。
どこのウチの柚子も放任でしょうから、無農薬に決まっています。
で、ジャムにすることにしました。
柚子はワタに苦みがあるから、ジャムにするには少し手間がかかります。

◆柚子ジャムの作り方
 1.柚子をよく洗い半分に切る。汁を絞り、別にしておく。
 2.薄い内袋をむしり取り、種を取り出し、それぞれ別に保管。
 3.皮の内側の白いワタを適当にそぎ落として別に保管。
 4.皮を千切り、または適当にぶつ切りにし、たっぷりの水に一晩つけて置く。
 5.翌日、水を捨て、新しい水で軽く煮てまた水を捨てる。(苦み取りのため)
 6.2の内袋全部と種半分をお茶パック袋に入れ、皮と一緒にひたひたの水で煮る。
   ホウロウ鍋が良い
 7.水が減ってきたら1の汁を追加。皮が軟らかくなり、適当にとろみが出てきたら、
 8.好みの砂糖量を追加して煮込み、できあがり。

※ 今回、汁を全部ジャムに利用しました。
※ 汁をジャムに使わないで「柚子酢」として利用する手もあります。
※ 残った種は焼酎に漬け込んで「柚子ローション」にします。
※ 残渣であるお茶パックの内袋と種、はいだ白いワタもまとめて「柚子風呂もどき」
  こんなものでも肌はツルツルになります。翌日は生ごみ堆肥へ。
※ 砂糖は通常のジャム作りとは異なり、一番最後に入れるのがポイント。

柚子の汁を全部使ったビタミンCたっぷりのジャムです。
韓国ではこれを「柚子茶」といい、お湯で溶かして飲みます。
韓国産の柚子茶、柚子ジャムが安く出回っていますが、無農薬の柚子を使った手づくりの味はまた格別です。

内側の白いワタを取り除かないで、何回も何回も茹でこぼして苦みを除く方法もあります。
増量になるし、それもまたおいしい。
いずれにせよ、柚子のジャムは手間がかかります。
よし、やるぞ!! という決意が必要ですが、出来上がればうれしいものです。

 

★リンドウの花咲く野道 


    色が飛んじゃって…。実物の方がきれいです。

誘われていすみ鉄道の終点、上総中野駅から歩1時間ほどの大塚山に行ってきました。
標高241mの山ですが、房総は高い山がないので周囲は360度の絶景です。
晴れていましたが富士山は見えなかったのが残念。

地元の人々が山頂までの山道を整備し、万葉の道と称しているのは万葉集のあれこれの歌が掲示されているからです。
たいていは関連ある草木の脇に掲示されているけれど、「「銀(しろがね)も金(こがね)も玉(たま)も何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも  山上憶良」のように草木とは無関係の秀歌も掲示されています。
はじめて見る歌も多く、歌を眺めていると山道をたどるのが苦になりません。

その山道に目だったのがリンドウで、あちらこちらで咲いています。
なかには雑草とともに草刈り機で刈られたものもあります。刈り残すとか、移植するとかは面倒ですからね。来年また出てくるよと気楽に刈って、道路を整備しています。

その一方で、イチョウやフヨウを植栽し、公園化が進んでいます。
幼稚園児が遠足に来る山ですから、環境整備は大切だと思いますが、ぜひ野の花を残してもらいたいと願っています。
野道にリンドウが咲いている景色は今では大変貴重です。