★むかし、日本に軍隊があったころ(2)――エムリー事件

鎮魂碑
  長柄町榎本、長栄寺にある慰霊碑

東京大空襲が1945年の3月10日深夜にあり、下町が全焼し、おびただしい数の犠牲者がでたことは、ここ房総でも知れ渡っていました。
それからも連日のごとくB29爆撃機が東から西へ飛ぶのが目撃され、その帰還途中の駄賃のごとく余った爆弾を房総に投下しておりました。

同年5月26日の真夜中、午前1時30分頃、長生郡日吉村(現・長柄町)の住民は突然の爆発音に飛び起こされました。長栄寺付近の田んぼにB29が墜落したのです。
B29は当時世界最大の爆撃機。全長30m、両翼の長さ42m、自重32tの爆撃機が地面に激突したのですから、落雷なんてものではないでしょう。
破片は飛び散り、周囲は燃料のにおいが立ち込め、すさまじい光景だったろうと思います。

搭乗員11人の内、4人は機内で死亡。2人は瀕死の重傷でした。パラシュート脱出降下した5人はやがて各所で捕虜となりました。

5人の捕虜は茂原憲兵隊を経て東京憲兵隊に送られ、重傷の2人は第147師団426連隊第1大隊第1挺身中隊が駐屯する近くの長栄寺に運ばれました。

その中の1人はまもなく死亡し、虫の息で苦しんでいたダーウィン T エムリー(Darwin T. EMRY)少尉を診断した大隊附軍医と憲兵隊長は、この重傷ではどのような手当を加えても助かる見込は無いと告げて去りました。
その処置を一任された中隊長の満淵(ミツブチ)正明大尉はその時、指揮班長・境野鷹義曹長の建言に基き、「いたずらに苦しむよりは楽にしてやれ」という命令を下します。

後に捕虜虐待・殺人罪に問われた大尉は、助かる見込みがないときは日本では昔から武士の情けとして、苦しみを断つためにとどめをさす――いわば安楽死。人道的な処置であると主張しました。

横浜で行われたこのB級戦犯裁判は「武士道裁判」として注目を浴びますが、結果は有罪。満淵大尉は巣鴨で絞首刑となりました。
大尉は裁判の中でやましいことは一切ないと主張し、この件の責任はすべて自分にあるとして部下をかばいました。

しかし、有罪の決め手になったのはエムリー少尉の殺害方法にあったようです。
体を起こすこともできない重傷の少尉を引きずって裏の竹に縛り付け、100人以上の村人が見守る中、部下の境野鷹義曹長の手により斬首されました。村人からは歓声があがったそうです。

その遺体は、菊池重太郎中尉の指揮の下、初年兵の刺突演習の材料となりました。
度胸を定めると称して人殺しの予行練習でした。
敵の将校に対して、死者に鞭打つ行為でした。遺体損壊罪でもあります。
おそらく、戦死した日本軍将兵や空襲の被災者などを思い、鬼畜米英に対する復讐・仇討ちの心境だったのでしょう。

ズタズタになった遺体は他の5人の遺体とともに長栄寺裏の墓地に埋葬されました。
敗戦後、米軍の手でB29撃墜の顛末が調べられ、捕虜斬首の事実が発覚します。

満淵大尉が先に述べたように絞首刑(1946.09.06執行、享年32歳)のほか、実行者の境野鷹義曹長はMPの手を逃れて逃亡するも後に自首し、無期懲役判決。菊池重太郎中尉は懲役25年。
刺突演習に関わった下級兵士6人は懲役1〜2年となり決着します。

後日、戦犯解除、減刑となった境野曹長は2度ほど寺を訪れ、「お世話になりました」と礼を述べていましたが、1982年に亡くなり、妻が位牌を納めに来たといいます。

長栄寺の大橋住職はこの事件に心を痛め、1996年にエムリー少尉と満淵大尉を弔う鎮魂碑(画像のように日本文・英文併記)を建立し、毎年法要を営んできました。

碑にはこう刻まれています——「大東亜戦争終戦の年、昭和20年5月25日、B29が日吉村榎本地区に墜落。搭乗員11名の内エムリー少尉が日本駐屯兵のなかの境野鷹義曹長により斬首され、その後満淵中隊長が全責任を負い巣鴨にて絞首刑となり、すでに50年。ダーウィンTエムリー少尉と満淵中隊長の鎮魂と世界平和を祈念し、茲に碑を建立す。平成8年5月25日 天台宗福壽山長栄寺第三十八世 権大僧正 大橋慈恒」。

