★大原はだかまつり、海の幸――日月と宝珠

欄間と北斎
行元寺 波の伊八欄間彫刻 波に宝珠と葛飾北斎 神奈川沖浪裏画像元→●)

幕末、黒船によって開国した日本から大量の浮世絵や工芸品がヨーロッパに輸出されるようになると、現地ではジャポニズムといって日本風文化が大流行します。ゴッホ、セザンヌ、ピカソなども日本文化の影響を受けました。

北斎の『神奈川沖浪裏』は欧米では『Big Wave』の名で良く知られています。
この絵に影響を受けた作曲家ドビュッシーの最高傑作が交響詩『海』で、楽譜ジャケットにはこの絵の大波がそのまま描かれています。
わたしは何度そのCDを聴いてもその良さがわからないのですが…。

その北斎の絵の構図が行元寺の欄間彫刻に似ていると報道されたのはもう十数年前のことで、今ではもう、ほぼ定説化しています。
左右の波を強調し、中央の宝珠をはるかかなたの富士山に置き換えれば確かにそのようにも見えます。

2020年にサーフィンが採択され、外房では会場を誘致しようと張り切っています。
外房の波はこの近辺ではドカリの波と呼ばれ、大波が来るのでサーファーが数多く移住している地域です。
波の伊八と称される彫師、武志伊八郎はこのドカリの海に馬で乗り入れて波の動き、その詳細な姿を観察し続けたと言われます。

伊八は波間に宝珠を描くことで海の幸を象徴しました。
実際、江戸中期以後、いすみ市海岸は地引網漁で莫大な財を築きます。その財をもって行元寺や飯綱寺などの寺院は荘厳に装飾されました。

しかし、わたしは最近、伊八は海の幸などというありきたりの理由で波間に宝珠を掘り込んだのだろうかと疑問に思うようになりました。
そして伊八は実際に波間の宝珠を見たのだ、と確信するようになっています。
それが大原のはだかまつりです。
おそらく伊八もはだかまつりを見たことでしょう。

大原はだかまつりの画像(画像元)を見れば、荒波の海岸に神輿が繰り出しています。
     はだかまつり
神輿のてっぺんには金銀の擬宝珠(ギボシ)が置かれ、ひもでくくられています。
擬宝珠は文字通り、宝珠に似た形をしています。
これを見た伊八は波間に宝珠のデザインのヒントを得たのだと思うようになりました。

はだかまつりの参加十八社は町内を巡る時の神輿のてっぺんは鳳凰です。(ニワトリじゃありませんよ)
しかし汐踏みと呼ばれる渚での行事の時は擬宝珠に付け替えます。
神輿の擬宝珠が担ぎ手によって激しく揺れ、背景に波が押し寄せる――これが『波に宝珠』の原型だと思えます。

そしてもう一つのヒントが大原の神輿にはあります。
それが神輿の屋根に飾られた日月紋章。
日月は海の干満を支配し、海の恵みの根源です。

大原十八社のうち、神輿に日月紋をつける神社は12社。
釈迦谷神輿瀧口神輿
      左:釈迦谷の神輿  右:瀧口神社の神輿  (参考画像→●)

荒海の東の空から昇る太陽、昇る月が『波に宝珠』のデザインに重なります。
欄間の宝珠がやや大きすぎると感じるのは私だけではないでしょう。
これが昇る日月を暗示しているならば納得がいきます。
彫刻の宝珠の上に何やら霊気が漂っています。それは燭光のアレンジでしょう。
水平線から昇る朝日という伝統的な構図を、荒波と宝珠に置き換えた点が伊八の独創性だ、と思います。

こうして考えると、伊八→北斎→ジャポニズム→ドビュッシーの流れの大元にあったのが大原のはだかまつりだったという結論になります。

今日は朝から大雨で一部地域では避難指示まで出されました。
レインラインが通り抜け、まだ曇っていますが、明日の各神輿そろっての汐ふみは可能でしょう。


 
 
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★深堀・瀧口神社(2)

瀧口神社
 昨年、新装なった社殿はまだ木の香も新しい。この地方特有の妻入り型神社。

瀧口神社のご祭神は豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)だそうです。
トヨタマヒコは海の神様である綿津見(ワタツミ)の神様の別名です。

