★2013大原はだか祭 見学記(3) 

はだか祭二日目は夕方からの「大原商店街神輿渡御(練り歩き)」と大原小学校での「大別れ儀式」。そして暗闇の中での「三社の別れ儀式」を地元漁師の拓さんと共に参観しました。

「商店街渡御」は縁のある神輿が二社ずつ並び、木戸泉酒造前から順に大原小学校校庭までの1kmを行進します。
高張提灯を先頭にし、小学生たちがいっぱしの祭り支度に身をつつみ、声を張り上げて「祭唄」を歌っています。手元のアンチョコを時々みている姿がほほえましい。のど自慢の若衆や親父さんの良く通る透き通った祭唄も聞こえてきます。女子衆も白いロングダボ姿で、すたすた歩いて花を添えています。中には神輿を担いでいる娘さんもおり、神輿の守棒にぶら下がっている小さな氏子もいます。
その行列に知った人はいないか、見物人も熱心に見入っています。

小学校校庭での「大別れ」はそれは凄まじいものです。
一基の神輿に高張提灯や弓張り提灯を持った役員、担ぎ手・交代要員が50~80名前後いて、それが十七基そろえば、千人前後の人数となり、一斉に左回りにグルグルと走り回ります。
グルグル、グルグル前になり後になり、ピピーピー、ピーッと危険を知らせ誘導する呼子が鳴り響きます。神輿どうしがぶつかれば大変なことになるとハラハラしながらの見物で、校庭の中はまるで凶暴な渦を巻く台風の雨雲を航空写真で見ているかのような様相でした。
やがて金色の鹿島宮神輿が朝礼台の上に安置されると巨大な渦は自然に治まり、花火が上がります。各社それぞれ所定の位置に戻り、幾度となく神輿が上空にほうり上げられます。周囲はすでに陽が落ち、提灯には明かりが灯されており、別れの時刻が近くなったと知らされます。
各社の神輿はそれぞれ縁の深い神輿と連れ添い、神輿を高く掲げながら

   〽若け~もんども別れがつらい 会うて別れがなけりゃよい ヨイヨイ

という別れ歌が繰り返し唄われて流れ解散となります。それは感慨深い光景です。

ところが祭、この近辺ではマチと言いますが、マチはまだ終わらない。
拓さんの地域の鹿島宮境内に上座(カミクラ)三社と呼ばれる鹿島宮、瀧内神社、日月神社の三社が集まり、再び別れの儀式が始まります。
上の画像。本来は十五夜の晩だけれど、この日の月はまだ登らない。おまけに少々雨模様。

先ほどの唄に加え、今度は

     〽さーらば さらば デーシン デーシン ヨー

この唄が繰り返され、三社の神輿はゆっくり右回りに回転していきます。付きつ離れつ、まるで男女の別れのような風情が漂います。

さらに三社の神輿は場所を変え、旧街道の四つ辻での別れになります。
拓さんが言うには、昔はこの四つ辻は周囲が田畑で広かったが、今は建物が込んでいて、神輿の動きが制限されて気の毒だ。けれど昔から最後の別れはこの場所で行われていたから、今でもこの場所が大事なんですねぇ」とのことでした。
四つ辻の角には高さ2mほどの伊豆石製の道しるべが建っており、昔から重要な交差点であったことを今日に伝えています。
その道しるべにはしめ縄が飾られており、ワラを編んでしめ飾りを付けたのは拓さんです。

「デーシン、デーシンと言う意味はもうだれも知らなくなってしまったが、明治生まれの俺の婆さんが言うには、また来年ということだった」と拓さんは述懐します。
「さらばデーシン」とは「さようなら また来年」と言う地元の古い言葉だったようです。

拓さんの家に戻り、マチご馳走をたくさんいただき、楽しく有意義な一日が終わりました。
大原はだか祭は勇壮な潮踏みが有名だが、高張提灯に照らされて神輿がきらきら光る別れの場面が一番ジーンとくるネという拓さんの言葉に共感します。
ありがとうございました。
                                おわり
 

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★2013大原はだか祭 見学記(2) 