大橋住職は何年か前に亡くなり、寺は今は無住になっていますが、境内はきれいに清掃されていました。鎮魂碑の前には缶ビールが手向けられていました。


鎮魂碑が建立されたその1996年に、横浜大空襲の被災者で語り部の小野静枝さんは作家の早乙女勝元氏、横浜市立大学名誉教授の今井清氏らとともに世界平和のために来日したブルース・A・ヤングクラス氏と座談会を行いました。

氏は1945年5月29日の横浜大空襲のB29の搭乗員、階級は軍曹でした。
ヤングクラス氏の乗機は横浜上空で高射砲を被弾して操縦不能となり、乗員全員パラシュートで脱出。氏のパラシュ-トは君津市に降下して捕虜になりました。

その後、久留里警察、木更津海軍を経て大船海軍捕虜収容所へ送られ、終戦を迎えます。
国民全体が飢えに苦しむ中でも戦時国際法に則り、捕虜の命を守った日本人もいたわけです。

小野さんがこの横浜空襲の被害者であることを話すと、ヤングクラス氏は突然嗚咽して言葉にならず、傍らの夫人が小野さんの手を握りしめて「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝ったそうです。

その後ヤングクラス氏は、誘われて長柄町の長栄寺を訪れ、この碑に対面しました。
氏は大橋住職の志に感謝しつつ、エムリー少尉の位牌を握りしめて涙したそうです。

思えば敵味方とはいえ、個人的には互いに殺し殺される理由などありません。
それなのに戦時中はまるで熱病に冒されたように、殺せ・殺せと叫び、たくさん殺せば勲章がもらえる時代でした。

熱病が冷めてみれば、自分の犯した罪の大きさを自覚する人々は日米を問わずにいるのだ、ということが人類の良心を示しています。

今年もまだ世界中で紛争が続いています。砲撃が続き空襲があり、そして自爆テロ。
その戦場に自衛隊がしゃしゃり出る法律が通過しました。
だからこそ今は、戦争はやめろ、人を殺すなと大きな声で叫ぶ時期のようです。



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★むかし、日本に軍隊があったころ――ホックレー事件

シーファイアー

  英軍の艦上戦闘機シーファイアー。スピッツファイアーの兄弟機。(画像はプラモデル)

1945年8月15日に玉音放送(天皇の肉声放送)があり、国民に敗戦が告げられました。
その2時間ほど前、長南町の永沼の田んぼ脇の山林に一機の英国海軍所属の戦闘機が白い煙をはきながら墜落しました。
イギリス空母インデファティーカブルより飛来したシーファイア戦闘機が、茂原航空隊のゼロ戦との空中戦で被弾して墜落したものです。

パイロットのフレッド ホックレー(Fred HOCKLEY)中尉は、パラシュートで一山越えた小生田の山中に降下して無事。初めて間近に見る日本の景色を興味深げに見渡していたところ、様子を見に来た村人に自分の携行食を差し出したりしたのは自分には敵意がない、暴れたりしないという意思表示であったのでしょう。

やがて続々と集まってくる村人や地元の警防団、九十九里浜防衛の陸軍駐屯部隊に捕まり、ロープでぐるぐる巻きにされ、目隠しの上、東村国民学校(現・長南町立東小学校)に連行されました。
同校には当時426連隊の教育隊が駐屯しており、裏の農機具小屋にてさっそく尋問が行われました。
ホックレー中尉はまもなく戦争は終わると述べたそうです。頭にはトビ口でやられたらしい傷があったといいますから、一部暴徒化した民衆から攻撃されたのかもしれません。

敵国捕虜の身柄をどう扱うか、現地では判断できず上級機関の判断を仰ぐことになります。
ホックレー中尉の言明通り、天皇の玉音放送あり、その後、リヤカーで土睦村(現・睦沢町)岩井の妙勝寺に駐屯する第147師団426連隊本部に送られ、将校の宿舎として接収されていた隣家の庭の木に縛られました。