ワタツミは海そのものの神格化であり、ワタ、ワダは古代日本語で海。
ワタノハラとは百人一首を知っている人は、海原のことだとすぐ理解できます。
ツは~の、ミは霊ですから、ワタツミで海の霊の意味になります。
御宿の岩和田という地名は、岩だらけの海の意味であり。実際、その通りです。

ワタツミは原始的な神様で、古代の船乗り、海洋交易部族の信仰が篤く、北九州、壱岐、対馬などでその神社が多い。

一方、海の神をトヨタマヒコとするとニュアンスが少し異なり、言葉を話す人格神となります。
ワタツミよりも洗練された感じがあり、海の幸、海の恵みをつかさどる海洋漁労民族の神という印象がにじみ出てきます。

瀧口神社の創建は嘉祥(カショウ)3年と言いますから、西暦では850年。平安時代からの由緒ある神社です。
住民は海の恵みに感謝し、豊玉彦命を祭ったものでしょう。

海王は海のかなた、もしくは海底にある壮大な御殿(竜宮城)の主で、海洋のすべてをつかさどる。
天皇家の系譜を語ることが主目的の古事記、日本書記神話ではストーリー展開の都合上、豊玉姫は豊玉彦の娘という位置づけになっています。
その豊玉姫の妹が玉依姫(タマヨリヒメ)で玉前(タマサキ)神社のご祭神です。

東海地区でいえば、北日在(キタビアリ)の玉前神社が玉依姫を祭っています。
創建は鎌倉時代の1223年。
北日在の漁民たちが若き玉依姫を海の幸をもたらす豊穣の女神として信仰したのでしょう。

玉前神社と言えば隣町、一宮町に鎮座する上総国一宮である玉前神社が思い浮かびます。
その祭礼を上総十二社祭りといい、一宮町のほか睦沢町、茂原市、いすみ市の玉前神社関連の神社がこぞって参加します。

ところが深堀の瀧口神社や北日在の玉前神社はこれに参加しません。
これは同じ海の神様を祭っていても行政区が違うから赤の他人、ヨソのお祭りだからです。
上総十二社祭りに参加する地域は、平安時代の荘園、一宮荘であった地域だと思われます。
旧一宮荘の地域あげての祭りが今日まで伝統として続いています。

一宮は長柄郡(現長生郡)であり、大原は夷隅郡(現いすみ市)。
同じ神様を信仰していても、氏子どうし親しくなる条件がまったくありません。

岬町の椎木・中原・和泉が夷隅郡に付け替えられたのは明治になってからで、江戸時代までは長柄郡に所属していました。
おそらく平安時代の夷隅川は今よりずっと北を流れ、夷隅川を境界とし、その北は長柄郡、南が夷隅郡と定められていたのでしょう。
それで夷隅川の北のこの地域の住民は今日でも一宮のお祭りの構成員になっています。

一方、東海地区の六社は団結し、大原はだかまつり十八社の一画を占めています。
東海地区六社は、深堀の瀧口神社、北日在の玉前神社のほかに、
   新田の『日月神社』創建1249年、
   若山の『熊野神社』。
   釈迦谷(シャカヤツ)の『天御中主神社』、この神社が一番古くて創建は天平十三年(741)。
   南日在の『大山神社』。ご祭神はもちろん山の神、オオヤマツミ。

この六地区の仲が良いのは明治の市町村合併で、六つの村が一つの東海村になったことでも示されています。(その後、大原町と合併)
この六カ村は塩田川の支流である新田川の流域に属し、ずっと昔から治山治水で協力関係にあり、新田川を流通経路として経済的にも相互依存関係にあったと思われます。

祭りが地域共同体の行事である以上、その祭神が誰であるかは問わないのが普通です。
担いでいる神輿の神様が誰なのか、知らない人の方がほとんどです。
オラホの神様、オラホの神社で相互にじゅうぶん話が通じますから。