 
   大井谷(オオイヤツ)にある瀧内神社の絵馬(市指定文化財)2枚

大原町の旧名称は中魚落(ナカイオチ)村といい、歴史の古い漁村です。
平城宮跡からは 「上総国夷灊(イシミ)郡蘆道(イオチ)郷からアワビ献上」という木簡が発見されています。この蘆道郷とは中魚落村、すなわち大原のことに違いありません。
明治になり、小浜(コハマ)、寄瀬(ヨセ)、大井谷(オオイヤツ)の3つの集落で大原町が生まれました。
神社は10社あり、その祭礼の様子が瀧内神社の文久四年(1864)の絵馬(画像左)から伝わってきます。

中魚落村の10基の神輿が連なってあぜ道を通っており、担ぎ手と見物客で大混雑。
地元漁師の拓さんは「今と同じ形の神輿だから、それぞれあの地区の神輿だと推測できる」と言います。
少なくとも150年前から現在の祭礼の形式が整っていました。
その後、大原町は周辺の東海地区、浪花(ナミハナ)地区を併合し、現在では神輿の数も十八に増え、十八社祭とも言われますが、今年は事情で十七社でした。

瀧内神社とは大井谷にある古社で日本武尊がご祭神。この地域では上座(カミクラ)三社のうちに数えられる格式の高い神社で、創建年代は不明ですがおそらく千年以上の歴史があると思われます。
伊勢神宮ではなくとも連綿と千年以上にわたって村祭りが行われているってすごいですね。
いつもは閉じている神社ですが、今日は祭りの日ですから拓さんと一緒に参拝し、絵馬を見せてもらいました。
拝殿と本殿を結ぶ短い回廊の左右に絵馬があり、正面の本殿は時代劇に出てくるような錠前がかけられて内部は不明です。左大臣・右大臣らしき木像が本殿を守っているのが印象的でした。
日本武尊は常陸国風土記では天皇と記述されていますから、ここ外房でもヤマトから来た天皇という伝承があったのでしょうか。そんな気がします。

右の絵馬:神社境内が祭礼で大いににぎわっている図柄です。
「瀧内大明神 大井谷村氏子中 天保十二年」と書かれた大きな幟旗(ノボリバタ)が描かれており、天保十二年(1841年)に作成された幟旗と現在の幟旗とは全く同じ形式です。
また描かれた石垣などから敷地は現在の神社境内と同じだとは案内してくれた氏子世話役の方のお話です。
まるで夜店のような雰囲気で、当時の人々の活気が伝わってきます。
絵馬には大きく「大願成就」と墨書されていますから、大きな願い事がかなった御礼に奉納された絵馬でしょう。

絵馬にある文久四年、あるいは天保十二年とは幕末に当たり世情は大混乱の時代でした。
太平洋上に黒船が現れ、コレラや疱瘡が大流行し、おまけに富士山の爆発や大地震、気候不順により死者を出すほどの大飢饉などが繰り返し村々を襲いました。
それでも望みを失わず、大きな願掛けをして、それを達成する人ってすごいですね。
またそんな世情だからこそ、みんなで集まって元気を出そうヨという江戸期庶民の心意気が伝わってきます。本来、「マツリ」とはそういうものでしょう。
描かれた人々の笑顔がまたすばらしい。

普段は大井谷区民館にて写真画像で見ることができますが、この会館も閉まっていることが多い。
この日は祭礼ですから広場に大きなテントが張られ、遠くまで重たい神輿を担いで走り回る氏子のために食事や茶菓の接待の準備で大わらわの中をお邪魔しました。
貴重な絵馬を拝見させていただき、ありがとうございました。
                                        つづく
 

 

★2013大原はだか祭 見学記(1) 

大原の漁師拓さんから見学に来ないかと誘われて朝一番の行事、神輿の宮出しから昼過ぎの浜降り神事(潮踏み)までご案内いただきました。
はじめに思ったのはどこの神輿も本当に立派で、この神輿で海に入るの?と驚きです。

画像左は鹿島宮の神輿で新旧二基あり、新しい神輿は集落を練り歩く時、古い神輿で浜に降りるということですが、どちらが新旧か見分けがつかないくらい立派です。
鹿島宮は地域の親神様として位が高く、参加各社の中では唯一梨地の屋根で金色に輝き目立ちます。

