★農業用逆サイホン式水路 

 

いすみ鉄道・総元(フサモト)駅から夷隅川方面に車で南下している途中、大きな橋の手前、左にあるコンクリの構築物に眼がとまりました。なんだろう?

車を停めて1.5mほど這い上がると、そこは水田が広がり、構築物(画像B)の真ん中からこんこんと水が湧きだしておりU字溝水路に流れ出ておりました。
これは明らかに農業用水路ですが、なぜコンクリ構造物から水が湧きだしているのか判りません。
周囲を見渡すと、道路の反対側にも似たような構造物(画像A)を発見しました。
そちらに渡って点検すると奥のトンネル状の水路から水が流れ込み、構造物の中に消えていきました。

それで判りました。画像のAの構造物から、手前のBの構造物へと水が流れているのです。
ABの間には道路があるので水路は道路の下を通っているはずです。
このような水路を「逆サイホン式水路」あるいは「伏越し式水路」と 呼びます。

金沢の兼六公園にある噴水は動力を使っていない自噴式で、背後の山から導水しており、その水圧で噴水となっていると何かで読んだ記憶があります。
江戸の井之頭公園から江戸市内までの導水路の一部は神田川の上を懸樋(カケヒ)で渡っておりました。それが「水道橋」の語源です。
江戸時代にはそのような導水路(=水道)を造る土木技術がほぼ完成していたのですからたいしたものです。

ここの逆サイホン式導水路がいつできたのか、コンクリ製ですからそんなに昔の話ではないでしょうが、逆サイホン式という技術そのものは江戸時代には確立していた技術です。
そんな技術が目の前で見られたことが大発見のように思えてうれしくなりました。
地元では見慣れた風景なので気にも留めないのでしょう。
ハイキングコースなのだから、看板の一つでもあれば良いのにと思いました。

夷隅川はここから10数メートル下を流れています。目の前に川があってもここの台地は水田にはなりません。
しかし水田を作り稲を育て米を食べたい、米を都市に供給するのが農家の使命だという情熱からこの農業用水路を建設することになったのでしょう。
どこか上流から川の水を引き込んで延々と網の目のような導水路を人力で構築してきたはずです。
現代ならば電力を使ってのポンプアップが可能ですが、そうではないことがこの用水路の起源の古さを物語っています。

先週アップした 河伯神社 には関東大震災で破壊された用水の復興記念碑がありました。
このような水路があちこちで破壊され、水田の望みが消えかかったのでしょう。
外房地域では場所によっては1mの土地の隆起がありましたから、ここ山間部でも相当な被害があったことが判ります。忘れてはならない事実です。
 

 

スポンサーサイト

★大多喜の河伯(カハク)神社 

 
 苔むした玉垣が古い歴史を語る大戸452番地の神社

いすみ鉄道・総元(フサモト)駅を降り、南へ少し歩けば遠くに神社が見えてきます。
それが河伯神社で、河伯を名乗る神社は全国を見渡してもめずらしいものです。

「河伯」とは川の神様のことで、一説によればカッパの語源だといいます。
カッパは普通は河童と書き、妖怪の一種と言いますか、神様としての格は低い。
わたしはカッパの語源を「川+ワッパ」→カッパとにらんでいます。
というのも昔の武士が「この小ワッパめ!」と言ったように、ワッパはワラシ、ワラベなどと同じく児童を指す言葉ですから、小童でコワッパ、河童だとカワワッパ。これがカッパに短縮されたのだろうと一人で合点しています。

カッパを気取って河伯と書く場合もあります。だから河伯神社を地図上で見つけた時、カッパ神社と読むのかと思い、どんな立派なカッパ伝説があるのかと訪ねてみると、カッパではなく「カハク」と読み、カッパ伝説などないと聞いて少しがっかりしました。
カッパを祀っているのではなく、川の神様を祭った神社でした。

海の神様はオオワタツミ、山の神様はオオヤマツミ。
では川の神様は? 
不思議なことに日本神話には川全般を統括する「オオカワツミ」ともいうべき神様は存在しないのです。

水がなければ生きて行かれませんし、水田は成り立ちません。
だから昔の人は水源をとても大切にしてきました。
その水源を守る神様が「水神様」で、これはもう全国各地に無数に存在します。