なお、深堀、新田、若谷の三地区は江戸時代中期まで一つの内野郷(村)でした。
当時の領主の阿部氏が遺産相続の関係で内野村を三分割し、深堀、新田、若山としました。
そのなかでも深堀の瀧口神社が筆頭の位置を占め、神様にも身分差別があるんですねぇ。正一位という神様の最高位を与えられ、「郷社」の栄誉を受けていました。

地方のあまり有名ではない神社としては破格の扱いです。
その理由は?――実はよくわかりません。ともかく格が高い神社です。


 
 

★深堀・瀧口神社(1)

深堀瀧口神社
     深堀氏碑と瀧口神社。境内は広い。

大原はだかまつりの季節になりました。
大原地区のみならず、北部の東海地区、南部の波花地区の18の神社が参加する数百年の伝統を持つ祭礼です。
なかでも各社の神輿が集まる大原海水浴場での汐ふみと大原小学校校庭での大別れ式は圧巻で、一度は見るべき祭礼でしょう。

深堀にある瀧口神社は東海6地区(深堀、新田、若山、釈迦谷、北日在、南日在)の6神社の親神であり、はだかまつり18社の中でも一方の雄として穏然たる勢力を持ち、権威のある神社です。

その神社の入り口に画像のような石碑があります。
「深堀氏碑」―――多くの人にとって深堀氏って誰?の世界ですね。

話は861年前、1255年にさかのぼります。
上総国深堀の住人、深堀能仲(ヨシナカ)は、この年、ご褒美として肥前国彼杵郡戸八浦の地頭に任じられました。
というのもさる1221年に京都の後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵をあげました(承久の乱)。
源氏の血筋が絶えたのを絶好の機会と見たわけです。北条政子が涙ながらに頼朝の恩を説き、御家人は「いざ鎌倉」とはせ参じ、上皇、天皇、公家方勢力を完全に粉砕しました。

上皇らは島流し。没収した彼らの領地は鎌倉武士団に分配されました。深堀能仲はよほど戦功があったのでしょう。1255年に肥前国(長崎)に新領地を得ました。しかし、東国武士の作法と西国の流儀は違うので、きっと、ずいぶん苦労したことでしょう。

深堀氏はやがて新領地に定着し、現地の有力武士団として成長していきます。
幕末まで肥前鍋島藩では家老職を務める家柄だったそうで、その本家のあった地域は深堀町として現存しています。

深堀氏はその出身地である上総国大原よりも、赴任先である肥前国での方がずっと有名です。
普通は、あらたに領地を得ても、現有地に親族を残すものですが、残った親族がどうなったかの話は聞きませんから、一族そろって九州肥前の国に移ったのかもしれません。

深堀氏の先祖は三浦半島の豪族三浦氏につながるらしい。
三浦一族と言っても良いのでしょうが、三浦氏が権力争いで滅びると、和田義盛の親戚と称したようです。やがて和田氏も滅びてしまうと、深堀氏として独立します。

この地域が深堀と言われるのは、深堀氏がかつて居住していたからではなく、もともと地元では深堀という地名だったからでしょう。
その地名をもって自らの苗字としたのが深堀氏だったはずです。

ここが深堀と呼ばれた理由は、付近を流れる新田川の流れが急峻だからでしょう。
その深い渓谷を領主の館の掘として利用したことは十分考えられることです。
実際、すこし上流にある天台宗の古刹、坂水寺(バンスイジ)の前を流れる新田川は深く、まるで坂に水を流したようであり、背後は天然の山林ですから、往時はイザと言う時には深堀氏の館を守る要塞になった可能性を今日に残しています。

さて、神社の名前である瀧口とは、瀧のふもとを意味しますが、周囲に落下する滝などありません。すると、この滝は滑り落ちる滝、すなわち滑瀧(ナメタキ)のことだと理解できます。

木戸泉の交差点から北へ国道465号を600m、深堀の信号のちょい東の橋から見る新田川の滑瀧はゴミさえなければなかなか見事です。カワセミも飛んでいました。
瀧口神社にふさわしい景色です。

この瀧口神社は社伝によれば、創建当時はもっと海岸寄りにあったが津波で損壊し、現在地に移転したそうです。
深堀氏の館跡がどこか今では全く不明です。
現瀧口神社の敷地は三方を屈曲する新田川と塩田川に囲まれ、他の一方は山です。防衛に適した地形ですから、深堀氏館跡地の一画に瀧口神社が再建されたのだろうと、勝手に想像することは楽しいことです。

