★上総十二社(11) 夢のお告げ 


JR上総一宮駅横の踏切は「神門」。ここが神門という字(アザ)だったことを今に伝える。

上総国の国府は内房の市原市にありました。国分寺も国分尼寺も市原市です。
ところが一宮だけは外房にあります。
なぜ一宮だけが外房なのか、だれも説明できていません。

ところで、鵜羽神社には次のような話が伝わっています。(睦沢村史より)

大同5年(535)豊田庄の海辺で一顆の玉を得て漁屋に納めて尊崇する者があり、土人は玉依姫の神霊として右大臣百川に上申した。そのころ平城帝の御夢に釣ヶ岬の天孫降臨の故地に神霊を鎮め奉るようにとの御神託があったので帝は上総介に命じて八神六社を祀らせた。神霊二座をまつって玉崎の社と名付け別の岩井の郷にも二座を鎮め奉って鵜羽山と呼び、他にも南宮、二之宮、三之宮、玉垣の四社を玉前六社とした。

詳細に検討すると年号などおかしなことだらけですが、ポイントを考えてみると
地元から「玉依姫を祭りたい」と猛烈な陳情が中央政府に出された。
そこは天孫降臨の故地だという。
(玉依姫は神武天皇の母君で、地元は日本武尊とも深い縁がある)
それで天皇が夢を見た、夢のお告げだということにして、中央政府は上総介に命じて玉前神社グループを祭らせたということになります。
こうして上総国の他の神社をさしおき、「朝廷と縁が深い」と認定された玉前神社が一宮になった、という真相の一端を伝承しているのでしょう。

地元と朝廷の中継ぎをしたのは上総介。上総介と朝廷には地元から莫大な賄賂があったことが想像できます。
それは玉前1社だけでなく、地域全体の力を結集しての陳情だった。だから玉前神社を筆頭に六社が公認された。

その経済的背景はおそらく砂鉄。この地域は海砂鉄と山砂鉄の産地でした。
当時の最先端産業であるタタラ製鉄産業から金属製品製造手工場までこの地域にはそろっていたのではないでしょうか。
学者さんはなぜか房総の金属産業の解明に積極的ではありません。

玉前六社はいずれも一宮川流域にあり、例えば三之宮周辺は大小の古墳があり、富の蓄積があったことが推測できます。そして「カナクソ台」という地名があります。カナクソとは精錬で出た不純物の多いクズ鉄のことです。
二之宮付近も横穴古墳が多い地域で、カナクソが出土している遺跡があります。

範囲を玉前十二社に広げてみても、日本武尊伝説または砂鉄関連の神社が大部分です。
あまり関連が見られない玉垣神社も、付近の考古学的遺跡から考えれば、何らかの砂鉄利権を持っていた可能性はあります。
また谷上神社は藤原氏系の神社として、中央政界工作に関与し、玉前神社の一宮昇格に尽力したことで十二社に加えられたのでしょうか。

伊自牟の国の西半分が朝廷に没収され、危機感を抱いた東半分の地域は結束して玉前神社を上総国一宮に押し上げ、玉前十二社と称して全体的にこの地域を不可侵の「神域」とすることに成功したのだ、とわたしは推測しています。
神域とすることで自分たちの地域、経済的権利が保護されたわけですから、多額の賄賂は功を奏したとみるべきでしょう。

この地が天孫降臨の地だと証明するために、海洋と日月を信仰する素朴な地元の伝承は『日本書紀』などと合致するように様々な改変が加えられたのもこの時期だと思います。
素朴な山神様がウガヤフキアエズになり、海の女神が豊玉姫や玉依姫だとされました。
もともと海亀や鮫の多い地域で、海の彼方に理想郷があり、そこを往復した若者がいたという独自の伝承も持っていたと思われます。
その若者が釣りをした岬が太東岬だなどと新しい神話も作られました。
玉前神社のご祭神・玉依姫についてはまだ考えていることがありますが、とりあえずこのシリーズはいったん閉じます。
また機会があったらアップしてみようと思っています。
長々とご愛読ありがとうございました。
                               上総十二社、おわり