では、水神様の本名は?と聞くとこれもまた答えに詰まる人が多いことでしょう。
偉い人の名前は本名で呼ばないで、先生、部長、社長、陛下などと肩書で言うのが日本文化ですから、神様の名前を知らないのはむしろ当然です。
水神様の多くは、罔象女命(ミズハメノミコト)=(ミズハノメノカミ)を祀っています。

一方、全国的に知られた水の神様は京都の貴船神社。
ご祭神はタカオカミ、クラオカミというセットの神様で、略せば「オカミ」さん。
ミズハメノミコトとは同体ともいわれています。
ただ貴船神社は水そのものと水の働きを神様、神威としており、特に川の神様ではありません。泉だって井戸水だってコップ一杯の水だって「オカミ」さんの領域です。

つまり水源の神様、水の神様、詳細は略しますが分水嶺の神様、河口(水門・ミナト)の神様はいるのですが「川上から川下まで管理する川の神様」は見当たらないのです。 
だから大多喜の河伯神社の存在は極めて珍しいといえます。
では大多喜の河伯神社は夷隅川をご神体にしているのでしょうか。
何という神様を祀っているのかと何人かの地元の人に聞いてもわかりませんでした。

河伯神社境内に立派な石碑がありました。苔むしており小さな文字で読みにくいのですが、関東大震災で破壊された農業用水路が県と村人との総力で再建された記念碑であると読み取れました。
用水路の竣工記念碑が川の神様=河伯神社の境内にあるのは実にふさわしい話です。

あるいは河伯神社のご祭神はセオリツヒメかなと思います。
セオリツヒメは早瀬や滝の女神で、あらゆるマガゴト(災いとその原因)を流しさってくれます。
転じて護岸鎮守の神様になる場合もあるようで、神話ではなく古い祝詞(ノリト)にだけ登場する神様ですからクロウト好みのマイナーな神様です。

夷隅川とともに暮らしてきた村人が無病息災と村の繁栄をセオリツヒメに祈願してきたとすれば、これはもうすごく古くからある神社なのかもしれません。
カッパ神社などと疑ってすみませんでした。

  

★夷隅(イスミ)川の沈下橋 

 
   だいたいいつも橋の上を川の水が流れている

沈下橋とは増水時には水面下に沈んでしまう橋を言います。
だから画像のような、いつでも水面下にある橋を正確には沈下橋とは言わないのだろうが、では何と名付けるのか思いつかないので沈下橋の一種ということにします。

画像の説明をしましょう。
夷隅川のこちらとあちらの間にコンクリのやや湾曲した構築物があります。
対岸中央の一見すると滝のように見えるのは道路で、今のカメラの立ち位置から構築物の上を足首まで水に濡れながら渡れば向かい側の道路に繋がります。
道路の先には畑があります。
つまり、この水面下のコンクリ構築物はこちらの道路とあちらの道路を結ぶ沈下橋です。
水量が少なく、流れが激しくない場合、軽トラで渡れるそうです。

この奇妙な橋を作ったのは国でも県でもなく、町当局でもありません。
自然にできたというとヘンですが、こちらに住む農民があちら側にある自分の畑に行く便宜のためにできちゃったようです。
夷隅川は2級河川ですから県の管轄下にあり、勝手な構造物の建築は許されません。
そんな法令を知らない人が川を渡るために石を置いたのが始まりで、しだいにここまで成長してしまったのでしょう。
もともとここは水深が浅い場所ですし、大雨の時は沈下してしまうので、流れをせき止めるわけでもありませんから、県も目こぼししているようです。

かつて都会の若いライダーがここでオートバイを洗ったり、車を洗う人までいて迷惑したようで、沈下橋に至る道には「車両通行止」の手描きの看板が出ています。
そういうわけですから、ここがどこか場所は秘密ということにしましょう。

この沈下橋がなければ大変な回り道をしなければ対岸の畑に行けません。
それが毎日ではとても大変不便だからという農民の知恵が生み出しためずらしい沈下橋です。

 