その山裾を国道が通っています。伊南地方と伊北地方を結ぶ古くからの重要街道であったとすると、深堀氏はその街道を支配することで勢力を広げ、武力・財力を蓄えたのでしょう。

その深堀氏が参拝し、保護したであろう瀧口神社であるからこそ、東海地区の各神社がこぞって瀧口神社を親神様として尊崇し、現在も慕っているのでしょう。


  

★2013大原はだか祭 見学記(3) 

はだか祭二日目は夕方からの「大原商店街神輿渡御(練り歩き)」と大原小学校での「大別れ儀式」。そして暗闇の中での「三社の別れ儀式」を地元漁師の拓さんと共に参観しました。

「商店街渡御」は縁のある神輿が二社ずつ並び、木戸泉酒造前から順に大原小学校校庭までの1kmを行進します。
高張提灯を先頭にし、小学生たちがいっぱしの祭り支度に身をつつみ、声を張り上げて「祭唄」を歌っています。手元のアンチョコを時々みている姿がほほえましい。のど自慢の若衆や親父さんの良く通る透き通った祭唄も聞こえてきます。女子衆も白いロングダボ姿で、すたすた歩いて花を添えています。中には神輿を担いでいる娘さんもおり、神輿の守棒にぶら下がっている小さな氏子もいます。
その行列に知った人はいないか、見物人も熱心に見入っています。

小学校校庭での「大別れ」はそれは凄まじいものです。
一基の神輿に高張提灯や弓張り提灯を持った役員、担ぎ手・交代要員が50~80名前後いて、それが十七基そろえば、千人前後の人数となり、一斉に左回りにグルグルと走り回ります。
グルグル、グルグル前になり後になり、ピピーピー、ピーッと危険を知らせ誘導する呼子が鳴り響きます。神輿どうしがぶつかれば大変なことになるとハラハラしながらの見物で、校庭の中はまるで凶暴な渦を巻く台風の雨雲を航空写真で見ているかのような様相でした。
やがて金色の鹿島宮神輿が朝礼台の上に安置されると巨大な渦は自然に治まり、花火が上がります。各社それぞれ所定の位置に戻り、幾度となく神輿が上空にほうり上げられます。周囲はすでに陽が落ち、提灯には明かりが灯されており、別れの時刻が近くなったと知らされます。
各社の神輿はそれぞれ縁の深い神輿と連れ添い、神輿を高く掲げながら

   〽若け~もんども別れがつらい 会うて別れがなけりゃよい ヨイヨイ

という別れ歌が繰り返し唄われて流れ解散となります。それは感慨深い光景です。

ところが祭、この近辺ではマチと言いますが、マチはまだ終わらない。
拓さんの地域の鹿島宮境内に上座(カミクラ)三社と呼ばれる鹿島宮、瀧内神社、日月神社の三社が集まり、再び別れの儀式が始まります。
上の画像。本来は十五夜の晩だけれど、この日の月はまだ登らない。おまけに少々雨模様。

先ほどの唄に加え、今度は

     〽さーらば さらば デーシン デーシン ヨー

この唄が繰り返され、三社の神輿はゆっくり右回りに回転していきます。付きつ離れつ、まるで男女の別れのような風情が漂います。

さらに三社の神輿は場所を変え、旧街道の四つ辻での別れになります。
拓さんが言うには、昔はこの四つ辻は周囲が田畑で広かったが、今は建物が込んでいて、神輿の動きが制限されて気の毒だ。けれど昔から最後の別れはこの場所で行われていたから、今でもこの場所が大事なんですねぇ」とのことでした。
四つ辻の角には高さ2mほどの伊豆石製の道しるべが建っており、昔から重要な交差点であったことを今日に伝えています。
その道しるべにはしめ縄が飾られており、ワラを編んでしめ飾りを付けたのは拓さんです。

「デーシン、デーシンと言う意味はもうだれも知らなくなってしまったが、明治生まれの俺の婆さんが言うには、また来年ということだった」と拓さんは述懐します。
「さらばデーシン」とは「さようなら また来年」と言う地元の古い言葉だったようです。