その姿を納屋のすき間から覗き見たというその家の婦人は、ホックレーが外人にしては小柄だったと語っていたそうです。妙勝寺は、今は無人寺になっています。

その日の夕方、一宮町に駐屯する同連隊の中隊本部に連行されました。
一宮町の中隊本部は接収した某煉瓦商の屋敷だったそうで、広い屋敷は今何もなく、倉庫が一棟残っているのみとなりました。

この間、426連隊長の田村禎一大佐が鶴舞にあった147師団司令部にホックレーの処遇を問い合わせたところ、師団参謀の平野昇少佐が「連隊で処置せよ」との指示を与えたとされます。

当時の軍隊では「処置」とは「処刑」と同じ意味で使われることが一般的です。
田村大佐は部下の藤野政三大尉にホックレーの処刑を命じ、藤野大尉はその夜、ホックレーを一宮市街地4キロ南方の洞庭湖付近の山中に連行し、拳銃で撃ち、刀でとどめを刺しました。

遺体はその場に埋められ、すべては闇の中に葬られたかのように見えましたが、連合軍が進駐し、撃墜された米英軍パイロットの消息調べが始まりました。
同年10月中旬、田村大佐らにより遺体は掘り起こされ、火葬された後、一宮町の実本寺に遺骨が安置されることになります。
火葬してしまえば死因を特定できず、丁寧に葬ったと言い逃れができると踏んだのでしょう。

この事件は戦後、香港でのイギリス裁判で裁かれ、426連隊長の田村禎一大佐と147師団司令部参謀の平野昇少佐が絞首刑、処刑実行者の藤野政三大尉が懲役15年の判決を受けました。
ホックレー中尉の遺骨はその後、横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されました

この事件は玉音放送の後におきました。
玉音放送はあっても軍の指揮命令系とは維持され、まだ武装解除もされておりません。
敵のパイロットなど殺して当然の時代風潮だったのでしょう。

戦争は国家と国家の争いですから、戦闘員各個人には責任がない、というのが国際法です。
降参した戦闘員の処遇は尊重されるのが戦時国際法上の取り決めで、当時の日本もそのルールに建前上は従っておりました。

ホックレー中尉自身は降参したのだから保護されると思っていたことでしょう。
まして玉音放送の後ですから、捕虜虐待のみならず、いわば殺人罪に等しいとして起訴されました。

戦犯というと東条英機らA級戦犯が思い浮かびますが、ABCは程度の差ではなく、内容の差。
A級とは戦争指導の罪、B級は捕虜虐待など戦時国際法の違反。C級は民間人の虐殺などその他人道上の罪。

この事件はB級戦犯に相当します。
もちろん、勝者が敗者を裁いた裁判という側面はあるでしょう。
実際には、日本も米国も敵国兵・敵国市民に対して、無差別殺戮を繰り返していました。
いざ戦争となると通常の人の心は失われ、殺して当然の心理になります。

そんな時代は二度と繰り返さない、少なくとも日本は--というのが現憲法の精神です。
今度の参議院選挙、うまくいったら自衛隊を国防軍に昇格させると狙っている人々がいます。
一般民衆を含めて人殺しを是とした時代。
そんな時代の再来はまっぴらごめんです。

なお、東京の友人から次のような動画がシェアされてきました。
なぜ改憲を目指すのか、赤裸々に語られています。
youtube https://www.youtube.com/watch?v=h9x2n5CKhn8&feature=youtu.be



 
 

★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(4)

   蟹道
   終戦(1945年)当時の長生村海岸付近の地図。
赤〇:字(アザ)蟹道地区、青〇:村立一松小学校 ★は九十九里有料長生IC
当時、九十九里有料道路はもちろん、国道30号も整備されていませんでした。
海岸沿いの曲がりくねった南北の街道が当時の国道で、現30号の直近の西側の道です。


千葉県唯一の村である長生村は一宮町の北隣りにあります。
長生村の立派な文化会館図書室に 『長生村風土記』(昭和63.09.01) があります。
そこには 『風船爆弾の話』 が掲載されていました。

風船爆弾とは戦争末期、水素ガスをつめた巨大な紙風船(気球)に爆弾をセットし、偏西風に乗せて米国本土を空襲するという奇想天外な作戦で、その発射基地が一宮海岸などにありました。