画像について
昨年、夷隅(イスミ)郡の故郷は出雲の伊志見(イジミ)郷だ→● とアップしました。
字・神門とは出雲国神門郡出身者が住みついた場所だったのでしょうか。

 

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★上総十二社(10)伊自牟(イジム)国造(クニノミヤツコ)の大失態 


 大正堰の亀。親子でしょうか。本文とは関係ありません 

まだ日本が倭国といった頃、分かれて百余国といわれるほど各地に独立した小国家がありましたが、やがてヤマトが各国の上に立ち、支配権を握ることになります。
いすみ市とその周辺は伊自牟国(イジムノクニ)といい、国王はヤマトから国造と呼ばれました。国を造った人というニュアンスがあります。
その範囲は夷隅川と一宮川の流域であり、上総国埴生郡(千葉県長生郡・茂原市の一部)、夷隅郡(いすみ市・勝浦市)にあたります。

安閑天皇の時と『日本書紀』は言いますから、およそ6世紀に起きた事件がありました。
伊自牟国造の伊甚稚子(イジムノ ワクコ)は中央政府から「秘宝の珠」を見せろと要求されます。
ワクコは「なに言ってやんでぇ」と思ったのか、それとも「見せたら献上せよと言われちゃう」と疑ったのか、上京要求を無視していました。
しかし重なる要求にしぶしぶ出かけてみると、都では出頭命令違反の罪で尋問にかけるというウワサが広がっており、ワクコは急に恐ろしくなって逃げ出します。ところが都は不案内なので、あわてて逃げ込んだ先が運悪く、皇后の屋敷だった。
皇后は突然の侵入者に卒倒してしまいます。ワクコは捕えられ、厳しい尋問を受けます。都へ遅参した罪の上に皇后宮殿侵入罪が加わり、必死に弁明しました。
その結果、国の一部を割いて皇后の屯倉(ミヤケ)として献上するということで許されました。もちろん大切な珠も取り上げられてしまったことでしょう。

当時、ヤマトの中央政府は各地の豪族の力をそぎ、統一国家を目指し、各地に朝廷の直轄地である屯倉を設置していました。伊自牟国に設置するには口実が必要です。政府の仕掛けたワナにまんまとはまってしまったのですから、政府にとっては予想以上のできで、おろかな国造の代表例として記録に残されたものでしょう。

房総半島の国造はワクコもそうですが、その多くが出雲系氏族ですから、中央政府としては潜在的反乱分子として気に食わなかった点と、東国の豊かな土地を接収して政府の財政基盤を強化する狙いがあったと思います。
こうして房総半島はしだいにヤマトの勢力下に置かれ、未だ政府に服属しない東北地方征服の前線基地として位置づけられていきます。

屯倉が置かれた場所はいすみ市夷隅町国吉付近と想定されています。
つまり伊自牟国の西半分、夷隅川流域が政府直轄地になってしまったようです。
東半分の一宮川流域には74mの巨大古墳があるのに、夷隅川流域には目ぼしい古墳がないのは政府直轄地になり有力な地方豪族が排除されたからでしょう。

さて、政府が見せろと要求した「珠」とは何か?
学者の多くが真珠と推定していますが、わたしは学者じゃないので勝手に想像できます。
おそらく「真珠と瑪瑙(メノウ)、あるいは琥珀」の二種類だったろうと思っています。

白と赤の宝石、これは太平洋から昇る月と太陽を象徴します。
月と太陽を自由に操作できれば潮の干満を自由に操作できます。
神話では山幸彦が海神から贈与された「潮満玉、潮干玉」で海幸彦を圧倒して服属させます。
上総十二社では多くの神社が山幸彦(本名:ヒコホホデミ)を祭っています。
ならば伊自牟の神社(玉前神社)がこの「潮満玉、潮干玉」を所持していてもおかしくはありません。その秘宝に中央政府が興味を示し、取り上げてしまおうと考えた。
だからワクコは出頭を渋った。