画像右 神輿を担ぐ棒にこの地域の特徴があり、「守棒」という縦棒しかありません。
狭い路地を駆け抜けられるようにと横棒がないのですが、守棒が常に平行を保てるようにとガッチリと間棒とロープで固定されています。
通常、大原の神輿は肩で担がず、手で抱え、あるいは携えて巡幸するのは神様と氏子の関係が親しいこの地域の特徴だからだと拓さんは言います。
神輿の守棒を腕で抱えるため黒い手甲はヒジの上まであるロングスタイル、足許は老若男女とも黒い地下足袋です。
各集落ごとに揃いの鉢巻と腰の兵児帯が粋でイナセで、だれもが誇らしげな祭り装束です。

大原は漁港ですから浜降り神事は豊漁祈願の行事ですが、周囲は農村地帯。
したがってこの祭は農漁村共同の「秋祭り」の色彩が色濃く反映されています。
お正月同様に主要な施設にはしめ縄が張られ、そしてススキが飾られているのは、この祭の元々の日程が中秋の名月に合わせていたからでしょう。各氏子の家や神社では祭壇が設けられ秋の収穫物が供えられています。


鳳凰は稲穂をくわえている       瀧内神社の鳥居のしめ飾りにはワラの酒樽が


榊と竹、そしてススキの飾り      祭壇には秋の恵み。根付きの稲が印象的。

市長による豊漁・五穀豊穣祈願の弓矢は3回とも失敗して失笑を買ってしまった。
潮踏み神事。事実上、渚の波を踏むレベルではなく、胸まで海に浸かります。それでは伝統に反するとして海に入らない神輿もあります。各社の神輿は危険防止のためにテッペンの鳳凰をはずし、よく見ると神輿の飾り帯は五色の布から晒し木綿に替り、ガッチリと固定されているのがわかります。神輿を高く掲げて隣の神輿と競いあい、親しみ合っているように見えます。

                               つづく

追記:ヒジまである長い手甲は「腕貫・ウデヌキ」というそうです。
調べてみると奈良正倉院にもあるそうで、昔からの作業着の姿が今日の房総に伝わっているんですね。
  

★上総十二社(9)綱田玉前神社と山内四社 

 
    綱田浅間神社も1200年以上の歴史があるという

上総十二社のうち、和泉玉崎神社は現存せず、神輿は中原玉崎神社にあり、かつては飯縄寺が和泉玉崎神社であったことは先週述べました。
同じように綱田玉崎神社も現存せず、神輿は椎木玉前神社にあります。
ではかつての綱田玉崎神社はどこに実在したのでしょうか。

二つの可能性があります。
一つは神洗神社で、東浪見海岸に上陸した玉依姫グループ一行が潮水に汚れた体を清水で浄めた池があり、それゆえ玉前神社の「元宮」と称し、江戸時代の祭日には縁日が出るほどにぎわったそうですが、今日ではさびれたという印象がある小社にすぎません。
しかし、玉前様由縁の神社ですから、ここが綱田玉崎神社であったと考えるのが常識でしょう。

もう一つの可能性は綱田浅間神社です。
見晴らしの良い立地で眼下に潮踏み式典場を見ることができ、綱田集落の神輿はここで大休憩をとります。
浅間神社とは富士山の神様で知られていますが、祭神はコノハナサクヤヒメで山の女神です。
その息子が「山幸彦」であり、海の女神・豊玉姫と結婚してウガヤフキアエズが生まれますから、この神社も玉前様とは縁の深い神社と言うことができます。
創建は一宮の例大祭=はだか祭の始まりと同じ大同2年(807)と言われる古社です。

この綱田浅間神社は山道の途中の小高い岡にあり、その祭神のいかんに関わらず、その本質は「山神」様でありましょう。
房総半島でもこの近辺では「山神神社」が多く存在する地域で、神様は誰ですかと聞いても、サアーとあいまいな返事しか返ってきません。
井戸や泉、水源の神様である「水神様」と同様に、山の神様は山の神様であって固有名詞は必要ないという最も原始的な「山神様」信仰が残っていることに驚きます。