長生村風土記によれば―――そのころ、三本松(蟹道海岸)に怪しげなものが突然建てられ土地の人々は誰いうとはなしに三角兵舎と呼んで不思議にしていた。
その三角兵舎は、現在の佐久間果物店の裏(西側)で三角形の屋根の兵舎と炊事場があり、その周辺約1町歩1ヘクタール)位が立ち入り禁止で、その辺を「風船爆弾基地」と呼んでいたという。――とあります。

三角兵舎があったという蟹道海岸の海岸には 「なや」 とルビが降ってあります。
当時、各部落ごとに漁民の海岸占有場所は固定され、納屋などが置かれていたのでしょう、〇〇海岸を〇〇納屋と表示することが江戸時代からの慣例でした。

この文章からは 三角兵舎が海岸にあったことが推定できます。画像地図には人家など見当たりませんから、秘密基地に適した場所です。

ところが同文書は、続けて「現在の佐久間果物店の裏(西側)」だとも記しています。
昭和63年当時の佐久間果物店がどこにあったか今では不明ですが、人家のない場所に商店があるはずがない。
旧国道沿いの西にあったとすると海岸からは離れ、雑木林地帯にあったことになります。
結局、この文書からは三角兵舎の場所は特定できません。

100✕100mぐらいが立ち入り禁止で、地元では 「風船爆弾基地」 と呼んでいたらしい。
風船爆弾の本物の打ち上げ基地は一宮町の海岸にあり、広大な面積を占有していました。
では、この施設は何だったのでしょうか?

おそらく飛ばした風船爆弾の現在位置、飛行航路を追跡する施設だったのでしょう。
気球にはラジオゾンデ(高層気象観測用無線発信器)があり、数十時間、数千キロの距離でも受信可能だったそうです。
特殊な無線を傍受するための 「標定所」 が、青森県の古間木、宮城県の岩沼、千葉県一宮に設置されました。

3 か所で受信すればほぼ正確に気球の現在位置が割り出せます。
『謀略戦 陸軍登戸研究所』(学研M文庫、斎藤充功著) によれば、その方向探知機は地下の電磁遮蔽しゃへい室内に設置したとあります。

一方、長生村風土記には、「地面を掘り下げて、四角い大きな箱を埋め、その上に三角屋根を乗せた」 とありますから、気球からの電波を24時間観測する部隊が駐留する 「標定所」 だったとみて間違いないでしょう。

長生村文化会館を訪れた帰り道、ついでに海岸地帯を見に行きました。
驚きました。
海岸地帯の広大な敷地が「幸福の科学」に買い占められていました。

そういえば「幸福の科学大学」が文科省の認可を得られなかったというニュースがありましたが、その不認可大学のキャンパスと関連施設がここだったんですねぇ。

3.11大震災の際、九十九里浜沿岸で長生村だけが被害がなかったのはご本尊様のお蔭だという立派な看板が立っていました。
巨大津波が長生村沖合で左右に割れ、長生村が助かったのはモーゼの出エジプトで紅海が割れたのと同じ現象だとの説明です。

その広大な敷地の一角にやや小高い場所がありました。
この地域特有の海岸砂丘の一部なのでしょう。海外からの電波を受信するのは適切な場所のように思えました。
標定所が蟹道海岸(ナヤ)にあったとすれば、ふさわしい場所です。

詳細な地元地図を持参しなかったので、的外れな推測かもしれません。
一宮町には電波受信の標定所があったとの記録がありませんから、長生村風土記の記述は貴重です。
この海岸近くに 風船爆弾関連施設があったことは、間違いないことだと思います。

   上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(1)
   上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(2)
   上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(3)



 

★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(3)

一宮砲台記念碑、風船爆弾記念碑
  一宮海岸、風船爆弾発射基地跡記念碑(左)と幕末一宮藩砲台跡地記念碑(右)
  場所は県道30号沿いの焼肉花月苑の1本西隣の道路沿い。「波乗長屋」裏。


1944(昭和19)年ごろ、千葉県の一宮駅から海岸まで軍事用鉄道の引込み線がひかれていました。
一宮から東浪見(トラミ)にいたる海岸は立ち入り禁止となり、海岸には兵舎 が建設され、陸軍気球部隊と陸軍兵器廠が設置されていました。

