★苅谷ケ原古戦場跡 


     石造地蔵菩薩倚像(キゾウ) いすみ市苅谷1118-1観音堂

お地蔵様は立像が一般的ですが、このお地蔵様は腰かけており、倚像(キゾウ)といいます。
宝珠(ホウジュ)と錫杖(シャクジョウ)を持っていますから、間違いなくお地蔵様です。
場所は観音堂というのに観音様は見当たらず、敷地は苅谷中町区民会館と墓地。その端には神社があるという不思議な場所です。

苅谷ケ原での戦闘を物語風に書いてみましょう。

―――天正十八年(1590――関ヶ原の10年前)の正月のことだった。
大多喜城主・正木大膳(ダイゼン)時堯(トキタカ)は、宿敵である万木(マンギ)城の土岐頼春(トキ ヨリハル)を討つべく夜半に総勢百騎を引き連れて出陣した。
「いざ、出陣。敵は正月に浮かれて酔いつぶれていることだろう。勝利は間違いなし。悟られぬよう私語は禁止だ。良いな。」

月のない晩だった。馬の口にクツワをはめ、夜道(現在の国道465号)を南下し、苅谷村を左に折れると万木城は間近である。道はやや下り坂となり、周囲は背の高い枯れた葦でおおわれた「苅谷ケ原」となる。道は狭く、左右は低湿地であり、時堯はふと何か心にざわめくものを感じた。
その時だった。
「それ討て!!」と大音声がし、周囲から一斉に矢が放たれた。
不意をつかれた正木勢は狭い道で前後が交錯し、大混乱に陥った。低湿地に踏み込んだ馬は泥に脚を取られて動きが取れない。
そこへ長槍を持った土岐の部隊が突入し、抜刀した部隊も突入してきた。
今回の正木勢の夜討ちは完全に土岐勢に読まれており、待ち伏せを食らったのである。
「敵は時堯ただ一人。討て!!。討ち取れ!!。首をかき取れ!!」
「御大将を守れ!!」
「ひけー。ひけー!!」
敵味方の怒号が交錯する中、正木勢は総崩れとなり、時堯は大薙刀(ナギナタ)を振り回し、迫りくる敵を追い払いながら退却した。
苅谷ケ原の戦いは土岐勢の完全勝利となり、敗れた正木勢の遺骸が散乱していた。

夜が明けると戦闘はさらに続き、土岐勢は手負いの正木勢を追撃して大多喜城に迫り、城からは加勢が繰りだし、現在の船子交差点付近からコメリにかけての原野で再び激戦となった。
正木勢は夷隅川を背にした「背水の陣」であり、必死に抵抗したが土岐勢に勢いがあった。
しかしその時である。土岐勢の背後で轟音が鳴り響いた。
振り向けば落雷だった。空は急に暗くなり、冷たい雨が激しく降りだした。
戦場は一瞬静まり、そして正木勢が歓声をあげた。落雷は山の手の土岐勢本陣近くである。
「天の助け」とばかりに正木勢は活気づき、土岐勢はひるんだ。
土岐勢は引き揚げの陣太鼓を鳴らした。続く雷鳴と氷雨に味方が浮き足立ち、退路を断たれることを心配したのである。
正木勢は追撃しなかった。夜明け前からの戦闘で疲れ果てていた。
こうして船子原の戦闘は勝敗を決することなく終了した。

土岐頼春は居城である万木城に戻り、戦場となった苅谷ケ原の清掃を命じた。正木勢の遺体は集められて苅谷ケ原近くに埋葬された。その場所は画像の地蔵菩薩がある所だという。昔から無縁仏の埋葬場所だった。その霊を弔うために、この地蔵はその後、有志によって安置されたのであろう。―――

苅谷ケ原古戦場とはどこか、現地を見てのわたしの推測地です。
スーパー源氏から夷隅支庁舎まで、東は国吉病院にかけて昔は広大な湿地原野だったろうと推測しますが、古戦場の立札の一つもありません。
お地蔵様の位置が原野のはずれだろうと思います。

船子付近を「船子原古戦場跡」といい、雷が落ちた場所が旧大多喜女子高校(現在の千葉県教育復興財団文化財センター )のある山で、地元では「雷台 イカヅチダイ」と称してきましたが、今では「雷台」の名を知る人も少なくなってしまったようです。 

この年は本能寺の変からすでに八年。天下は豊臣秀吉のものとなっていましたが、房総半島ではなおこのような局地的な激戦が繰り広げられていました。
同年、小田原の北条氏滅亡にともない、正木氏も土岐氏も共に滅びることになりますが、この時は双方ともそのことを夢にも思わなかったことでしょう。

房総半島の各勢力の諸城は、秀吉の命令によってなだれ込んだ家康の部下・本多平八郎忠勝の軍勢によって、あっという間に踏みつぶされてしまいました。
砦も含め48の城が滅んだことにちなみ、“いろは崩し“と呼ばれています。

 