原始的な山の神様信仰のうち、地域の経済力が上昇し、集落の持つ力が増大すると、その中のいくつかは〇〇神社という固有名詞を持つようになります。
上総十二社の中では少なくとも鵜羽神社、玉垣神社がそれに該当するでしょう。

さて、和泉玉崎神社と中原玉崎神社、綱田玉前神社と椎木玉前神社の四社は「山之内四社」あるいは「山内四社」と言われることがあります。
十二社の中でも一グループとみなされる、その訳を尋ねても「サァー、山の中にあるからじゃないですか」という心もとない返事しかありません。
この四社は一宮玉前様から見ると西のはずれにあり、しかも確かに山の中と言えなくもありません。
しかし山奥深い神社ではなく、鵜羽神社、玉垣神社と立地はさして変わりません。

かつては一宮同様に上総国長柄郡に属していたにも関わらず、西のはずれゆえにか、綱田集落を除き、和泉、中原、椎木集落は夷隅(イスミ)郡に所轄換えとなり現在はいすみ市に属しています。
一宮から見ると僻地という印象があったのでしょうか、和泉、中原、椎木は夷隅川水系の集落ですし、山を隔てて一の宮水系の諸集落とは経済圏が微妙に異なります。たぶんその理由で行政区分が異なってしまったのでしょう。

「山内」を「サンナイ」と読むと、砂鉄精錬諸施設の集積地という特別な意味が生まれます。
鉱区、鉱山をヤマといい、それを探し求める人を”山師”といいます。
”一山・ヒトヤマ 当てる ”とは鉱区、鉱山を発見してボロ儲けをするという意味です。
炭鉱をヤマと言うことは年配の人ならばよく知っていることでしょう。
すると、和泉、中原、綱田、椎木の山内四社は砂鉄精錬関係四社という意味になりますが、本当でしょうか。
残念ながら文献資料は見当たりません。

ただし、上総十二社のうち、南宮神社は鍛冶屋の神様としての性格は明瞭ですし、境内には東浪見海岸から運んだ砂鉄を含む黒い砂が敷き詰められていました。
今回、山内四社も砂鉄関連神社かとの疑いから四社の境内を調べてみることにしました。

すると旧和泉玉前神社であった飯縄寺、中原玉崎神社、綱田の浅間神社、椎木玉前神社の境内も南宮神社同様に、黒い砂鉄の砂が敷き詰められているのをわたしは手持ちの磁石で確認しました。磁石にびっしりと砂鉄が吸いつきます。
とりわけ浅間神社は小高い山全体が砂鉄の山の雰囲気があり、夷隅川河口海岸(和泉浦、日在浦)は戦中から戦後のある時期まで砂鉄産業があった場所ですから、古代においてもこの四社が砂鉄産業の守護神であった客観的な条件はあります。
上総十二社と砂鉄製錬とは密接な関係があることが浮かび上がってきました。

常識的に考えれば神武天皇の故郷が外房であるはずがありません。
それなのになぜ一宮玉前神社は神武の母・玉依姫を祭り、神武四兄弟や親族一同が東浪見海岸で年に一度の再会を祝すのか、かねがね不審に思ってきました。
今年、上総十二社を順にめぐってみて、ようやく結論らしきものがおぼろげながら浮かんできました。
来週からは個別神社の話ではなく、上総十二社全体についてあれこれ考えたことを述べてみたいと思っています。

  

★9月19日は満月の十五夜 


   何有荘から眺める今晩(9/18)の月

全自動の小型デジカメで月を写すとピンボケのまっ白画像となりガッカリしますが、
コンデジで月を撮る方法はコツがあります。

画像は①シャッター優先に設定 ②1/250に設定 ③F5.6に設定 ④距離無限大に設定し、
ズームで適当な大きさにして撮影。ブログ用にトリミングしました。
一眼レフでなくともまぁ我慢できる水準の画像です。

今朝の新聞を見ると月齢12.6。
たしかに画像の左側が少し欠けているように見えます。
明日は月齢13.6。でもそれで十五夜っておかしくないですか?

