★最近買った優れもの――珪藻土の除湿スティック

カラリ
   商品名、『カラリ』。1cm幅、5cm長、4本で300円。

キッチンの砂糖や塩はポットの中で塊になりがちです。
このスティックを1本、2本入れておけば、砂糖も塩も固まってしまうのをかなり防げます。

『カラリ』は四角いプレートとか、いくつかタイプがあり、消費者の使い勝手を考えています。
珪藻土ですから、汚れたら水洗いが効きます。
湿気を吸い取り、目いっぱいになれば日光に干せば回復します。

珪藻土のスプーンとか、珪藻土のポットなども最近は売り出されていますが、ちょっと高価。
安価な画像の商品でとりあえず満足しています。

★最近、何有荘前によく来るシジュウカラ
         シジュウカラ2

見上げて撮ったから、全体像が良く分かりませんね。正面横向きです。
スズメとほぼ同じ大きさで、頭と首が黒。そして首から腹の真ん中にかけて黒い模様。
この模様を「黒いネクタイ」と称します。
頬は白。羽は緑色がかった白黒でなかなか美しい。

都会地でも緑のある公園で良く見かけ、川崎に住んでいたころからのおなじみさんです。
ツピーッ ツピーッ ツピーッと良くさえずります。
小鳥にも縄張りがあり、昨年まではほとんど見かけなかったのに 最近よくやって来ます。

200mほど離れた電線には数十羽のムクドリがよく止まっていて、かしましい。
あの集団はいつもそこどまりで、何有荘前には来ません。
集団でやってくると迷惑なので、縄張りを拡張しないようにと切に願っています。

シジュウカラの仲間にはコガラ、ヒガラ、ヤマガラがいます。
このうち、ヤマガラのお腹は赤くて、一番の美人のような気がしますが、あまり見かけません。
もう少し山林ぽい場所が好きなのでしょう。

今、一番大声で鳴いているのはオオヨシキリ。
姿が見えないけれどウグイス、コジュケイ、ホトトギス。
今年からシジュウカラが加わり、にぎやかになりました。

何有荘前の大正堰には、天気が良いと海岸方面からアジサシという白い鳥が飛んできて、狙いをすまし、ダイビングして魚取りをします。
今日は雨模様なので来ていません。かわりにツバメが超低空飛行で飛んでいます。
今日はこれから大雨になるとの予報でした。
昔からの言い伝え通り、「ツバメが低く飛ぶときは雨」 です。


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★最近読んだ本『猟師の肉は腐らない』

      本
            新潮文庫 小泉武夫著 680円

東京の大学の「先生」と福島・茨城・栃木にまたがる八溝山地の奥地で愛犬クマと自給自足の生活を送る猟師の「義っしゃん」の心の交流の物語。
「先生」とはおそらく著者の分身でしょう。著者は大学で発酵学や食文化の研究者。
「義っしゃん」は著者が出会った数多くの人々を総合化し理想化した人物だろうと思います。

『猟師の肉は腐らない』というタイトルにひかれて購入しました。
電気やガス、水道がなくとも捕まえたウサギの肉を何か月も腐らせずに保管するマタギの知恵がタイトルで示されています。

久しぶりに再会した先生と義っしゃんは、賢く勇敢な猟犬クマをお供にウサギを狩り、魚を獲り、虫を食らい、ヘビを喰い、時には木の皮だって食べます。五右衛門風呂を沸かし、毎晩宴会をひらいて旧交を温めます。
その狩りの様子や調理の仕方が丁寧に描かれており、まるでワイルドライフの手引書のよう。
その味は至福の味だそうで、生き物の命を頂くのだから、少しも無駄にはしないという生き方が描かれています。

先生はヤマカガシに手を食われ、あしながバチに刺されますが、マタギの知恵で手当てされて事なきをえます。
圧巻はラスト近く、猟犬クマと手負いのイノシシとの死闘。クマの健気さに思わずほろりとしてしまいます。

近所にスーパーなどなく、作った作物は年貢として領主に採られていた時代、人々は何を食べて生きのびてきたのか、なるほどなぁと納得します。
貧しいことが不幸であるとは限らない。
義っしゃんは、厳しくとも美しく豊かな自然に囲まれて好きなことして生きてきて幸せだぁと言います。

わたしたちが便利さ、効率、能率、清潔、現金を求めた結果、失ったものの多さに驚きます。
考えてみればほんの50年ほど前まで、NHK「ひよっこ」の時代までは田舎暮らしが普通でした。

いすみ市で知り合ったHさんは昔の少年で、今でもマムシを捕獲してマムシ酒だとか、ハチと闘いながら蜂の子を捕獲して炒めて食べるとか、少年の心を持っています。
若い人でその技術を引き継ぐ人はいないものかしら。
それは縄文時代から延々と続く日本の農山村、漁村の文化と知恵とを引き継ぐ貴重な作業なんだけれど。


 
 

★江戸防衛の高速運河

小名木川
  Wikiより転載:小名木川全体の空中写真。西の隅田川から東の旧中川を直線で結ぶ。

2月の中頃に腰を痛め、ベッドにいる時間が増えました。
暇つぶしに寝転んで読んだ本が知人から借りた『日本史の謎は地形で解ける』(竹村公太郎 PHP文庫)があり、目からウロコでおもしろかった。

