★戦争末期、人間魚雷“回天”基地が大原にもあった。

人間魚雷回天断面図
     回天断面図 魚雷に乗り込み敵艦に突入する兵器

東京芸術座が8月15日から 『父を騙(ダマ)す 72年目の遺言』 を上演するといくつかの新聞で取り上げられていました。
認知症になりかけた父を騙して施設に入れようとする家族に対し、すべてを忘れ去る前にこれだけは語り残したいと、父が語り始めたことが人間魚雷“回天” です。

それとは別に2年前の8月15日にあるブログで、「18歳 回天特攻隊員の遺書」が掲載されました。

―――

お母さん、
私は後3時間で祖国のために散っていきます。  


胸は日本晴れ。 
本当ですよお母さん。
少しも怖くない。  

しかしね、
時間があったので考えてみましたら、
少し寂しくなってきました。

それは、
今日私が戦死する、通知が届く。 
お父さんは男だからわかっていただけると思います。  


が、お母さん。 

お母さんは女だから、
優しいから、
涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも
兄ちゃんが死んだといって
寂しく思うでしょうね。
 

お母さん。

こんなことを考えてみましたら、
私も人の子。やはり寂しい。

しかしお母さん。
考えて見てください。 
 
今日私が、
特攻隊で行かなければ、
どうなると思いますか。  

戦争は
この日本本土まで迫って、
この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。


母さん

今日私が特攻隊で行かなければ、
年をとられたお父さんまで、
銃をとるようになりますよ。


だからね、お母さん。  


今日私が戦死したからといって
どうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。 
お母さんは優しい人だから。  


お母さん、

私はどんな敵だって怖くはありません。


私が一番怖いのは、
母さんの涙です。

―――

わたしが住むいすみ市の大原にも漁港に隣接して巨大な地下回天基地が建設されました。
回天が格納され、港内にレールで引き出されるための開口部が一つだけ残っています。
大原回天跡地

幸いなことにと言って良いのかどうか、特殊魚雷回天を載せた輸送船が大原に向かう途中で米軍の攻撃を受けたのか、敷設された機雷に触れたのか沈没しました。

大原で待機していた特攻隊員は不完全燃焼のまま終戦を迎えました。
わたしの叔父(93歳)も予科練崩れで、戦後はいろいろあったようです。
今は、戦争なんかない方が良い、平和が一番だよと言っているのは遺言のようなものだと心して聞いています。


 
 
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★岬町出身、田中哲郎上飛曹(20歳)の手紙 

銀河陸幕
  田中さんが搭乗し戦死した海軍の「銀河陸爆機」(画像元Wiki)

戦争末期、菊水作戦と称する特攻攻撃が行われました。
作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられました。
沖縄諸島周辺でのこの特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死しました。

その戦死者の中に岬町宮前出身の田中哲郎さんがいました。
――戦没年月日はS20.04.07。戦没場所は沖縄方面――と『岬町史』にあります。

上飛曹でしたが、戦死による階級特進で海軍少尉となりました。
4月7日の神風特攻隊は、*第四銀河隊/宮崎 *第四建武隊/鹿屋 *第三御楯隊706部隊/宮崎の三隊が出撃しています。
そのうち、第三御盾隊706部隊 に田中哲郎さんの名前が見えます。航空局委託練習生第13期とあり、海軍が開発した「銀河陸爆」に搭乗して帰らぬ人となりました。

――――

早苗ちゃん 風邪をひかないか、元気で、毎日、日参に又学校に行って居りますか。
寒いから気をつけなければいけないよ。
早苗ちゃんが病気になると兄さん、うんと心配しちゃうからね病気になんか成るんじゃないよ。
雪が降ったことがあるかい。兄さんの居る処は時々降るよ。此処には高い高い山が有るんだよ。
ホラあすこに見えるタイトウミサキの山を、二十くらい積んだ山がね。
こんな高い山、早苗ちゃん見たこと有るかい。なに、有る、どこで、なあんだ、ユメでかい。
・・・・そしてねこの山はずっと前から、雪の着物を着て真っ白だよ。だからずいぶん寒いよ。
だけど兄さんなんか平気だよ。どうして、それはね、どんどん駆け足やったり、体操やったりするからだよ。
だから早苗ちゃんもどんどん運動するんだよ。そうするとあたたかくなるし、病気なんかにもならなくなるよ。
だけど、早苗ちゃんは女だから、あばれたりしちゃだめだよ。
喜久ちゃんをたたいたり、おとうさんやおかあさんの言ふことはよく聞くね。
それからもうひとつ幹ちゃんをよく見てやるんだよ。ずいぶん大きく成っただろうね。
かはいいだろう。早苗ちゃん勉強するんだよ。もうじき三年生になるんだものね。
この間、愛子ちゃんから、かはいい手紙が来たよ。早苗ちゃんも喜久ちゃんと書いて、くださいね。
兄さん、待っているよ。