いや、これでいいのです。今年は月齢と十五夜が久しぶりに一致する年です。
まず月齢は0(ゼロ・新月)から出発するのに対し、暦は1(ツイタチ)から始まります。
「満」で数えるか、「かぞえ」で数えるかの違いがあります。
だから月齢14.0が満月です。

月齢の表示は正午の値で、1日で1.0加算されます。半日で0.5加算。
だから明日19日正午は13.6でも夜中の12時には14.1となり満月を過ぎています。
細かく計算する人がいて、明晩の8時**分がぴったり満月だそうです。
でも、そこまで厳密に考える必要は普通の生活ではありませんね。

かぐや姫は夜毎に月を眺めては、ため息をついていました。
心配する爺・婆にかぐや姫は
おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。それを昔の契りありけるによりてなむ、この世界には まうで来たりける。いまは帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かのもとの国より、迎へに人々まうで来むず

8月15日に月からお迎えが来て昇天すると告白されて爺婆は仰天します。
天皇は月からの迎えを撃退するために軍勢を配置しますが全く無力化され、
月の役人は爺婆に対し、、“かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばし おはしつるなり。罪の限 果てぬれば、かく迎ふる” と冷たく宣告します。

かぐや姫は月世界で罪を犯し、地球に島流しになっていたというSF的な設定です。
その期間は地上世界では二十数年、月世界ではほんの短い期間だと述べられています。

つまり浦島太郎と同じような設定です。
地上の時間の流れは早く、竜宮城や月世界ではゆったりと流れる。
光陰矢のごとし。人の世は激しく移り変わるが理想の世界は永遠不変(に近い)ようです。
いつまでも幸せや平和が続いて欲しいという願いでしょうね。

かぐや姫は不老不死の秘薬を爺婆のために置いて去りますが、爺婆は姫のいない生活なんてと落胆し、秘薬は天皇に献上されます。
天皇も落胆し、天上に一番近い山で焼却処分せよと命じます。
もちろんその山が富士山で、「不死」 とごろ合わせになっています。
当時の富士は煙をたなびかせていましたから、その煙を見て人々は秘薬が燃えているのだと思ったでしょうか。

何有荘からは昨日、本日と連続して富士山が見えました。
月も冴えわたり、月と富士とで思い出す話を長々と書いてしまいました。
秋祭りと十五夜は一体のものであり、十五夜の晩は何かが起きても不思議ではない特別の日でした。

 

 

★台風一過の西の空には富士山が 


  16日午後には晴れ渡り、何有荘から見た日没直前の富士

18号台風は房総に関して言えば風台風で、時折激しく降るもののすぐやんでしまいます。
しかし、ここは海に近いので風で巻き上げられた潮水が強風に混ざって吹きつけ、泥と混ざってけっこう窓ガラスが汚れました。
ハゴロモジャスミンの葉がだいぶ縮れて枯れてしまったのは塩分のせいでしょう。
背の高いキクイモは軒並み倒され、わたしが作った郵便ポストは屋根が吹き飛ばされました。
その他バケツが吹き飛んだぐらいの被害でどうにか済みました。

夜になると風はまったくなくなり、雲は流れているものの月が輝いていました。
そういえばもうすぐ十五夜だなぁと思います。
旧暦8月15日が中秋の名月で、今週の木曜、19日の晩が十五夜お月様となります。
しかしこの近くではまだまだススキの穂を見るのは難しい。
なんか季節がずれてしまったようですが、今朝は「秋だなぁ」という気温と湿度でした。

調べてみると今日(旧暦13日)の日の入りは17:46。月の出は16:07.
満月に近い月の出の方が早いので、日が沈んでも月の光で真っ暗にはなりません。
秋祭りが旧暦8月13日に催行されるのはだからなんですね。
なにせ昔は電灯もアセチレンガス灯もありませんから。
夜遅くまで騒ぎまくるには絶好の月影なのです。

一の宮の十三社祭りも大原のはだか祭も江戸時代は旧暦13日~15日にかけて行われました。
新暦になってどこも苦労して日程を決めていますが、祭礼を月齢に合わせるという風習は無くなってしまいました。
それでも中秋の名月という習慣はかろうじて残っています。
今夜からあさっての晩にかけてが江戸時代の「祭りの夜」でした。
この夜ばかりは門限を気にせず外出できた若い男女にとっては貴重な晩だったことでしょう。