風船爆弾は太平洋戦争の末期、米本土攻撃をするための秘密兵器だったので軍の重大機密です。
海岸に何があり、何が行われているのか、地元住民は何も知らされず、海岸線を走る汽車は、海側の窓の鎧戸(よろいど)が常に降ろされていました。

風船爆弾は偏西風がちょうどよく流れている時期の早朝、あるいは夕暮れに放たれました。
直径10mもある気球ですから、いくら秘密にしていても空に放たれた気球を目撃した住民は何人もいたようです。

記念碑には風船爆弾発射基地跡地とありますが、正しくは「発射」ではなく「放球」。
気球はコウゾを原料とした和紙で出来ていましたから紙風船。
この紙風船用和紙を作るために全国の和紙の産地は全力動員されました。
和紙を張り合わせるために各地で多くの女学生が勤労動員されたと伝えられています。

風船に水素ガスを詰め、15kg炸裂爆弾、5kg焼夷弾を2個を装着。
高度調整装置を取り付け、高度8000m~10000mまで上げ,冬の偏西風にのせて米国本土まで飛ばせて落下するように仕掛けてありました。

紙風船本体、付属物、爆弾、高度調整装置、水素ボンベなど厳重に梱包され、この引込線を使って海岸の基地まで運び込まれました。

放球台は直径10mの円型コンクリート床を作り、周囲に気球を留める19本の綱をつなぎとめる19個の鉄の懸吊環(けんちょかん)がありました。
一宮には今は何もありませんが、北茨城市五浦にある風船爆弾の放球地跡には円形コンクリ床が現存していました。
一宮も同様の施設設備があったことでしょう。
大津放球台
(画像元→●

このような放球台が一宮にいくつあったのでしょうか?
一宮に配置された部隊の規模から12台だったと考えられますが、地元の証言は少し違います。

風船基地7
この画像は一宮町の隣町・睦沢町の歴史資料館で今年(2015)開かれた戦争資料展に展示されていた資料です。
赤丸で示された放球台は一列に並び、その数は7か所しかありません。
この資料は地元の人の証言をもとにして作成されたようです。

この資料の信ぴょう性を確かめるために昭和20年当時の地図を調べましたが記載はありません。
それではということで、国土地理院の 『地図・空中写真閲覧サービス』 で昭和27(1952)年、米軍が撮影した航空写真を調べてみました。
(検索方法、空中写真 整理番号USA コース番号M209 写真番号41)

放球台写真

画像中央、南北に連なっているのは海岸砂丘の黒い松林。海岸砂丘にそった東側平地部に、丸や半円の人工的構造物が見受けられます。
これが放球台だと思われます。
その一部を拡大してみると、円周上にボチボチ模様が見えます。
     放球台3

放球台はのっぺらぼうなコンクリ円盤ではなく、円周上に何やらがっしりした構造物があったことが分かります。
これが懸吊環なのかどうか、判断する材料が手元にありません。

睦沢資料の放球台は7か所ですが、写真では10~12か所見受けられます。
睦沢資料の放球台は等間隔で直列していますが、写真ではややばらばらに配置されています。
現場の微高地形を考えれば、等間隔であるより不ぞろいである方が納得できます。
画像は戦後7年が過ぎ、放球台付近は放置されて雑木で覆われ、荒れていたことが分かります。

その後、放球台があったこの海浜地帯には県道30号が通り、海側の防風林地区を除いて宅地整理されて分譲され、現在ではしゃれた民家が並んでいます。
睦沢町の歴史資料館では放球台のコンクリ破片が保存されています。
昔を偲ぶものはこの破片のみとなってしまいました。


 

★上総一ノ宮駅に引き込み線があった頃(2)

   射撃場2
   まだ引き込み線がない昭和9年の陸軍作成の地図
   一宮・東浪見海岸は陸軍の実弾射撃場だった
   円形ハッチング部分が着弾危険区域


米国が原子爆弾を開発している時、日本軍は巨大な紙風船を作り、その風船に爆弾をくくりつけて米国本土を攻撃するという奇想天外な作戦を計画していました。

その風船爆弾の発射基地が一宮にありました。
作戦は実行に移され、昭和19年11月から翌年の春まで9300発が放たれたそうです。
基地跡は今では住宅地と化し、その面影はありませんが、微高地に記念碑がたっています。