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★大原旧坂東村の車地蔵 


  いすみ市指定文化財。左は南無阿弥陀仏の石碑。右が車地蔵。

右の石造物の上部で合掌している仏様が地蔵菩薩。
お地蔵様は普通は立像で宝珠を持ち、錫杖を持ったお姿なのに、僧侶のごとく衣服を着て合掌している坐像はめずらしい。
しかし、この場所がかつて無縁仏の墓地だったことを考えると、やはりこの坐像は他の仏様ではなく、言い伝えとおり、お地蔵様だと考えられます。よく見られる六地蔵の右から二番目のお地蔵様を座像にすると、このお姿になりますから。

中央に石造りの車がついており、手で触れると重たいけれど今でも回ります。
この車を“車輪石”といい、念仏を唱えながらこの車を回すと、仏様(死者)への供養になり、あわせて自分の功徳が積まれ、その功徳で難を逃れられるという信仰がありました。

車を回すとは輪廻転生を意味すると同時に、長~いお経を1回読んだことになります。
何度も回せば何度もお経を読んだことになる、という便利な車で、由緒の古いお寺には時々、同様の施設があります。
海難事故での無縁仏を丁寧に丁寧に供養した村人の心が伝わってくる車地蔵です。
お金を集めて建立したのが村の若者たちでした。

伊豆大島であれ、フクシマであれ、遺体の収容は精神的にも肉体的にも過酷な作業です。遺体は損傷し、腐敗臭が漂う。
身内の者を探し弔うのと同様の気持ちがなければできません。
遺体処理に携わった若者たちは格別に仏様に対する供養の念が強かった、その証(アカシ)の車地蔵です。

横に夷隅郡教育委員会のそっけない解説板がありますので、全文引用します。

“この石造の車地蔵は、石塔の塔身部に車輪石を付け、その上部に仏像を陽刻している。
ここは、通称車堂と呼ばれれる共同墓地で、もともとは、海難者などの無縁仏を葬った場所であったという。
塔身に享保四(1719)亥五月坂東村若者中と彫られている。
石塔の高さ98センチ、車輪石の径22センチである。“

画像のように現在も地元の人々によって仏花が手向けられ、周囲はきれいに掃き清められています。
地元の人たちの篤い心に支えられたお地蔵様で良かった――と思いました。


地図はこちら→●

 

★大原追分の石造 「如意輪観音道標」 


   裏道の四つ角に建つ。上部に観音様と方向を示す指差し。

いすみ市の指定文化財(昭和47年)です
  正面上部  如意輪観音半跏座像(光輪、一面六臂、蓮華、宝輪)を陽刻、
     下部左 「四國西國/秩父坂東」と陰刻
     下部右 「此方、かつうら/ぼう志ふ なこ/こみなと みち」、
       (勝浦/房州那古/小湊道)
  右側面    右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)
  左側面    左指差し図、下に「一の宮 江戸/きよみづ、道」

追分とは普通は三叉路を意味しますが、ここは四つ辻です。
江戸時代からの房総往還道で、道路中央に排水路があることで古い道だとわかります。
今は近くに国道128号が通るので、地元の人だけが利用する小道となってしまいましたが、
この細道が江戸時代のメインストリートでした。

かつては大原はだか祭の大別れの儀式がここで行われ、大原でも古い由緒を誇る三社(鹿島、日月、瀧内)は大原小学校での大別れの後、ここ追分で再び別れの儀式を行っています。
つまり江戸時代の重要な交差点であったことが、かろうじて祭礼の儀式を通じて今日に伝わっています。

その重要だった交差点の一角にこの石造道標が建ち、多くの巡礼者の役に立ちました。
「ぼう志ふ なこ」とは現在はあまり有名ではありませんが、内房にある館山の那古観音様のこと、「きよみづ」とは岬町鴨根にある清水寺(清水観音)を意味します。
この道は観音様巡礼の重要な道であったことが判ります。

かつて不届きな車がぶつかって道標が倒され破損しました。それで現在はあまりにも不粋な赤白の支柱がたって道標を保護しています。

近くに住む漁師の拓さんは祖父の話として
「当時の大井谷(オオイヤツ)村の人達が、四国の金比羅参りに行った際、旅先で道標が無く難儀したので、帰郷後、仲間が浄財を出し合って建てたものだ」と聞いたそうです。
建てられたのは、1838年(天宝9年5月)ですから、約175年ほど前になります。

拓さんは続けます。
「当時の村人がなけなしのお金を持ち寄って、旅人に対する思いやりの気持ちから建立した、この追分の道しるべは、単なる道路標識としての道しるべだけでなく、人間の進むべき方向を指し示す道しるべという感じがするんだよね」

それで拓さんは正月やはだか祭の時にはワラ縄をなってしめ飾りにして道標に飾っています。
もとより石造道標が神聖である訳ではなく、その道標を建てた村人の気持ちが神仏のごとく尊いということでしょう。
石造道標に当時の村人の気持ちがこもっていると言い換えても良いかもしれません。

