ゴキブリ様、ホウ酸団子をどうぞ

         
もう何十年もゴキ様に出会ったことがない。たまによそ様からハグレゴキが迷い込むことはあったが、自宅にはいない。
家内が作るゴキブリ団子は本当に良く効く。
市販のゴキブリ団子はイマイチ効果が薄いようで、嘆いていた知人にこの団子を分けて差し上げたら「良く効く」と驚いていたそうだ。(家内談)
ではレシピの紹介と作り方

       強力粉----カップ半分
       ホウ酸----30~50g、薬局で売っている。
       ジャガイモ--小1個。茹でてマッシュにする
       タマネギ---小半分をみじん切りまたはすり下ろす
       牛乳----少々(大さじ1)
       砂糖----少々(小さじ1)

     これを全て混ぜ合わせ「耳たぶ」程度の固さにする。
       固すぎれば水を加え、緩すぎた場合は粉を足す
     これを団子型に丸め、1週間ほどよく乾かす。
       生乾きだとかびる場合がある。

上記の材料の分量はテキトーです。家内は目分量で作っているそうです。
仕掛ける場所は、ゴキ様が潜んでいそうなあらゆる場所
我が家は写真程度ですんでいるが、
多数飼育している方は、大量に作り、あらゆる場所に置くのが良いでしょう。

赤ん坊や幼児がいる家庭は置く場所に要注意です。
有効期間:1年間
毎年、5~6月に作成して夏前に設置するのがベストだそうです。

これが超豪華なゴキブリ団子で効果はてき面、実証済みです。

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小バエ取りトラップ

        
 生ゴミ堆肥をおこなっているせいか、小バエがうるさい。庭で犬を飼っていた時もすごかった。それでもう何年も前から度々、色々なタイプのトラップ(罠)を工作して仕掛けてきたが、あまりうまくいかなかった。今回の作品が一番簡単で一番うまくいった。
500mlのペットボトルの中程にカッターナイフで▽の穴をあける。表と裏と2ヶ所開ければ十分だ。中に入れた液体は梅酒少々と日本酒少々。ハエが好む物なら焼酎やジュースなど何でも良いと思う。
 ハエが臭いのする穴から入り、逃げられない。おいしそうな液体を飲もうとして溺死する。画像でははっきり見えないが数十匹はつかまえた。
 こんなにハエが多いことはちっとも自慢にならない。どこかに原因があるはずだと調べた。台所の端に放置されていたレジ袋があやしい。中を見ると小バエがブンブン。忘れ去られたサツマイモが腐って、そこが小バエの発生源だったようだ。レジ袋と腐りサツマイモを廃棄したら小バエもいなくなった。するとトラップに掛かる小バエもいなくなった。
その方が良いに決まっているが、トラップ作成者としては少々物足りない。

国宝『夕顔棚納涼図』の誕生

夏の夜の究極のエコ生活、夕涼み。前回紹介したこの絵の誕生について調べてみると…。
       
        
『夕顔棚納涼図』の作者
A「夕顔の棚の下なる夕涼み男はててら妻(め)は二布(ふたの)して」(醒睡笑)
B「夕顔のさける軒端の下涼み男はててれ妻(め)は二布(ふたの)して」(長嘯子集)

Aでは「ててら」となっているがBは「ててれ」。どちらも「襦袢・ふんどし」の意味である。「二布」とは腰巻きのことで、布を二枚つないで作ることからだそうだ。
Aは作者不詳。Bの作者は木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)。おそらくBの歌が巷間に流布してAに変化したものであろう。

『夕顔棚納涼図』が木下長嘯子の歌を絵に描いたものであると最初に指摘したのは元東京芸大教授だった故吉沢忠氏だという。氏は「ててれ」が一般的にはふんどしを意味しているが、北陸・金沢方面では襦袢を意味するとして、絵の中の男が襦袢を着ている事からこの絵が北陸・金沢で描かれたとした。つまり、後世の加筆ではないという立場だ。