兄さんはね毎日元気で赤いトンボのような飛行機にのって飛んで居るよ。
小さな舟や白いホを上げたホカケブネやいろんな形をした島のういた青い青い海の上や村の上
町の上をブンブンとね。 では早苗ちゃん手紙を待って居るよ。
  
                              ――文書発信元はここ
――――――

田中哲郎さんの手紙は遺書という体裁ではありませんし、雪が積もっている山など書かれていると、そこはどこか? と思います。
兵士は今どこでどんな任務をこなしているかを家族に連絡することが許されません。
赤とんぼのような飛行機で訓練しているということは、家族はもしや特攻隊かと不安に思うに違いありません。
わざと今は九州にいることをはぐらかし、妹に対し優しく話しかけるような手紙を書いています。
家族に心配をかけまいとする優しい性格の方だったのだろうと推察いたします。

4月7日は戦艦大和が沖縄方面へ特攻出撃し、坊の岬沖で撃沈された日でもありました。
駆逐艦8隻、巡洋艦1隻を従えた大和は僚艦5隻を含め3721名とともに海に沈みました。

今思えば無謀な戦争で、勝つ見込みのない戦争を続けてました。
国民全員が死を覚悟する“一億玉砕”が政府=軍部の合言葉でした。

その苦い経験から自衛隊の最高指導者は文民、つまり軍人ではないと規定されています。
ところが文民であるアベ氏やイナダ氏が「日報」を隠し、「戦闘」という言葉を「武力衝突」といい変え、自衛隊員に戦闘状態の現地にとどまることを強制しました。
文民統制(シビリアンコントロール)という歯止めが効いていない状況です。

破棄したはずの「日報」が出てきた背景には、明らかに制服組によるアベ・イナダ不信感が潜んでいます。
制服組(軍人)でさえ、文民であるアベ氏やイナダ氏は危険人物だ、部下を死地に追い込んでいる好戦的司令官だと反発したのでしょう。

憲法9条を改正した偉大な首相との名誉欲しさのために、自衛隊員の犠牲を考えずに突っ走るアベ首相。
自衛隊員も昔と変わらず田中哲郎さんのように家族思いの方が多いと思います。
現在の9条を守り抜くことが、平和な日本を守り抜くこと、自衛隊員の命を守り抜くことにつながることでしょう。


 

★いすみ市大原庁舎で「いすみ市の戦争遺跡」展示

戦争遺跡展示
      市庁舎ロビーにて

いすみ市は非核平和都市宣言をしている自治体で、毎年、8月になると戦争と平和に関する何らかの行事を行っています。
今年は広島の原爆資料館から資料をお借りして『原爆の絵展』が開かれています。
8月1日~16日。土日祝日を除く。

この展示の一画をお借りして 「いすみ市の戦争遺跡」 が展示されました。
市民の方から市役所に 「岬町の戦争遺跡を調べている人がいる」 と電話があり、市役所から 「9条の会岬」 に連絡があり、そこから私の方に連絡が入りました。

わざわざ市役所の人が二人見えて、協力を依頼されましたので、断るわけにもいかず承諾しました。
いすみ市からは市内全図を頂き、そこに戦争遺跡と関連施設を書き込み、画像もラミネート加工してはりました 

また一昨年の 『岬町戦跡ツアー』 関連資料とスナップ写真も展示しました。

記入してみると結構あることに驚きます。
普段は戦争による傷跡などまるで気にならないのどかな田舎ですが
色々あったんだろうなぁと思います。

さいたま市では、「梅雨空に 『九条守れ』の 女性デモ」 という俳句が、恒例となっている公民館だよりの俳句欄への掲載を拒否されるという事件がありました。
アベ首相が憲法改正を日程に上げる中、首相の意向に反する俳句だと公民館が忖度して掲載拒否になったものでしょう。