「潮満玉、潮干玉」を玉前神社が所持していた文献資料はありません。
しかし下総国一宮神宮・香取神宮の縁社である側高(ソバタカ)神社には、“側高の神様が陸奥国の馬を盗み、怒った陸奥の神様が追いかけてきたが「潮満玉、潮干玉」で追い払った”と言う伝説があります。
ならば上総一宮(玉前神社)も「潮満玉、潮干玉」の宝玉を所持していたと考えるのは、そう不当な推測ではないでしょう。
「潮満玉、潮干玉」伝説は当時の海洋漁労民族に共通する伝説だったと考えられます。

外房の雄国として発展した伊自牟国は国土の半分を朝廷に召し上げられ、さらに秘蔵の宝玉を奪われました。
国運は衰退に向かいますが、玉前神社は起死回生の大胆なプランを練っていました。

                                    つづく

補足
房総半島の古墳で最も華麗な出土品を誇るのが内房の金鈴塚古墳で、 純金製の鈴の他、琥珀製の棗(ナツメ)玉や瑪瑙製の勾玉が発見されています。内房に琥珀や瑪瑙は産出しないので、当時、海上(ウナカミ)国と言われた千葉県銚子の産だろうと推測できます。
銚子から伊自牟国までは九十九里浜でつながっていますから、伊自牟の海岸に琥珀や瑪瑙が漂着したことは十分な可能性があります。

 

  

★上総十二社(9)綱田玉前神社と山内四社 

 
    綱田浅間神社も1200年以上の歴史があるという

上総十二社のうち、和泉玉崎神社は現存せず、神輿は中原玉崎神社にあり、かつては飯縄寺が和泉玉崎神社であったことは先週述べました。
同じように綱田玉崎神社も現存せず、神輿は椎木玉前神社にあります。
ではかつての綱田玉崎神社はどこに実在したのでしょうか。

二つの可能性があります。
一つは神洗神社で、東浪見海岸に上陸した玉依姫グループ一行が潮水に汚れた体を清水で浄めた池があり、それゆえ玉前神社の「元宮」と称し、江戸時代の祭日には縁日が出るほどにぎわったそうですが、今日ではさびれたという印象がある小社にすぎません。
しかし、玉前様由縁の神社ですから、ここが綱田玉崎神社であったと考えるのが常識でしょう。

もう一つの可能性は綱田浅間神社です。
見晴らしの良い立地で眼下に潮踏み式典場を見ることができ、綱田集落の神輿はここで大休憩をとります。
浅間神社とは富士山の神様で知られていますが、祭神はコノハナサクヤヒメで山の女神です。
その息子が「山幸彦」であり、海の女神・豊玉姫と結婚してウガヤフキアエズが生まれますから、この神社も玉前様とは縁の深い神社と言うことができます。
創建は一宮の例大祭=はだか祭の始まりと同じ大同2年(807)と言われる古社です。

この綱田浅間神社は山道の途中の小高い岡にあり、その祭神のいかんに関わらず、その本質は「山神」様でありましょう。
房総半島でもこの近辺では「山神神社」が多く存在する地域で、神様は誰ですかと聞いても、サアーとあいまいな返事しか返ってきません。
井戸や泉、水源の神様である「水神様」と同様に、山の神様は山の神様であって固有名詞は必要ないという最も原始的な「山神様」信仰が残っていることに驚きます。

原始的な山の神様信仰のうち、地域の経済力が上昇し、集落の持つ力が増大すると、その中のいくつかは〇〇神社という固有名詞を持つようになります。
上総十二社の中では少なくとも鵜羽神社、玉垣神社がそれに該当するでしょう。