東京国立博物館も襦袢説をとっている。私個人としてはこの歌から想像できるのは「俺はふんどし、お前は腰巻きで夕涼み」である。しかし、わたしが興味深く思っているのは、そういうことよりも、歌の作者(木下長嘯子)と絵の作者(久隅守景)の人生が微妙に重なっていることだ。

木下長嘯子、本名は木下勝俊という武将であった。秀吉の正妻ねねの兄の嫡男で、親族を優遇した秀吉によって若狭小浜6万2000石の領主になった。後に8万石。
彼の没落は関ヶ原に先立つ伏見城攻防戦から始まる。家康方であった木下勝俊は伏見城にいたが敵前逃亡したといわれる。残った鳥居元忠の忠義と武勇に満ちた伏見城攻防戦はよく知られているが、木下勝俊が敵前逃亡した話は今まで聞いたことがなかった。歴史から完全に忘れ去られた人物である。
関ヶ原の後、ねねの斡旋で死罪は免れたが家康によって領土は没収され、以後、長嘯子と号し、京都東山などに隠棲し歌人として生きたという。

敵前逃亡の理由ははっきりしない。寄せ手の総大将が宇喜多秀家であるから、勝俊の実弟で宇喜多の養子になっている宇喜多秀家も寄せ手に加わっていた。実の兄弟同士で争うことを嫌ったのではないかと私は推測している。性格的に武闘派ではなかったのであろう。
その彼が「夕顔の…」の歌をつくり、しかも自ら注釈して「右天下至楽也」と記述している。殺すか・殺されるか、究極の成果主義、実力競争世界に生きてきた彼がたどり着いた「天下の至楽」とは「夕顔の…」の世界であった。

この絵の中央で寝ころんでいる男性は絵の作者・久隅守景自身であると言われている。彼もまた「天下の至楽」とは夕顔棚の下、人目を気にせず家族水入らずで夕涼みすることだ、と考えていたことは間違いあるまい。

彼は幕府御用絵師・狩野探幽門下の四天王の一人と言われ、将来を嘱望されていた。探幽の妹の娘を嫁に取り、二人の間の1男1女はともに画才があり、探幽に師事していた。探幽の身内として、人もうらやむ幸福な一家であった。
その守景が後に狩野派を離れ(破門とも言われる)、さすらいの絵師となるのは自慢の二人の子の不始末であった。まず娘が同門の男と駆け落ちしてしまう。息子は吉原遊びが過ぎて破門されてしまう。
息子は兄弟弟子が密告したと逆恨みをし、刃を持ち出して大暴れをしたために逮捕され佐渡に島送りとなった。権威をかさにかけた典型的な金持ちおぼっちゃまだったのであろう。

 狩野探幽と狩野派の名を汚したとして守景が詰め腹を切らされたのはまず間違いない。妻に離縁された守景は自分の家族が実はバラバラであったことを噛みしることになる。こうしてすべてを失った守景は人生観が変わる。真の幸福とは、金でも権力でも名誉でもなく、貧しく質素であっても家族が仲良く暮らす生活であると気づいたのだと私は思う。

 ここで歌の作者(木下長嘯子)と絵の作者(久隅守景)の人生観・世界観が重なり合う。二人とも権力の直近にいたことがあり、権力の豪華さとすさまじさをよく知っている。そして挫折した。虚飾の世界から離れ、地位も身分もなくなった時に真に大切なものが見えてきた。

 今日、スローな生活とか、ロハスな生活とかもてはやされているが、それもある種の権威とか優越感が密かに感じられる。そんな単語がない時代に「夕顔の…」の歌が生まれ、絵が生まれ、そのような暮らしをした人がいた。何にもなくたって良いじゃないか、家族がいれば…。歌の作者と絵の作者の深い人生観が国宝「夕顔棚納涼図」という傑作に結晶したのである。

 欠けるものが何もなく、増やすものも何もない。平和で穏やかな夏の夕暮れ。昼間の暑さも忘れるこの静けさ。月影に照らされた自然の景色、虫の声。今日のことも明日のことも思い煩うことをわすれてボンヤリとすごす時間。そばにいるのは愛する家族。ああ、これほど幸福なことがあろうか。--ここに描かれているのはそういう世界である。
見栄をはる必要もなく、人を出し抜く必要もなく、人目を気にして服装や姿勢や言葉遣いを整える必要もなく、人を非難する必要もなく、非難されることもない時間と空間が描かれている。これは「理想郷」を描いた作品であろう。