いすみ市では9条の会であっても差別せず、戦争遺跡の資料公開を認め、促したのはありがたいことだと思います。
ただ、戦争遺跡とは意見、政治信条ではなく、事実ですからね。
自衛隊海外派兵賛成の人でも、戦争遺跡がここにある、あったという事実は否定できません。
その事実から現代を生きるわたしたちが、何を学び取るかが問われているのでしょう。

今回の展示資料には載せませんでしたが、いすみ市岬町地区には4カ所の「忠魂碑」があります。
岬地区4カ村出身の戦死者の名前が刻まれています。
ある日突然、赤紙(召集令状)1枚で軍隊に編入され、そのまま帰還できなかった若者の名前が刻まれています。

今日の平和は数多くの若者や、巻き込まれた一般市民の犠牲の上に築かれました。
いわば、平和のための人柱として犠牲になったと言っても良いでしょう。

国際政治の緊張・軋轢の解決手段として戦争をすることを私たちは永久に放棄しました。
国家利益のため、あるいは首相の個人的名誉のために、国民・自衛隊員に死ねと命じることは人道に反すると学んだのでした。

ことし も暑い8月になりました。
わたしの叔母(母の妹)は夏の夜空に開く花火の音が嫌いだと言っておりました。
焼夷弾の音を思い出すからだそうです。
夏の花火を心から楽しめる、そんな時代が永久に続けばいいなと思います。


 

★むかし、日本に軍隊があったころ(2)――エムリー事件

鎮魂碑
  長柄町榎本、長栄寺にある慰霊碑

東京大空襲が1945年の3月10日深夜にあり、下町が全焼し、おびただしい数の犠牲者がでたことは、ここ房総でも知れ渡っていました。
それからも連日のごとくB29爆撃機が東から西へ飛ぶのが目撃され、その帰還途中の駄賃のごとく余った爆弾を房総に投下しておりました。

同年5月26日の真夜中、午前1時30分頃、長生郡日吉村(現・長柄町)の住民は突然の爆発音に飛び起こされました。長栄寺付近の田んぼにB29が墜落したのです。
B29は当時世界最大の爆撃機。全長30m、両翼の長さ42m、自重32tの爆撃機が地面に激突したのですから、落雷なんてものではないでしょう。
破片は飛び散り、周囲は燃料のにおいが立ち込め、すさまじい光景だったろうと思います。

搭乗員11人の内、4人は機内で死亡。2人は瀕死の重傷でした。パラシュート脱出降下した5人はやがて各所で捕虜となりました。

5人の捕虜は茂原憲兵隊を経て東京憲兵隊に送られ、重傷の2人は第147師団426連隊第1大隊第1挺身中隊が駐屯する近くの長栄寺に運ばれました。

その中の1人はまもなく死亡し、虫の息で苦しんでいたダーウィン T エムリー(Darwin T. EMRY)少尉を診断した大隊附軍医と憲兵隊長は、この重傷ではどのような手当を加えても助かる見込は無いと告げて去りました。
その処置を一任された中隊長の満淵(ミツブチ)正明大尉はその時、指揮班長・境野鷹義曹長の建言に基き、「いたずらに苦しむよりは楽にしてやれ」という命令を下します。

後に捕虜虐待・殺人罪に問われた大尉は、助かる見込みがないときは日本では昔から武士の情けとして、苦しみを断つためにとどめをさす――いわば安楽死。人道的な処置であると主張しました。

横浜で行われたこのB級戦犯裁判は「武士道裁判」として注目を浴びますが、結果は有罪。満淵大尉は巣鴨で絞首刑となりました。
大尉は裁判の中でやましいことは一切ないと主張し、この件の責任はすべて自分にあるとして部下をかばいました。

しかし、有罪の決め手になったのはエムリー少尉の殺害方法にあったようです。
体を起こすこともできない重傷の少尉を引きずって裏の竹に縛り付け、100人以上の村人が見守る中、部下の境野鷹義曹長の手により斬首されました。村人からは歓声があがったそうです。

その遺体は、菊池重太郎中尉の指揮の下、初年兵の刺突演習の材料となりました。
度胸を定めると称して人殺しの予行練習でした。
敵の将校に対して、死者に鞭打つ行為でした。遺体損壊罪でもあります。
おそらく、戦死した日本軍将兵や空襲の被災者などを思い、鬼畜米英に対する復讐・仇討ちの心境だったのでしょう。