九十九里浜の最南端に位置する一宮・東浪見(トラミ)海岸は当時、それこそ何もない海岸で、広い砂浜に荒い波が押し寄せ、背後は小高い海岸砂丘が連なり、そこは松林となっておりました。

今はサーファーのメッカとも言われ、多くのサーファーでにぎわう平和な海岸ですが、当時もそうだったわけではありません。
この海岸は大正末期から陸軍の実弾射撃場として利用されてきました。
もっとも陸軍専用ではなく、射撃がない時は地元の漁師も利用していた海岸です。

昭和9年に、海岸沖の洋上で大原の漁師が二日連続して流れ弾に当たる事件が起きました。
その顛末の報告書が国立公文書館アジア歴史資料センターに残されています。
防衛省防衛研究所蔵書の中の『陸軍省-大日記乙輯』の、昭和9年9月25日付け文書で
一宮演習場に於て実弾射撃演習中漁夫受傷に関する件』です。

上記画像はその文書に添付されていたものです。
その文書の中に憲兵隊の報告書もあり、当時の一宮・東浪見海岸の様子が記述されています。
以下、その記述を現代文風に少しアレンジして引用します。

――射撃場所 千葉県長生郡一宮町海岸
15,6年前より歩兵学校実弾射撃実施以来、陸軍部隊学校の演習は逐年増加し、現在においては野戦重砲兵学校・騎兵学校・下志津飛行学校・飛行第五連隊・戦車第二連隊・騎兵第十五連隊・陸軍造兵廠等あり。これらの部隊・学校は射撃前一週間ないし五、六日前、関係町村当局に実施に関し一般漁民に示達すべき通牒を発し、一か月平均十日ないし十五,六日間、各種射撃を実施しつつあり―――

同報告書によれば、生活に困窮した漁民が好漁場である同海岸沖に出漁することがままあり、今後は関係町村、漁業組合に演習日時を徹底するとともに赤旗を立てて演習中であることを示し、見張りもたてるなどの対策をとるとしています。

風船爆弾基地建設の約10年前の事件ですが、その当時から事実上、民間人立ち入り禁止の海岸であり、陸軍各部隊がそれぞれのスケジュールに沿って実弾演習をする海岸だったことが分かります。

対米風船爆弾基地をどこに建設するか?
風船はジェット気流の偏西風にのせるのですから太平洋岸であるのは当然として
陸軍に縁が深く、土地勘があり勝手知ったる一宮の海岸が選ばれることになります。

さらに、一宮が基地に選ばれた理由が二つあるとわたしは推測しています。
一つは幕末の頃、ここは開明的な幕臣加納氏が治める一宮藩でした。
諸外国に対抗するためには海防が必須と考え、1854年の江戸のお台場建設に先立ち、1844年に独自に砲台を設置しました。

その砲台が設置されたのがこの海岸であり、当時はまだその大砲が残っていました。
尊王攘夷の記念碑的な砲台跡地に対米戦勝利の風船爆弾基地が建設されたのでしょう。

二つめの理由は、この海岸を見渡すことができる高さ7m前後の微高地、それはこの地域特有の海岸砂丘なのですが、そこに陸軍の上原元帥の別荘があったことです。

上原勇作(うえはら ゆうさく、安政3年(1856)-昭和8年(1933)は陸軍大臣、教育総監、参謀総長を歴任して 元帥という陸軍の超大物です。

想像をたくましくすれば、別荘滞在中の元帥が実弾射撃演習中の若い将兵の姿を目にしてあれこれアドバイスしたことはあり得ることです。
風船爆弾実施の責任者が、「上原元帥、我らを見守りたまえ」 という願いを込めたとしてもおかしくはありません。

元帥別荘の北隣の敷地、そこは江戸末期の 「南陣所」 という尊王攘夷ゆかりの字(アザ)地名の場所ですが、そこに風船爆弾の兵舎や兵器廠が建てられたと言います。

   字・邸地
          歴史を刻む旧「字」地名 
                                                     つづく