拓さんの家に戻り、マチご馳走をたくさんいただき、楽しく有意義な一日が終わりました。
大原はだか祭は勇壮な潮踏みが有名だが、高張提灯に照らされて神輿がきらきら光る別れの場面が一番ジーンとくるネという拓さんの言葉に共感します。
ありがとうございました。
                                おわり
 

★2013大原はだか祭 見学記(2) 

 
   大井谷(オオイヤツ)にある瀧内神社の絵馬(市指定文化財)2枚

大原町の旧名称は中魚落(ナカイオチ)村といい、歴史の古い漁村です。
平城宮跡からは 「上総国夷灊(イシミ)郡蘆道(イオチ)郷からアワビ献上」という木簡が発見されています。この蘆道郷とは中魚落村、すなわち大原のことに違いありません。
明治になり、小浜(コハマ)、寄瀬(ヨセ)、大井谷(オオイヤツ)の3つの集落で大原町が生まれました。
神社は10社あり、その祭礼の様子が瀧内神社の文久四年(1864)の絵馬(画像左)から伝わってきます。

中魚落村の10基の神輿が連なってあぜ道を通っており、担ぎ手と見物客で大混雑。
地元漁師の拓さんは「今と同じ形の神輿だから、それぞれあの地区の神輿だと推測できる」と言います。
少なくとも150年前から現在の祭礼の形式が整っていました。
その後、大原町は周辺の東海地区、浪花(ナミハナ)地区を併合し、現在では神輿の数も十八に増え、十八社祭とも言われますが、今年は事情で十七社でした。

瀧内神社とは大井谷にある古社で日本武尊がご祭神。この地域では上座(カミクラ)三社のうちに数えられる格式の高い神社で、創建年代は不明ですがおそらく千年以上の歴史があると思われます。
伊勢神宮ではなくとも連綿と千年以上にわたって村祭りが行われているってすごいですね。
いつもは閉じている神社ですが、今日は祭りの日ですから拓さんと一緒に参拝し、絵馬を見せてもらいました。
拝殿と本殿を結ぶ短い回廊の左右に絵馬があり、正面の本殿は時代劇に出てくるような錠前がかけられて内部は不明です。左大臣・右大臣らしき木像が本殿を守っているのが印象的でした。
日本武尊は常陸国風土記では天皇と記述されていますから、ここ外房でもヤマトから来た天皇という伝承があったのでしょうか。そんな気がします。

右の絵馬:神社境内が祭礼で大いににぎわっている図柄です。
「瀧内大明神 大井谷村氏子中 天保十二年」と書かれた大きな幟旗(ノボリバタ)が描かれており、天保十二年(1841年)に作成された幟旗と現在の幟旗とは全く同じ形式です。
また描かれた石垣などから敷地は現在の神社境内と同じだとは案内してくれた氏子世話役の方のお話です。
まるで夜店のような雰囲気で、当時の人々の活気が伝わってきます。
絵馬には大きく「大願成就」と墨書されていますから、大きな願い事がかなった御礼に奉納された絵馬でしょう。

絵馬にある文久四年、あるいは天保十二年とは幕末に当たり世情は大混乱の時代でした。
太平洋上に黒船が現れ、コレラや疱瘡が大流行し、おまけに富士山の爆発や大地震、気候不順により死者を出すほどの大飢饉などが繰り返し村々を襲いました。
それでも望みを失わず、大きな願掛けをして、それを達成する人ってすごいですね。
またそんな世情だからこそ、みんなで集まって元気を出そうヨという江戸期庶民の心意気が伝わってきます。本来、「マツリ」とはそういうものでしょう。
描かれた人々の笑顔がまたすばらしい。

普段は大井谷区民館にて写真画像で見ることができますが、この会館も閉まっていることが多い。
この日は祭礼ですから広場に大きなテントが張られ、遠くまで重たい神輿を担いで走り回る氏子のために食事や茶菓の接待の準備で大わらわの中をお邪魔しました。
貴重な絵馬を拝見させていただき、ありがとうございました。
                                        つづく