ズタズタになった遺体は他の5人の遺体とともに長栄寺裏の墓地に埋葬されました。
敗戦後、米軍の手でB29撃墜の顛末が調べられ、捕虜斬首の事実が発覚します。

満淵大尉が先に述べたように絞首刑(1946.09.06執行、享年32歳)のほか、実行者の境野鷹義曹長はMPの手を逃れて逃亡するも後に自首し、無期懲役判決。菊池重太郎中尉は懲役25年。
刺突演習に関わった下級兵士6人は懲役1〜2年となり決着します。

後日、戦犯解除、減刑となった境野曹長は2度ほど寺を訪れ、「お世話になりました」と礼を述べていましたが、1982年に亡くなり、妻が位牌を納めに来たといいます。

長栄寺の大橋住職はこの事件に心を痛め、1996年にエムリー少尉と満淵大尉を弔う鎮魂碑(画像のように日本文・英文併記)を建立し、毎年法要を営んできました。

碑にはこう刻まれています——「大東亜戦争終戦の年、昭和20年5月25日、B29が日吉村榎本地区に墜落。搭乗員11名の内エムリー少尉が日本駐屯兵のなかの境野鷹義曹長により斬首され、その後満淵中隊長が全責任を負い巣鴨にて絞首刑となり、すでに50年。ダーウィンTエムリー少尉と満淵中隊長の鎮魂と世界平和を祈念し、茲に碑を建立す。平成8年5月25日 天台宗福壽山長栄寺第三十八世 権大僧正 大橋慈恒」。

大橋住職は何年か前に亡くなり、寺は今は無住になっていますが、境内はきれいに清掃されていました。鎮魂碑の前には缶ビールが手向けられていました。


鎮魂碑が建立されたその1996年に、横浜大空襲の被災者で語り部の小野静枝さんは作家の早乙女勝元氏、横浜市立大学名誉教授の今井清氏らとともに世界平和のために来日したブルース・A・ヤングクラス氏と座談会を行いました。

氏は1945年5月29日の横浜大空襲のB29の搭乗員、階級は軍曹でした。
ヤングクラス氏の乗機は横浜上空で高射砲を被弾して操縦不能となり、乗員全員パラシュートで脱出。氏のパラシュ-トは君津市に降下して捕虜になりました。

その後、久留里警察、木更津海軍を経て大船海軍捕虜収容所へ送られ、終戦を迎えます。
国民全体が飢えに苦しむ中でも戦時国際法に則り、捕虜の命を守った日本人もいたわけです。

小野さんがこの横浜空襲の被害者であることを話すと、ヤングクラス氏は突然嗚咽して言葉にならず、傍らの夫人が小野さんの手を握りしめて「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝ったそうです。

その後ヤングクラス氏は、誘われて長柄町の長栄寺を訪れ、この碑に対面しました。
氏は大橋住職の志に感謝しつつ、エムリー少尉の位牌を握りしめて涙したそうです。

思えば敵味方とはいえ、個人的には互いに殺し殺される理由などありません。
それなのに戦時中はまるで熱病に冒されたように、殺せ・殺せと叫び、たくさん殺せば勲章がもらえる時代でした。

熱病が冷めてみれば、自分の犯した罪の大きさを自覚する人々は日米を問わずにいるのだ、ということが人類の良心を示しています。

今年もまだ世界中で紛争が続いています。砲撃が続き空襲があり、そして自爆テロ。
その戦場に自衛隊がしゃしゃり出る法律が通過しました。
だからこそ今は、戦争はやめろ、人を殺すなと大きな声で叫ぶ時期のようです。



★むかし、日本に軍隊があったころ――ホックレー事件

シーファイアー

  英軍の艦上戦闘機シーファイアー。スピッツファイアーの兄弟機。(画像はプラモデル)

1945年8月15日に玉音放送(天皇の肉声放送)があり、国民に敗戦が告げられました。
その2時間ほど前、長南町の永沼の田んぼ脇の山林に一機の英国海軍所属の戦闘機が白い煙をはきながら墜落しました。
イギリス空母インデファティーカブルより飛来したシーファイア戦闘機が、茂原航空隊のゼロ戦との空中戦で被弾して墜落したものです。

パイロットのフレッド ホックレー(Fred HOCKLEY)中尉は、パラシュートで一山越えた小生田の山中に降下して無事。初めて間近に見る日本の景色を興味深げに見渡していたところ、様子を見に来た村人に自分の携行食を差し出したりしたのは自分には敵意がない、暴れたりしないという意思表示であったのでしょう。