「俺がこんなことしないと、みんなこの道標のことを忘れちゃうからね」
そう言う拓さんの人知れぬ努力でこの道標は守られています。

全国に石造道標はたくさんありますが、この道標は大きく立派なものです。
また、手の指で方向を指し示しているのは大変珍しい、当時としては斬新なデザインでした。
なんか汚い石が建っている、ですますのではなく、細部に眼を遣り、当時の人々のことを思い起こすのは現代人にも必要なことでしょう。


現地の地図はこちら→●

 

★峠の山道の庚申塔(コウシントウ) 


  西大原駅からの発坂(ホッサカ)峠への道で

江戸時代に庚申信仰が大流行しました。
人の体には三匹の虫がいて、60日に一度来る庚申の日には寝ている間にその虫が体から抜け出して、その人がどんな悪いことをしたかを天帝に報告します。寝なければその虫は体から抜け出られないので、庚申の晩は村中の人が集まって徹夜の宴会をしたそうです。
ある種の村人の楽しみの晩だったのでしょう。

たいていの人には何かしら天帝に告げ口されると困ることがあるのかもしれません。
画像はそれをいさめる庚申塔で、正面に描かれているのは“青面金剛・ショウメンコンゴウ”という仏様で怒りに燃え狂った姿で村人をいさめています。
上方には日月が描かれ、下方には三猿が描かれるのが普通ですが、画像の庚申塔では二匹しか描かれていないようです。珍しい。

「見ざる・聞かざる・言わざる」を三猿といい、江戸時代の処世訓でした。
秘密を見てしまった、聞いてしまったことはなかったことにしよう、絶対に口外しないことにしようというもので、「臭いものに蓋」と同じ思想です。
もし、うっかりしゃべってしまったら、道徳的に避難されるだけではなく、秩序を乱し不安をあおった者として、ヘタすりゃ打ち首ですから庶民は「事なかれ主義」を信条としました。

昭和になっても打ち首同然になった人がいました。
日米秘密協定をすっぱぬいたN記者は有罪判決を受けました。
そんな事実はない、悪質なデマだと言われましたが、米国の情報公開制度によってN記者が正しかったことが現在では証明されています…。

真実を語った人が犯罪者になる世の中はおかしい。
だのに今さら「秘密保護法案」が制定され、国民は三猿を強制されようとしています。
ブラック企業を告発し、告発した人が逮捕され、追放されるなんてまっぴらです。
政府はよっぽどブラックの塊なんですね。
秘密保護法はけっきょく政府保護法であって、国民には百害あって一利なし。

フクシマで東電関係者が2週間前、1時間30mmの雨量に耐えられると自慢していました。
TVレポーターはそれ以上突っ込みませんでした。
とんでもない。1時間80mmを越す雨が降ることもあると予想せず、越えたらどうなるか、考えなかったのでしょうか。だれも進言しなかったのでしょうか。
言えない雰囲気が東電にあるのでしょうね。

真実を知っているのは数名だけ--では正しい判断ができるわけがありません。
全部を明らかにして、衆知を集めて未来の方向を決めたいものです。

興味本位のウワサを流すのは慎まなければなりませんが
大事なことは、基本的なことはみんなに知らせてほしいと思います。
たとえ「余命3か月」ということであっても。
本当のことを知りたい、それが人間です。

 

★石の観音様 


   和泉・三合寺にて

三合寺という珍しい名前のお寺は、実は三つのお寺が住職不在で統合されたからだそうです。
もともとこの地にあったお寺は「弥勒堂」で、何有荘の住所も以前は字弥勒堂でしたが、字表記は不要となり、便利ですが味気なくなりました。

この地域の古いお寺は洪水、津波の被害似合わぬようやや高台にあり、三合寺も少し山道を登ります。廃屋となった庫裏(クリ)の横に立派なコンクリ製の弥勒堂があります。
現在はこの三合寺も住職は不在で、必要がある時は近くのお寺から住職が出張してきますが、江戸時代以来の檀家制度に依存した仏教では将来はどうなることか、案じられます。
墓地は広く、よく見ると元禄大津波の死者の墓石があるのがわかります。

墓地と弥勒堂の境の道路わきに画像の観音様が立って、参拝に来る人を見つめています。
季節外れのため花が活けられていませんが、盆暮れ、彼岸の時には花も線香も手向けられておりますから、地域の人々から愛されているのでしょう。

石は石だから神聖であるはずがない、拝むなという教えがユダヤ教やイスラム教で、キリスト教も本来は偶像禁止ですがイエス像やマリア像など礼拝の対象になっています。
仏教も偶像禁止だったのですが、ガンダーラ地方(アフガニスタン)で仏教はギリシャ神像と出会い、対抗上、仏像が作られ始めたと聞いています。

大切なものは眼に見えない――それはそうだと思いますが、大切なものを形にして残したいという気持ちもわかります。
お地蔵様や観音様を見て拝むとき、少なくともその時は悪事は考えていません。素直な感謝の心でいると思います。
たまにはそんな心に立ち返ることが、現代人には必要のような気がします。