★本多忠勝の桑名転封と里見家滅亡 

 
 小さな五輪塔型墓石。中央に忠勝公、右側に奥方様、左側に次男・忠朝公。
 大多喜町、良玄寺

1590年、秀吉の小田原の北条征伐によって天下統一は事実上完成します。
この時、徳川四天王の一人である本多忠勝は房総半島を制圧し、そのまま戦後処理に当たり、1591年に新大多喜城を築城して初代大多喜藩主となります。藩政のみならず房総半島全体に睨みを利かせ、外様大名である安房の里見家を監視する役目がありました。

そのため新大多喜城は防衛に適した山城として築城され、もしも北条の残党と里見が結託して房総が再び戦乱の海に飲み込まれたとしても耐えうる堅城でした。
しかし忠勝は政治家としても優秀で、治安の回復、民生の安定に努め、その後の房総半島に不穏な動きは見られなくなります。

1600年の関ヶ原では里見氏も徳川に加勢して功を挙げ、茨城県に5万石加増されます。
これで房総半島は安泰だという判断が幕府にあったのでしょう。翌1601年に忠勝は三重県桑名に転封を命じられます。
忠勝を房総に埋もれさせておくのはモッタイナイ。危険な場所に押しやり、もう一働きさせようという幕府首脳の判断があったと思われます。

桑名は東海道の要衝で、当時の東海道唯一の海路(桑名-宮宿)の港町でもありました。
伊勢神宮にも近く、昔から領主が度々変わる不安定な地域ですから、この地域の安定的確保は幕府にとってやがて来るであろう大坂方との最終戦争に不可欠な条件でした。
その火中の栗ともいうべき土地には忠勝が適任となったのでしょう。

忠勝は拝命後、直ちに堅固な城を桑名に築いて防衛の拠点とするとともに、港湾と街並みを整備します。
もともと桑名は海の幸、山の幸に恵まれた土地であり、港湾の整備も相まって海上輸送ルートの拠点都市、徳川方の重要都市として栄えていきます。

1609年に忠勝は隠居し家督を長男・忠政に譲り、翌1610年に63歳、桑名で永眠。墓所は桑名市の浄土寺にあります。
大多喜は次男・忠朝が守っており、浄土寺からの分骨が大多喜の良玄寺にあります。
左の忠勝の肖像画像は良玄寺蔵

臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺しています。
忠勝の脳裏にあったのは、――主君家康のためにどんな難事をも引き受けようとして常在戦場の心構えで大多喜城築城、桑名城築城を果たしてきた。家康様のために一生を捧げることができた自分の人生は幸福であった。「侍」として死ねることは満足である。――ということでしょうか。

やがて1614年大坂冬の陣、1615年夏の陣で豊臣は滅亡して徳川の覇権が確立します。
この戦争で桑名が重要な兵站基地となったのは言うまでもありません。
忠勝は武勇の人として知られていますが、築城家としても民政家としても有能であったことはもっと世間に知られて良い事実でしょう。
桑名藩歴代藩主の中でも第一の名君は忠勝だそうです。先見の明があり、自分の果たすべき役割をよくこころえ、私欲のない忠義の侍でした。

その後の里見氏について補足します。
忠勝が桑名に転じて5年後の1606年、幕府は房総の政治情勢のより一層の安定化のために代替わりした里見氏の若き当主を江戸城に招きます。
里見の若殿様は将軍・徳川秀忠の立ち合いで元服し、秀忠から一字を貰い受けて里見忠義と名乗ります。里見氏の未来は順風満帆のように思えました。
ところが大阪冬の陣直前の1613年に里見氏は改易となり、山陰の倉吉(鳥取県)へ送られ事実上の幽閉の身となって大名としての里見家は滅亡します。
改易の理由は大久保長安事件に連座などさまざまに語られています。
私が思うには若い当主に統治能力がなかったからでしょう。殿様が1か月に375人もの民を刀の試し切りで殺すなど尋常な精神ではありません。
里見家の内情は大多喜の本田忠朝を通じて逐一幕府首脳に伝わっていたはずです。

安房・館山は江戸湾防衛の重要拠点であり、対大阪戦争を万全の準備で実行するには安房を外様の里見家には任せられないとして領地の召し上げとなったのでしょう。
名門の御曹司としてままならぬ世に強いストレスを感じていたのか、あるいは領土回復の野心があったのか、それとも根っからのバカ殿だったのか。
1622年、29歳の里見忠義は鳥取・倉吉で病没し、忠臣八人が殉死する事件がありました。
この事件にヒントを得たのが滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』であり、房総各地を舞台にしておりますが、当然のことながらすべてフィクションです。