しかし、その作品の誕生には強烈な挫折体験があった。
私たちがこの作品に感動を覚えるのは、挫折体験に裏付けられた理想郷が提示されているからであり、私たちの現実の生活が今のままで良いのかと作者から問いかけられていることを感じるからであろう。

家内に「これが僕の理想の生活だ」と言って画像をみせたら、「わたしゃ、半裸の生活はヤダネ」と一蹴された。そういう問題じゃないんだけれどね。

夏を涼しく

エアコンのない我が家では夏をどう涼しく過ごすか、いくつか工夫をしている。基本は直射日光をさえぎること、風通しを良くすることに尽きる。
南側の大きな掃き出し窓の上の庇(ヒサシ)は長く、直射日光が室内にささない設計になっている。しかし照り返しはきついものがあるので農業用の遮光ネットをタープのように張っている。西側は大変よく西日が当たるので、ゴーヤや朝顔でグリーンカーテンとしている。
 遮光ネットタープもグリーンカーテンもできるだけ大きく作り、直射日光が直接に建物本体にささないようにしているので、この下を通ると気温が周囲より数度低くてさわやかな感じがする。
建物に昼間蓄積された熱が夜間に放出されるので、夏の夜は暑苦しいのだ。だから夕方、庭に散水するときに、蓄熱された建物本体(屋根やガルバ鋼板の外壁)にもたっぷり水を撒いて放熱させる。夕方の打ち水は確かに効果がある。

       
 昔の人は暑い夏の晩をどう過ごしたかを見てみよう。国宝『夕顔棚納涼図』、(久隅守景くすみもりかげ筆。江戸初期)には、夕顔棚の下にゴザムシロを敷き、親子3人幸福そうな家族の夕涼みが描かれている。ヒョウタンの出来具合と左上の満月から旧暦の7月15日の晩の姿を描いたことがわかる。虫の音も聞こえてきそうだ。
 夕顔とは今日のヒョウタンで、棚にはヒョウタンが描かれている。夏の夕べ、ひと仕事終え、もう夕食も終わったのだろう。ござむしろを敷いて夕顔棚の下で寝転ぶ。そんな貧しく、質素な夕涼みである。時は徳川家光の時代、戦国時代はとうに過ぎ去り、ゆっくりと平和な時間が流れている。庶民にとって一番の幸福とはこのような親子3人の姿ではあるまいか。

蛇足:
この家族をアップで見てみると、男の妻にしては若すぎる女が描かれているので、学者があれこれ説を述べている。学者の説とは無関係に、自分勝手にこの3人の物語を想像してみるのも絵画鑑賞の楽しみである。

もう一つ。女が半裸なのに男が薄物の着物を着ているのはおかしい。筆のタッチもおかしいし、後世の加筆ではないかとも言われている。「夕涼みよくぞ男に生まれけり」という川柳がある。男は下帯姿が当時の常識であった。後世の加筆かどうか調べるのは学者の仕事で、絵画鑑賞には関係ない。男の青い着物がこの絵の場合、よいアクセントになっているとわたしは思うが‥。