家康が秀吉の命令で北条氏の旧領を与えるからと江戸に移されたのは1590年のことでした。
江戸に着いた家康家臣団は、そのあまりにも貧しくひどい景色に激高したと言います。
江戸城のすぐ前は海で、西も東も広大な低湿地帯で人が住む場所はありませんでした。
難攻不落・鉄壁の守りの大阪城とは地理的条件は雲泥の差です。

そのころはまだ秀吉は健在だったし、東北の伊達氏は天下をうかがう気配がありました。
豊臣・伊達・南蛮の反徳川勢力が一斉に江戸を攻撃すれば防ぎようがない「死地」でした。
家康は華麗な居城を作るのは後回しにし、江戸防衛の三つの巨大プロジェクトを命じました。

一つ目は江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子方面へと付け替える「利根川東遷工事」です。
これは江戸を洪水から守るとためと言われていますが、竹村氏は本当の目的は江戸防衛の軍事工事だった言います。
南下する伊達軍を坂東太郎(利根川)でくい止めるのが隠れた狙いだったといいます。

外房九十九里浜の中央に東金市があります。
ここを家康は鷹狩と称して二度訪れており、その経路は「御成街道」といいます。
その道路は昼夜兼行で3日でできた、とうわさされる突貫工事でした。

江戸から東金までほぼ直線の御成街道は、家康の鷹狩のためと称していますが、たった二度の鷹狩でもう東金には来なかったのは権力者の気まぐれでしょうか。
低湿地帯を何万という軍勢が通過するのは不可能です。
竹村氏は徳川軍を素早く房総に展開するための軍用道路だったといいます。
武田信玄が建設した棒道(直線道路)と同じだと考えると良いでしょう。

そして画像の小名木川開削工事です。
当時、ここは低湿地帯で、当時の海岸に沿って直線の運河を作ったのは、船橋の塩を江戸に運ぶためと称していますが、大量の軍事物資を船で房総へ運ぶことが真の目的だったと言います。
低湿地帯の水はけを良くし、掘削でできた土砂は埋め立てに使う一石四鳥の計画でした。

家康が江戸に着任して真っ先に行った工事が、利根川東遷、御成街道、小名木川の工事でした。
それは江戸防衛の必要最低限の緊急工事だったともいえるでしょう。
江戸城と城下町が本格的に整備されるのは1615年豊臣氏が滅亡し、世の中が落ち着いてからでした。

以上、竹村氏の説をかいつまんで紹介しました。
家康の江戸防衛の深慮遠謀に感心した次第です。
わたしは民生安定の土木工事だと思っていましたから、裏には軍事目的があったとは驚きです。

竹村氏は触れておりませんが、江戸湾入口にある館山藩(里見氏)が些細なことで山陰へ追い出されて滅亡するのは大坂夏の陣の直前、1614年のことでした。
家康が関東を留守にしたとき、外様の里見氏が謀反するのを事前に防ぐ目的だったのでしょう。

歴史が専門ではなく、土木工学が専門の竹村氏から見た日本史の姿は、どの項目を見ても「そういう見方が成立するのか!」という驚きの連続でした。


 

★節分あれこれ

節分ザル
     画像は中央市豊富郷土資料館HP(→こちら)から転載

暇つぶしに 『目からウロコの民俗学』 という古本を読んでいたら、いすみ市の北隣町、長生郡睦沢町の昔の節分の行事が記載されていました。

――ヒイラギや豆の木を燃やした火を使い、焙烙(ホウロク=素焼きの皿)で豆を炒り、神棚に供えた後、「鬼は外、福は内、鬼の目玉ぶっ潰せ」と言いながら家中を清める。――
最近は鬼の面をかぶったご主人が鬼に扮し、豆をぶつけられる役回りになっていますが、
もともと、家にすくった鬼は目に見えるわけがない。
だから、家中、家の隅々まで豆を撒いて清めるのが本来の豆撒きなんでしょうね。
なにせ、豆は ”魔滅 マメ” ですから、小豆より大豆の方が強力そうです。
家に住み着いた不幸の根源=鬼を追い出し、立春の日をすがすがしく迎える伝統行事でした。

さらに、―――年齢の数だけ豆を食べると厄を逃れる――
昔は0歳児というのはありませんでした。誕生と同時に1歳でした。
また、誕生日を祝う習慣もありませんでした。
家族全員、いや日本中の人々が節分を区切りとして一斉に1ツ、齢を重ねました。

現代社会では誕生時は0歳から始まり、誕生日ごとに年齢を1ツ加える「満年齢」が基本ですから、節分で食べる豆の数はいくつなのか混乱があります。
今年、何歳になるのか、その数だけ食べるのが現代風でしょうか。
もっとも、私ぐらいの年齢になるとその数の豆を食べるのは大変ですから、1粒で10歳としています。

睦沢ではさらに独特の習慣がありました。
――大きくて目のあらいザルを逆さにして竹竿の先にくくりつけ、屋根の上に載せておく。
翌朝、「鬼がかかっているぞー」と叫び、子どもたちをおこす――