本多忠勝と里見忠義、同時代を生きた人の性格と能力の違い、生き方の違いが大きな運命の違いとなって現れた事実には粛然たる思いがいたします。

 

★オトメ川、オトメ山、オトメ峠 

 
   大多喜:オトメ川公園

全国にはオトメ川、オトメ山、オトメ峠など“オトメ“と名付けられた地名があります。
オトメを乙女と書くと、何やらうら若き美女の悲劇的な話がありそうです。

箱根の乙女峠は、仙石原のトメという名の女性にちなみます。
父親は病弱で根臥せっていたためオトメさんは峠の地蔵堂に百日参りをし、「わたしの命にかえてもオトッツァンが元気になりますように」と願をかけておりました。
ところが人知れず百日参りをするのは難しいものです。夜な夜な出かけるのは男でもできたのだろうといううわさ話が村中に広がり、病床の父親の耳にも届きました。
ある雪の晩、娘が出かけた後、父親は娘の相手をとっちめるために娘の足跡をたどります。そして地蔵堂の側で倒れている娘を発見しました。娘の足跡は地蔵堂で往復しています。さてはここで密会していたのかと堂守を詰問したところ、「父親の病気回復祈願のお参りに毎晩来ており、今晩が満願の日でさっき帰った」と知らされます
だから最近体調が良くなったのかと悟り、娘を信ぜず「親に隠れていちゃついていた罰だ」と倒れている娘を介抱しなかったことを悔やみました。
娘のもとに取って返した時はすでに遅く、娘は息絶えていました。娘の願掛けは成就してしまったのです。
村人は心無いうわさをしたことを悔やみ、地蔵堂への峠を誰いうとなく「乙女峠」と言うようになりました。

夷隅川は大多喜では「オトメ川」と呼ばれます。どんな話が伝わっているのでしょうか。
残念ながらそのような悲話は伝わっていません。
オトメ川は「御禁止川」と書きます。つまり川漁禁止の川という意味です。
町の広報などによれば、お殿様が参勤交代の際に夷隅川の鯉を将軍に献上するためにここを禁漁にしたそうです。「むらさき鯉」を檜のたらいに入れて生きたまま江戸に運んで献上したそうです。

しかしわたしはこれは庶民を納得させるための表向きの理由であって、オトメ川の真の目的は防衛上の理由だと睨んでいます。
夷隅川は外堀として城防衛の重要な施設です。攻城側としては夷隅川を突破しなければ城に迫れません。夷隅川のどこが一番渡りやすい場所か、浅いか深いか、それを川に入って実地に調べることを「瀬踏みする」といいます。
実際、三口橋付近は干天時には渡りやすい場所になると考えられます。
敵側のスパイが漁師に紛れて瀬踏みすることを避けるために一律に入漁禁止としたものでしょう。
「将軍様に献上するから川釣りは禁止」という口実を考えた人物は初代城主・本田忠勝かどうか記録はありませんが、なかなかの策士です。人の良い大多喜の人々はずっとそれを信じてきたのですから。

さて「オトメ山」ですが、これは東京新宿区に、「区立おとめ山公園」があります。
本来は「御留山」であり、将軍家の鷹狩場だったために一般人立ち入り禁止となっていました。

オトメ川、オトメ山が立ち入り禁止を意味するとすれば、オトメ峠も立ち入り禁止の峠の意味だと解するのが妥当でしょう。
奈良時代から東海道は御殿場→乙女峠→湯坂道→湯本コースが本道でした。
江戸幕府が箱根八里を切り開き京・大阪への最短コースを設定すると、この乙女峠コースは廃道となり、「御留峠」となります。
とは言っても昔からの道ですから関所破りに使われ、数々の捕縛者もあったようです。

乙女峠のオトメさんの話は、そのような厳重な立ち入り禁止地区の地蔵堂にお参りするという緊迫感がありませんから、どうも後世の創作民話のような気がします。

オトメ川、オトメ山、オトメ峠どれも乙女とは無関係で、立ち入り禁止を意味する「御留め」が真相だったという味もそっけもない結論でごめんなさい。