月の光は想像するよりもずっと明るいので、もう若くはありませんが、ちょっと近所をそぞろ歩きしてみようかと思っています。
虫の音も本格的になってきました。
窓越しにお月見をするよりずっと素晴らしいと思います。

     名月を取ってくれろと泣く子かな   一茶

 

★あん里山のバケットによじゅえもんのチーズ 


  生チーズ『ミルクの精』 生ハムとサラダを載せて

「よじゅえもん」という奇妙な店名は昔からの「屋号」だそうです。
同姓の方が多い地方では今でも昔からの通称である屋号で区別する習慣があります。
パン工房あん里山から車で10分ほどの場所に関さんの牛舎があり、ミルクを出荷し、手作りチーズを販売しています。あん里山とはお近くだからと協力し合っています。

『ミルクの精』は塩分控えめのフレッシュチーズで、チーズというのは本当はこういう味なんだと再認識させられます。
トマト、バジル、オリーブオイルと合わせるのが普通なのでしょうが、今回は市販の生ハムと合わせてみました。

パンは「パン工房あん里山」の「よじゅえもんバケット」です。
このパンはよじゅえもんのチーズに合うように何度も試行錯誤した結果生まれた黒米粉入りのフランスパンですから、チーズを載せてオーブンで焼くのがいちばんおいしいのかもしれません。
今回は生ハムが載っていますので加熱せずに頂きました。
ついでにポテトサラダも乗っけていますから画像のように具沢山。

結論から言うと、市販の生ハムの塩気が強すぎました。
生ハムを何分の一かにしないと生ハムの塩気が主張しすぎです。
だからこれは失敗作。アイデア倒れでした。

テレビ朝日系「人生の楽園」が放映された翌日は「大原、港の朝市」が予定されていましたが、折からの台風の接近で開催自体が危ぶまれていました。
準備万端整えて中止だったら大損害ですから、当日は、ほどほどの個数を用意して雨の中を出かけました。テレビの宣伝効果ってすごいですね。お客がまち構えていてあっという間に完売になってしまいました。
(あん里山の吉田ご夫妻とは里山仲間なので、何有荘の相方が販売員として助っ人に行っています。帰って来るなり「すごかったヨ」と報告がありました)

よじゅえもんさんの店でも完売だという話でした。
「港の朝市」が台風直前なのにたくさんのお客が来てにぎわったのもTV効果のようです。
番組ではイセエビ、アワビ、カツオ、干物、焼きそばなども放映されていましたから、地元はもちろんのこと、遠方からの客も多かったのは駐車場のナンバープレートから察せられます。

いすみ市には個性的で良心的なチーズ工房が5か所もあります。
おいしい手作りパン屋さんの激戦区でもあります。
無農薬野菜や果樹栽培に取り組んでいる農家さんがたくさんいます。
魚貝類もおいしく、手作り無添加干物の漁師さんもいます。
そして自然がいっぱい残っています。
若い人が張り切っている地域でもあります。

今回は「人生の楽園」というタイトルで個人にスポットが当たっていましたが、本当はもっともっとたくさんの人たちがこの地域で夢を見て努力を重ねています。
人生の楽園とは与えられるものではなく、失敗を重ね、それでも努力を積み重ねていく、その過程そのものなのかもしれません。

―――青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こういう様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。――(サミエル ウルマン)

そんな言葉を久しぶりに思い出してしまいました。

【よじゅえもん】
〒298-0104 千葉県いすみ市松丸111-1
TEL 0470-86-3021。不定休。
HP http://milkfairy2525.blog115.fc2.com/
製品案内はこちらの方のブログに詳しい→●

【パン工房あん里山】
〒299-4504 千葉県いすみ市岬町桑田2810-7
TEL 0470-80-3022 FAX 0470-80-3120
メール info@ansatoyama.com
HP http://ansatoyama.com/index.html
営業日:土日月

 