見事な断層

岩熊十字路で道幅を拡幅する工事があり、山肌を削ったので見事な断層が現れた。まるで豚肉の三枚バラ肉のようで美しい。
          

 千葉県にある活断層は房総半島の先端、南房総市などに集中し、他には無いことになっている。先頃、千葉市の直下に断層が発見されて騒ぎになったが、これは活断層ではない、危険ではない断層であるということで落着した。
 私が住むいすみ市岬町に断層があるなどという話は聞いたことがない。しかし、ここに立派な断層がある。考えてみれば断層のない地域など日本には存在しないのかもしれない。この断層が活断層かどうかは知らない。仮にそうではないとしても、古い時代に地面が裂けて上下1メートル近く動く巨大地震がここで起きたことを示している。
 日本海や東北の地震、そして中国の四川省の地震。いすみ市に地震が襲うのも時間の問題かもしれないと用心するのに越したことはない。
 千葉県のハザードマップによれば、房総沖で発生した場合、震度6強になるという。東京直下の場合でも震度5前後。千葉県で起きた元禄大地震では津波による被害が大きく、九十九里浜で多くの死者を出した。太東崎岬は崩壊して、その上にあった村が消失したという。江場土地区の名前は「江波土」であったが、この津波以来、「波」の文字を嫌って「江場土」になった。
 あまり考えたくはないが、考えておかないといけないことであろう。

アカソ


 かってに生えてくる雑草で、見た目はシソに似ているようにも見える。「これはシソ?」と家内に聞くと「全然違うでしょ、判らないの」と笑われた。
 私は「7つの間違い探し」などが苦手で、どうしても5つしか見つからないことがよくある。答を見ると、あぁそうだ、どうして気づかなかったのだろうとよく思う。
 この画像も本当はアカソかどうか疑わしい。植物図鑑で調べても似たような植物が並んでいて、しかも「個体によって変異が著しい」などと書かれていてはお手上げだ。

 手入れの行き届かない庭や山野に多数生えているこの手の雑草は、現代人には雑草だが江戸時代までは有用植物だったと聞くと驚く。この手の植物から植物繊維をとって糸にし、綱にし、布にしていたという。
 木綿が庶民の手に届くようになるのは室町末期の戦国時代の頃からであり、絹は高貴な方々の衣類であった。庶民はというと麻(アサ)であった。アサというと夏物の麻のスーツなどを思い浮かべるが、これは背が高く伸びる大麻(タイマ)の繊維で作る。マリファナ麻薬の大麻であるが、日本の大麻は麻薬成分がない品種だという。
 大麻からとれる麻は高級品種で、商品作物であり、庶民が気楽に使えるものではない。庶民はこのアカソなどを使って自給自足をしていた。アカソやイラクサを煮たり叩いたりして繊維を取りだして利用していたのだ。

 オダマキという可憐な花があるが、これは漢字で「苧環」と書く。そして苧環の本来の意味は紡いだ麻糸をグルグル巻きにまとめる道具、もしくは麻糸のグルグル巻き(中央が空洞)を指す。その姿形に似ているのでオダマキという。
 苧環の苧はチョと読み、イラクサのことである。イラクサを苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、紵(お)、山紵(やまお)などという。画像のアカソは赤麻、赤苧とも書く。つまり麻とは大麻からとる麻というよりも、画像にあるような「雑草」、つまり苧麻や赤麻から取る植物繊維だったという方がたぶん実態にちかい。
  しづやしづ 賎(しづ)のおだまき 繰り返し 
    昔を今に なすよしもがな  (静御前)
 この場合のオダマキは糸を紡ぐ車のことだ。静御前は義経との思い出を紡いでいるわけだが、苧環(オダマキ)という文字が、当時のアサとは画像にあるような「雑草」から得たことを示している。

 江戸時代になると急速に木綿が普及し、明治になると糸も布も機械制工場で大量生産されるようになる。そうなるともはやアカソやイラクサの出番はなくなる。単なる雑草として嫌われる。アカソやイラクサがかつて日本の庶民の衣料材料として縄文時代から大切にされてきたことを知る人はほとんどいない。
 雑草としてこれだけどこにでもあるのは、大切に育てられたものが野にはびこりだしたものであろう。

半夏生

半夏生(ハンゲショウ)
 半夏(ハンゲ)という漢方薬草がある。和名をカラスビシャク(烏柄杓)といい、ウラシマソウを小型にしたような緑色の草で、その根を乾燥させたものが半夏である。1年のちょうど半分を超えた日(7月1日、または2日)を半夏生(ハンゲショウ、ハンゲショウズ)というのはこの薬草が芽生える時期にちなんだものであろう。
昔は夏至から数えて11日目としたそうだが、今日では「天球上の黄径100度の点を太陽が通過する日」と定義されている。
 ところが、その名もずばり、ハンゲショウという草がある。半夏生の時期に咲くのでハンゲショウというのだろう。咲くといっても花が咲くのではなく、葉の一部が真っ白くなるのである。同様の現象はマタタビでもおこる。マタタビは山の木だがハンゲショウはドクダミの仲間で里の湿地を好む。