いすみ市でもそんな習慣があったのかと年配の方に訊きましたが、知らないとのことでした。
睦沢町の歴史民俗資料館の話では、「皆無とは言えないが、もうそのような習慣はないでしょう」 とのことです。

調べてみると他にもザルを掲げる習慣があった地域がありました。
西隣りの大多喜町西畑地区でも竿につけた目のあらいザルを屋根におく習慣があったといいます。
画像をお借りした山梨県中央市豊富地区も郷土資料館のHPに掲載されていました。
どうやら鬼は一つ目小僧のようで、目が多いザルを見るとおびえて逃げ出すと考えたようです。

睦沢町の続きです。
1年の区切りである節分の夜はこの1年の天候・吉凶占いも豆で行いました。
――12か月に見立てた12個の豆を囲炉裏の炭火におき、黒くなれば日照り、白い灰になればシケ、転がってしまえば強風だという。その焦げ具合を見て稲の作柄を選ぶ。ワセ、ナカテ、オクテの三通りで判断して種を撒いたという――
節分が神事だった頃の名残でしょう。
今では節分の豆は、炒り豆を購入するのが普通ですから、このような豆占いはできませんね。

もうみんな昔の習慣となり、知る人もいなくなりました。
今では節分というと、どこのスーパーでも恵方巻の大宣伝。
子どもたちは節分といえば恵方巻を思い出すことになるのでしょう。


 
 

★1月25日は 『八百屋お七の火事』の日

         八百屋お七
    火の見櫓(ヤグラ)のはしごに登り、半鐘を打つお七

先だっての糸魚川大火災は中華料理店から出火し、折からの強風にあおられて飛び火し、甚大な被害となりました。
死者が出なかったのは不幸中の幸いで、糸魚川の消防・警察・行政の連携が良かったのだと思います。

現代社会では失火の刑事罰はたいしたことなく、中華料理屋のご主人は死刑になることはありません。自宅が消失しても、火災保険に加入していなかった人は丸損です。

江戸時代は放火の罪は殺人罪よりも重い罪でした。
1683年1月25日、当時の暦では天和二年師走28日正午ごろに出火し、鎮火は翌日の朝だったそうです。大火の死者は3500人にもなり、俗に「八百屋お七の大火」とも呼ばれています。
翌年、お七は放火犯として大森の鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑となります。

鈴ヶ森の近くに勤めていましたから刑場脇を通ることが何回かありましたが、今では立て札一つが立っているだけで、刑場だった面影はありません。完全に市街地になっています。

しかし天和の大火はお七の放火ではありません。駒込の大円寺から出火とされています。
本郷の八百屋の娘・お七はこの大火で焼け出された被害者で、一家そろってお寺で避難生活を送っていました。
そのお寺の寺小姓と良い仲になりましたが、やがて本郷に八百屋が再建されると、隠れた恋ですから二人は別れねばなりません。
悶々と暮らしたお七は、もう一度火事が起これば恋しい人に会えると思いつめます。
そして放火に至るのですが、それはボヤで消し止められました。
ところが放火した現場を見られたために逮捕されます。

当時も少年法みたいのがあって、15歳未満なら減刑になるので、奉行所は「本当は14歳だろう」と助け船を出したのに、「16歳だ」と言いはったので、放火犯=火あぶりの掟に従った判決になりました。

この「実話」を本ダネにして大阪の井原西鶴が『好色五人女』を執筆して大当たり。
歌舞伎・浄瑠璃で演じられ、舞台ではボヤじゃ面白くないので、お七が火の見櫓の半鐘を鳴らすという場面に変更されています。(画像)
火事でもないのに半鐘を鳴らすのは、これもまた重罪でした。

西鶴のフィクションが独り歩きし、本当は何が真実か現在では不明です。
ともかく天和二年は、江戸の大火として記憶に残りました。
あの大火がきっかけでお七さんが火刑になったのネ――という話からその大火そのものが「お七の大火」と呼ばれるようになり、やがてその火事の放火犯だと誤解されていきます。

火の始末、火の用心は大切ですね。
大勢の命を奪い、財産を奪い、人生を狂わせます。
今の時期は大寒で、今朝は零下の気温、最高気温も10℃にならず、湿度は20%台。
西高東低。風も強く、もっとも火災に注意すべき時期です。

蛇足
1)
ワープロが普及し始めたもう何十年も前の話。
同僚が八百屋オヒチと言いました。江戸=東京の住民はシとヒを区別できません。
オシチだと言っても納得しませんでした。ワープロで入力して初めて負けを認めました。
高校時代の地理の先生は朝日新聞をアサシヒンブンと発音していました。

2)
お七の生まれ年は丙午・ヒノエウマ だった言われています。(今年2017年は丁酉・ヒノトトリ)
ヒノエウマ年の女は気性が荒い、男の命を縮める――などの迷信は八百屋お七の頃からでしょう。
最近では1966年がヒノエウマ で、出生率が激減しました。
次回のヒノエウマ は2026年。その頃はもう、迷信そのものが消失していると信じたいところです。