さて、和泉玉崎神社と中原玉崎神社、綱田玉前神社と椎木玉前神社の四社は「山之内四社」あるいは「山内四社」と言われることがあります。
十二社の中でも一グループとみなされる、その訳を尋ねても「サァー、山の中にあるからじゃないですか」という心もとない返事しかありません。
この四社は一宮玉前様から見ると西のはずれにあり、しかも確かに山の中と言えなくもありません。
しかし山奥深い神社ではなく、鵜羽神社、玉垣神社と立地はさして変わりません。

かつては一宮同様に上総国長柄郡に属していたにも関わらず、西のはずれゆえにか、綱田集落を除き、和泉、中原、椎木集落は夷隅(イスミ)郡に所轄換えとなり現在はいすみ市に属しています。
一宮から見ると僻地という印象があったのでしょうか、和泉、中原、椎木は夷隅川水系の集落ですし、山を隔てて一の宮水系の諸集落とは経済圏が微妙に異なります。たぶんその理由で行政区分が異なってしまったのでしょう。

「山内」を「サンナイ」と読むと、砂鉄精錬諸施設の集積地という特別な意味が生まれます。
鉱区、鉱山をヤマといい、それを探し求める人を”山師”といいます。
”一山・ヒトヤマ 当てる ”とは鉱区、鉱山を発見してボロ儲けをするという意味です。
炭鉱をヤマと言うことは年配の人ならばよく知っていることでしょう。
すると、和泉、中原、綱田、椎木の山内四社は砂鉄精錬関係四社という意味になりますが、本当でしょうか。
残念ながら文献資料は見当たりません。

ただし、上総十二社のうち、南宮神社は鍛冶屋の神様としての性格は明瞭ですし、境内には東浪見海岸から運んだ砂鉄を含む黒い砂が敷き詰められていました。
今回、山内四社も砂鉄関連神社かとの疑いから四社の境内を調べてみることにしました。

すると旧和泉玉前神社であった飯縄寺、中原玉崎神社、綱田の浅間神社、椎木玉前神社の境内も南宮神社同様に、黒い砂鉄の砂が敷き詰められているのをわたしは手持ちの磁石で確認しました。磁石にびっしりと砂鉄が吸いつきます。
とりわけ浅間神社は小高い山全体が砂鉄の山の雰囲気があり、夷隅川河口海岸(和泉浦、日在浦)は戦中から戦後のある時期まで砂鉄産業があった場所ですから、古代においてもこの四社が砂鉄産業の守護神であった客観的な条件はあります。
上総十二社と砂鉄製錬とは密接な関係があることが浮かび上がってきました。

常識的に考えれば神武天皇の故郷が外房であるはずがありません。
それなのになぜ一宮玉前神社は神武の母・玉依姫を祭り、神武四兄弟や親族一同が東浪見海岸で年に一度の再会を祝すのか、かねがね不審に思ってきました。
今年、上総十二社を順にめぐってみて、ようやく結論らしきものがおぼろげながら浮かんできました。
来週からは個別神社の話ではなく、上総十二社全体についてあれこれ考えたことを述べてみたいと思っています。

  

★上総十二社(8)和泉玉崎神社 

 
    飯縄寺で神輿(ミコシ)を高く掲げて出発する和泉区の氏子たち

今日は真夏のような日差しでした。照りつける太陽の下、上総十二社祭となり、いすみ市岬町和泉区の神輿も釣ケ崎で催行される浜降り神事(潮踏み神事)に参加します。
その前に旧和泉村内を一巡するので何有荘前を通過し、ぐるっと回って飯縄寺で大休憩となります。
神社の神輿がお寺に立ち寄るのは全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。
上総十二社の中でも和泉区だけの行事です。

さて表題の和泉玉崎神社は現在は存在しません。
和泉の氏子が担ぐ神輿は和泉区になく、隣の中原区にある中原玉崎神社境内にあり、そこからはるばる巡り巡って飯縄寺に来るのは、かつて飯縄寺=和泉玉崎神社だった過去があるからです。