★上総十二社(8)和泉玉崎神社 

 
    飯縄寺で神輿(ミコシ)を高く掲げて出発する和泉区の氏子たち

今日は真夏のような日差しでした。照りつける太陽の下、上総十二社祭となり、いすみ市岬町和泉区の神輿も釣ケ崎で催行される浜降り神事(潮踏み神事)に参加します。
その前に旧和泉村内を一巡するので何有荘前を通過し、ぐるっと回って飯縄寺で大休憩となります。
神社の神輿がお寺に立ち寄るのは全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。
上総十二社の中でも和泉区だけの行事です。

さて表題の和泉玉崎神社は現在は存在しません。
和泉の氏子が担ぐ神輿は和泉区になく、隣の中原区にある中原玉崎神社境内にあり、そこからはるばる巡り巡って飯縄寺に来るのは、かつて飯縄寺=和泉玉崎神社だった過去があるからです。

飯縄寺が玉崎神社の名前を返上したのは明治維新の廃仏毀釈運動の結果でした。
寺院=神社という存在は許されず、飯縄寺は寺院の道を選び、参道にあった石の鳥居も脚だけ残して撤去されました。
しかし、檀家=氏子みたいな土地柄ですから、建前上は寺院であっても江戸時代と同じようにわれらが玉崎様の境内だという安心感があるのでしょう。
飯縄寺に神輿が到着すると待ちかねたように歓迎の大太鼓が鳴り響きます。

飯縄寺は「波の伊八」の彫刻が有名で、天狗の寺とも呼ばれており、ご本尊は飯縄大権現様でカラス天狗の親玉みたいなお姿をしています。
「権現」というのは「仮の姿」という意味で、変幻自在にそのお姿を変化させます。
飯縄様はある時は海の上で荒れ狂う龍の姿になり、ある時は海の恵みの女神・豊玉姫として姿を現します。

飯縄寺の「波に龍」の彫刻は大変見事なもので、豊玉姫の正体は『日本書紀』本文では龍とされています。( 『古事記』の鮫説が一般に良く知られていますが )
江戸時代の和泉区の人々にとって飯縄様=豊玉姫様という考えは何の違和感もなかったのでしょう。
飯縄寺では現在も直径30cm程度の石製球体のご神宝を祭っており、心の汚れている人が来ると曇り、きれいな人ならばくっきりしているとご住職は言います。

和泉玉崎神社の神輿には海の恵みの女神の神輿の性格が色濃いことも指摘しておきましょう。
まず屋根がゆるやかなカーブを描き、あでやかな赤に彩られて女神を暗示し、
飾紐もまるで五色の羽衣のようにゆったりと組まれてなんとも優雅な趣(オモムキ)があります。
屋根の上にある飾りが、多くの神輿は鳳凰であるのにここは宝珠です。

いすみ市の行元寺には伊八の手になる「波に宝珠」という欄間彫刻があります。この構図を踏まえて北斎が富士山を描いた名画「神奈川沖裏波」が生まれました。
波間に浮かぶ宝珠とは海の無尽蔵の恵みを表します。その宝珠が和泉玉崎神社の神輿に乗っています。
屋根の宝珠は神輿が揺れるたびに波間に浮かぶ宝珠のごとく揺れるのは、欄間彫刻「波に宝珠」と同じモチーフと見て良いでしょう。
豊玉姫による海の恵みを象徴しているのは言うまでもありません。

神輿の屋根に付いている神紋も印象的です。
左右の側面はありふれた三つ巴紋ですが、正面は日紋、後ろ正面は月紋で、この神様が日月の神様であることを象徴しています。
太東埼からは太平洋から昇る日月を望むことができ、日月の運行が世界を支配しています。
日月の微妙な差で海の干満の差が生まれ、海で暮らす人々の暮らしに決定的な影響を与えました。

今日ではもう和泉地区は漁村というよりも農村という風情になっていますが、神輿とその巡幸を見るとかつてこの地区は海に大きく依存し、海の恵みに感謝する暮らしがあり、そのための祭だったことが偲ばれます。

  