やがて続々と集まってくる村人や地元の警防団、九十九里浜防衛の陸軍駐屯部隊に捕まり、ロープでぐるぐる巻きにされ、目隠しの上、東村国民学校(現・長南町立東小学校)に連行されました。
同校には当時426連隊の教育隊が駐屯しており、裏の農機具小屋にてさっそく尋問が行われました。
ホックレー中尉はまもなく戦争は終わると述べたそうです。頭にはトビ口でやられたらしい傷があったといいますから、一部暴徒化した民衆から攻撃されたのかもしれません。

敵国捕虜の身柄をどう扱うか、現地では判断できず上級機関の判断を仰ぐことになります。
ホックレー中尉の言明通り、天皇の玉音放送あり、その後、リヤカーで土睦村(現・睦沢町)岩井の妙勝寺に駐屯する第147師団426連隊本部に送られ、将校の宿舎として接収されていた隣家の庭の木に縛られました。

その姿を納屋のすき間から覗き見たというその家の婦人は、ホックレーが外人にしては小柄だったと語っていたそうです。妙勝寺は、今は無人寺になっています。

その日の夕方、一宮町に駐屯する同連隊の中隊本部に連行されました。
一宮町の中隊本部は接収した某煉瓦商の屋敷だったそうで、広い屋敷は今何もなく、倉庫が一棟残っているのみとなりました。

この間、426連隊長の田村禎一大佐が鶴舞にあった147師団司令部にホックレーの処遇を問い合わせたところ、師団参謀の平野昇少佐が「連隊で処置せよ」との指示を与えたとされます。

当時の軍隊では「処置」とは「処刑」と同じ意味で使われることが一般的です。
田村大佐は部下の藤野政三大尉にホックレーの処刑を命じ、藤野大尉はその夜、ホックレーを一宮市街地4キロ南方の洞庭湖付近の山中に連行し、拳銃で撃ち、刀でとどめを刺しました。

遺体はその場に埋められ、すべては闇の中に葬られたかのように見えましたが、連合軍が進駐し、撃墜された米英軍パイロットの消息調べが始まりました。
同年10月中旬、田村大佐らにより遺体は掘り起こされ、火葬された後、一宮町の実本寺に遺骨が安置されることになります。
火葬してしまえば死因を特定できず、丁寧に葬ったと言い逃れができると踏んだのでしょう。

この事件は戦後、香港でのイギリス裁判で裁かれ、426連隊長の田村禎一大佐と147師団司令部参謀の平野昇少佐が絞首刑、処刑実行者の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けました。
ホックレー中尉の遺骨はその後、横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されました

この事件は玉音放送の後におきました。
玉音放送はあっても軍の指揮命令系とは維持され、まだ武装解除もされておりません。
敵のパイロットなど殺して当然の時代風潮だったのでしょう。

戦争は国家と国家の争いですから、戦闘員各個人には責任がない、というのが国際法です。
降参した戦闘員の処遇は尊重されるのが戦時国際法上の取り決めで、当時の日本もそのルールに建前上は従っておりました。

ホックレー中尉自身は降参したのだから保護されると思っていたことでしょう。
まして玉音放送の後ですから、捕虜虐待のみならず、いわば殺人罪に等しいとして起訴されました。

戦犯というと東条英機らA級戦犯が思い浮かびますが、ABCは程度の差ではなく、内容の差。
A級とは戦争指導の罪、B級は捕虜虐待など戦時国際法の違反。C級は民間人の虐殺などその他人道上の罪。

この事件はB級戦犯に相当します。
もちろん、勝者が敗者を裁いた裁判という側面はあるでしょう。
実際には、日本も米国も敵国兵・敵国市民に対して、無差別殺戮を繰り返していました。
いざ戦争となると通常の人の心は失われ、殺して当然の心理になります。

そんな時代は二度と繰り返さない、少なくとも日本は--というのが現憲法の精神です。
今度の参議院選挙、うまくいったら自衛隊を国防軍に昇格させると狙っている人々がいます。
一般民衆を含めて人殺しを是とした時代。
そんな時代の再来はまっぴらごめんです。

なお、東京の友人から次のような動画がシェアされてきました。
なぜ改憲を目指すのか、赤裸々に語られています。
youtube https://www.youtube.com/watch?v=h9x2n5CKhn8&feature=youtu.be