飯縄寺が玉崎神社の名前を返上したのは明治維新の廃仏毀釈運動の結果でした。
寺院=神社という存在は許されず、飯縄寺は寺院の道を選び、参道にあった石の鳥居も脚だけ残して撤去されました。
しかし、檀家=氏子みたいな土地柄ですから、建前上は寺院であっても江戸時代と同じようにわれらが玉崎様の境内だという安心感があるのでしょう。
飯縄寺に神輿が到着すると待ちかねたように歓迎の大太鼓が鳴り響きます。

飯縄寺は「波の伊八」の彫刻が有名で、天狗の寺とも呼ばれており、ご本尊は飯縄大権現様でカラス天狗の親玉みたいなお姿をしています。
「権現」というのは「仮の姿」という意味で、変幻自在にそのお姿を変化させます。
飯縄様はある時は海の上で荒れ狂う龍の姿になり、ある時は海の恵みの女神・豊玉姫として姿を現します。

飯縄寺の「波に龍」の彫刻は大変見事なもので、豊玉姫の正体は『日本書紀』本文では龍とされています。( 『古事記』の鮫説が一般に良く知られていますが )
江戸時代の和泉区の人々にとって飯縄様=豊玉姫様という考えは何の違和感もなかったのでしょう。
飯縄寺では現在も直径30cm程度の石製球体のご神宝を祭っており、心の汚れている人が来ると曇り、きれいな人ならばくっきりしているとご住職は言います。

和泉玉崎神社の神輿には海の恵みの女神の神輿の性格が色濃いことも指摘しておきましょう。
まず屋根がゆるやかなカーブを描き、あでやかな赤に彩られて女神を暗示し、
飾紐もまるで五色の羽衣のようにゆったりと組まれてなんとも優雅な趣(オモムキ)があります。
屋根の上にある飾りが、多くの神輿は鳳凰であるのにここは宝珠です。

いすみ市の行元寺には伊八の手になる「波に宝珠」という欄間彫刻があります。この構図を踏まえて北斎が富士山を描いた名画「神奈川沖裏波」が生まれました。
波間に浮かぶ宝珠とは海の無尽蔵の恵みを表します。その宝珠が和泉玉崎神社の神輿に乗っています。
屋根の宝珠は神輿が揺れるたびに波間に浮かぶ宝珠のごとく揺れるのは、欄間彫刻「波に宝珠」と同じモチーフと見て良いでしょう。
豊玉姫による海の恵みを象徴しているのは言うまでもありません。

神輿の屋根に付いている神紋も印象的です。
左右の側面はありふれた三つ巴紋ですが、正面は日紋、後ろ正面は月紋で、この神様が日月の神様であることを象徴しています。
太東埼からは太平洋から昇る日月を望むことができ、日月の運行が世界を支配しています。
日月の微妙な差で海の干満の差が生まれ、海で暮らす人々の暮らしに決定的な影響を与えました。

今日ではもう和泉地区は漁村というよりも農村という風情になっていますが、神輿とその巡幸を見るとかつてこの地区は海に大きく依存し、海の恵みに感謝する暮らしがあり、そのための祭だったことが偲ばれます。

  

★上総十二社(7)谷上神社 


   いすみ市岬町谷上地区に鎮座する谷上神社

上総十二社の中でも神楽舞台を持つ神社は一宮の玉前神社とここ谷上神社の二社だけですから、昔から立派で豊かな、そして格式のある神社だったことがわかります。。
画像手前が神楽舞台で、谷上祭囃子保存会により「谷上の神楽」が演じられ、東浪見海岸の浜降り神事に神輿が参加します。宮入りの際にも上演され、それは一宮玉前神社の神楽よりも古式を保っているといわれますから、一宮玉前神社とは深い関係があるようです。
かつて大正時代までは祭事に神馬も参加していたとそうです。歴史の古い神社ですが、創建年代は不詳です。

夷隅川の支流・椎木川の上流部に当たり、山間の静かな村落の中にあり、社地は鬱蒼たる山を背景にし、社殿がすべて朱に塗られているのが印象的です。
一宮・玉前様の総黒漆塗りの神社と好対照をなしています。実際には朱塗りというよりも赤い防腐剤かと疑われるのが興ざめですが、予算面でやむ得ないことでしょう。