★そうめんカボチャのサラダです 

 
   一番上の黄色の糸状の具材がそうめんカボチャ

兵庫の知人から「そうめんカボチャ」が送られてきました。
外見はマクワウリを巨大化した感じなのに、包丁の刃が立たないのは、さすがカボチャの仲間だと思い知らされます。
無理やり切るのも危険と判断し、チンしてから切り分けました。
基本は輪切りですが、輪切りにしてから2分割しました。
種とワタを取り除き、煮て水で冷やして内側をほぐすと、果肉がボロボロと糸状になって崩れ落ちてきます。
それを素麺(ソウメン)に見立てて「そうめんカボチャ」あるいは「そうめんウリ」といいます。
英語では spaghetti squash スパゲティースカッシュ 「スパゲティーカボチャ」ですから、どこでも発想は似たようなものだと妙に感心します。

シャキシャキ感が取り柄でクセがないのが特徴。
逆に言うとあまり味がしないというか、少し物足りない感じがありますから
水で煮て冷やして味付けして、という工程を省き、最初から薄めた麺つゆで煮ました。
画像のように、具材が黄色く色づいているのはそのためです。
あまり煮過ぎるとクタクタになり、食感が悪くなりますから要注意です。

輪切りを2分割して半円形にしたのは、輪切りのままだと「そうめん」が円周にそってゾロゾロつながって出てきて長すぎるので、調理の際に切らねばなりません。それなら最初から半円にしてしまおうという考えからです。それは良いアイデアでした。

そうめんカボチャは何度か調理したことはありますが、関東ではめったに市場に出ないので、こうやって送られてくると絶対食べる――という点がいいですね。
めずらしい野菜が食べられます。
ビタミンCやカリウムが多い優れもの野菜で、塩分を排出してくれるうれしい野菜です。

画像は冷蔵庫の残り野菜を適当に切り、そうめんカボチャを載せ、味付けは手作りの「柿酢」にしました。さっぱり味でおいしかった。和風にも洋風にも合うサラダです。
ありがとうございました。

蛇足:カボチャは米語ではスカッシュです。パンプキンはあの橙色のカボチャだけ。

 

★鰯(イワシ)の頭も信心から? 


    アミノバイタル2200(味の素製)

暑すぎる今年の夏でしたねぇ。
今日ぐらいなら過ごしやすいのですが、まだ残暑がぶり返すでしょう。お彼岸までは気が抜けません。
そんな今年の夏、ちょっと頭がボーっとする日があり、こりゃ何か危ない感じがするなと思った時に飲んだのが、画像のアミノバイタル。
すぐ休憩を取ったこともあり、元気に復活しました。
それから何有荘ではイワシの頭よりは少し信じています。

先のオリンピックのメダリストがドーピングに引っ掛かり、メダルはく奪というニュースがありましたが、ドーピングをスルーする様々な違法薬品が現在も出回っているらしい。
画像のアミノバイタルは日本選手団御用達に採用され、パッケージにオリンピックマークが付いていますから違法なものではないでしょう。
もっとも同じアミノバイタルでも画像は一番安い商品で、選手団は特別な高級品だったことは言うまでもありません。

顆粒状のスティックで水に溶いて飲みやすく、事実上1本100円程度ですから健康サプリ(必須アミノ酸サプリ)としては安いものです。
CMによれば体力の持続、筋肉痛防止、疲労防止などですが、ジュース感覚で飲んで熱中症にも効果があるのかと再認識しました。
しかしクセになるのは嫌ですから、もっぱら苦しい時の神頼み、イワシの頭も何とか程度の利用です。

オリンピックの東京招致2020が実現しました。
メダリストではない佐藤真海選手の「スポーツは勇気を与える」というスピーチは良かった。
滝川クリステルさんの「お・も・て・な・しの心」も面はゆいけれどいいスピーチでした。
TVではバラ色の未来が早くも繰り広げられていますが、福島は何も解決していません。
ABE首相のスピーチは大変堂々として感銘を与えました。でも、それはウソに近いものでした。

*汚水は0.3㎢にブロックされている→港湾外に漏れ出している
*状況はコントロールされている→汚染水漏れは制御不能。
                     炉内状況は実態も分からない。
*健康問題は現在も将来もまったく問題ない→甲状腺など異常が発見されている

よくもまぁヌケヌケというのでしょうね。
「抜本解決に向けたプログラムをわたしが責任を持って実行していくことをお約束する」という言葉も、なにやら見栄を張っただけのように思えます。