 本当の花は地味で目立たないために、葉の一部を白くして虫を誘い込むらしい。その葉の姿が化粧をし残したように見えるので「半化粧」とも書く。カタシログサ(片白草)ともいう。
 おそらく片白草が本名で、通称・俗称が半化粧。ところがその時期が半夏生の頃であるから、半可通の人が半化粧の俗っぽさを嫌って半夏生の文字を当てたのだとわたしは推測している。
 今では半夏生が本名で通っている。半夏生の白い葉を見ると、今年ももう1年の半分が過ぎるのかという感慨がある。そして本格的な夏がもう間近に迫っていることに気づかされる。
 この日は、正確にはこの日から5日間は農家は農作業を休むことになっている。休ませるためにさまざまな言い伝えがあるようだ。いわく、天から毒が降ってくるから井戸にフタをせよ。地に毒が満ちるからこの日に取った野菜は食べるな、山に入るな。いわく、ハンゲという妖怪が徘徊しているから出歩くな、などである。
 農作業が全面的にストップしてしまうので、半夏生までを目標に農作業の日程を昔は組み立てていた。そして5日間のつかの間の休み。目標が達成できずにダラダラと働き続けることを防止するために生まれた言い伝えだと思われる。
 おそらく本格的な暑さを前にして、体調を整えるための休養が必要だという大昔からの経験がそのような言い伝えを産んだのであろう。
 東京の奥多摩地方ではハンゲジイサンがこの日に農作業を行って死んでしまったという。新潟県南魚沼郡では金持ちで強欲なハンゲ様が豆蒔きをし、蒔き終らないために太陽の動きを止めて蒔き続けたが、とうとう高熱を発して死んでしまったという伝説がある。「この時期に働いていけない」といういさめ伝説である。
 この時期は梅雨の末期にあたり、半夏雨(ハンゲアメ)とは豪雨のことであるという。昔のことだから、そこいら中カビだらけになり食中毒も多かったにちがいない。空から毒が、地にも毒が‥というのは食中毒菌・腐敗菌・伝染病菌のことかと思われる。農作業はひとまず休み、家中をきれいにして清潔にしなさいということであろう。
 そのような伝説も今日では忘れ去られ、梅雨の合間の晴れがあると、つい農作業をしてしまう。近所の高齢のご婦人が農作業をしていたら頭がクラクラしてきたので今日はもうやめたと言っていた。
 梅雨の合間の晴天はしばしば本格的な夏のような暑さとなる。体がまだ夏の暑さに順応していないのに無理をしてしまうのであろう。半夏生の5日間は晴れても雨でも農作業は休む、というのは合理的な制度なのだ。おそらく熱中症になりかかったこのご婦人のことを、昔であったならば「妖怪ハンゲ様に危うくやられそうになった」と言ったことであろう。
 わたしの住む千葉県いすみ市岬町では毎年、7月の第一日曜日が夏祭りとなっている。この時期の祭とは本来は半夏生開けの祭だと考えられる。裸祭りであり、老いも若きもサラシを巻いて勇ましい。
本格的な夏の暑さが来るぞ、さぁがんばろうという気分を引き締め、決意をこめて祭りを楽しむと、しだいに心も体も夏型になっていく。
 ちなみに半夏生が開けると暑さが本格的となる小暑(7月7日頃)となる。梅雨明け十日と言われる猛烈な暑さがやってくる。次にウナギで有名な夏の土用となり、ついに大暑(7月23日頃)となる。しかし、8月7日頃になればもはや暦の上では立秋となり、暑中見舞いは残暑見舞いと名を変える。
 最盛期とは下り坂の始まりだと昔の人は意識していた。現代人はその見極めが難しく、人生に禍根を残す。