ご祭神は『岬町史』(昭和58年)によれば、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)。
この神様は天照大神の岩戸隠れの際、祝詞(ノリト)を読み上げた神様で、あらゆる神主のご先祖、中臣氏(藤原氏)の祖先神にあたります。
祝詞の神様をなぜここの集落で祀っているのか、何のご利益があるのか、はなはだ疑問です。

かつては「矢神神社」と称しました。するとご祭神は武神だと考えられ、房総に多い香取・鹿島神宮の流れかとも想像できます。それにしても両社とも藤原氏には縁が深い。
藤原氏の一派が古代にこの集落地域を開拓し、藤原氏の祀る神を祀ったと考えるのが妥当なのでしょうか。由緒や記録がまったくないのは残念なことです。
社地には井戸があります。古代において飲料水の確保は生存の条件ですから、水が湧き出る場所が聖地として選ばれた可能性は否定できないでしょう。

もうひとつ疑問がある神社です。
上総十二社祭りは玉依姫の眷属(親戚筋、一族)が東浪見海岸に年に一度集合して再会を祝う祭りだとされていますが、アメノコヤネは玉依姫とは無関係です。
無関係の神様がなぜ他の神様と一緒になってお祭りをするのか、だれもわかりません。
無関係の神様が混ざっていると指摘しているサイトもありません。(たぶんこのブログが初)

考えられることは椎木の玉前神社との関連です。
谷上地区と椎木地区は椎木川の上流と下流にあり、河川が物流の大動脈であった時代には両地区の経済的結びつきは今よりもずっと強く、椎木玉前神社の祭礼に谷上神社も参加することが恒例になって今日に至るのではないかと思っています。

さらに飛躍して考えると両地区の人的交流、つまり山間の村とふもとの村との婚姻関係が進んでいたのではないかと推測しています。
物資の流通に若者が動員されるのは当然のことで、その集積地の娘さんと知り合って結ばれるなんて房総では良くある話です。

さらに推測を重ねると、外房地区でも「いすみ・一の宮」地域には「鵜沢・ウザワ」姓の方が多いという特徴があります。南房総や内房地区にはほとんど見当たらない姓で、全国的に見ても鵜沢という一見するとありふれた姓は実はめずらしいのです。
その鵜沢さんが谷上地区には多い。5軒に1軒は鵜沢さんでしょうか。
上総十二社にはウガヤフキアエズをご祭神とする神社が多く、鵜(ウ)はこの海岸に多い鳥です。
極端なことを言えば、上総十二社祭りとは「ウガヤフキアエズ祭」と言えなくもありません。その祭に谷上の鵜沢さんたちが「鵜つながり」で参加するのは自然の流れだったのでしょう。

谷上地区の姓には「白鳥さん」が多いのも気になります。
白鳥は日本武尊の化身であり、鵜羽神社や茂原山崎の二宮神社も日本武尊の関連神社でした。
上総一の宮や上総二の宮、そして岬町和泉も白鳥伝説があります。
上総十二社祭りは「玉依姫」伝説が正面に出ています。しかしその裏には「日本武尊」伝説が潜んでいます。
日本武尊伝説は古代砂鉄精錬と関係ありますが、それは置いておきましょう。
谷上神社が何の根拠もなく十二社祭りに仲間入りしたのではなく、砂鉄関連事業でつながっていたのではないでしょうか。南宮神社のように。
歳月は流れ、あれこれの事情も背景もみな判らなくなってしまいました。

9月13日の玉前神社例大祭の日、谷上神社の神輿の宮出しは12:30。東浪見海岸(釣ケ崎)で潮踏みし、椎木玉前神社の神輿とともに椎木商店街を練り歩き、宮入は20:30。8時間におよぶロングコースです。
椎木に寄らねばおよそ半分の行程ですむのですが、それだけ谷上集落は椎木集落との関係が昔から深かったことの反映だと思います。