★映画『ジャイアンツ』を思い出した。

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 ロックハドソン、エリザベステーラー、ジェームスディーン。トップスター共演の大河ドラマ

中学・高校時代には「映画音楽」というジャンルがあり、よくラジオで聞いていました。
ジェームスディーンの「エデンの東」がヒットチャートの連続一位を続けていたのを覚えています。

そのジェームスディーンの最後の映画が「ジャイアンツ」で1956年の映画ですから、わたしが見たのはリバイバル上映だったのでしょう。
ディミトリーティオムキンの「ジャイアンツ」のテーマソングはとても好きでした。

いくつも印象的な場面がありますが、ラスト近く、南部の超巨大な牧場主であり、油田会社の社長も兼ねるロックハドソンが、かつての雇用人で今や飛ぶ鳥を落とす勢いの石油王(ジェームスディーン)のパーティに招待され、意気消沈して帰る途中で立ち寄ったレストランの場面。
そこでメキシコ人がメキシコ人であるがゆえに入店を断られます。ロックハドソンが間に立ちますがマスターと殴り合いのけんかになり、打ちのめされます。
その時、バックに流れていた曲が 「テキサスの黄色いバラ」。
今思えば南北戦争の時の南軍の軍歌、行進曲です。もともとはメキシコ民謡だそうです。
この曲も何度もEPレコードで聞いた覚えがあります。

屋敷に戻ったロックハドソンは打撲の跡を妻のエリザベステーラーに介抱されますが、俺の人生は何一つうまくいかなかったとぼやきます。
妻は私の人生もダメだったと思っていたが、今日、あなたの闘う姿を見てあなたを誇らしく思った、わたしの人生は失敗ではなかったと夫に語りかけます。

南部の大富豪であるロックハドソンも成金石油王のジェームスディーンも人種差別主義者です。
しかしロックハドソンの息子はメキシコ人を妻とし、家業は継がないと宣言しています。そんな息子を苦々しく思ってきたのですが、ジェームスディーンに息子の妻がバカにされ、ジェームスディーンと争います。その後で息子はあんな成金などどうでも良い、問題はパパのような良識のある人の偏見だと告げます。それがこたえたのでした。

そしてレストランの場面です。メキシコ人を差別する支配人にロックハドソンは心から怒りに燃えて戦ったのです。そして打ちのめされた。
そんなダンナを奥さんは褒めたたえ誇りに思うと告げたのでした。

それが1956年の映画です。
今年は2017年ですから、61年前の映画で、アカデミー賞をとりました。
アメリカはもうずーっと、南北戦争を経てからもずうーっと人種差別と闘ってきたのですね。

今回のアメリカの事件で、多くの人々が白人至上主義に反対の声明を出しました。
心の心底から人種差別・民族差別に反対する伝統があるのです。

マルチンルサーキングの1963年のワシントン公民権運動の大行進だ成功を収めるには、映画「ジャイアンツ」など地道な努力、キャンペーンがあったのだと思います。

1956年の映画ではロックハドソンは打ちのめされた。しかし妻はそれを誇りに思い夫を称えた。
若かったわたしは映画で、超富豪だって(つまり誰だって)民族人種の平等に目覚めるのだと励まされたような気がしました。
そして歴史はその方向に進みました。

ジャイムススチュアート監督の「ジャイアンツ」はそのテーマソングとともに私の記憶に残る映画です。


  
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★最近買った優れもの――珪藻土の除湿スティック

カラリ
   商品名、『カラリ』。1cm幅、5cm長、4本で300円。

キッチンの砂糖や塩はポットの中で塊になりがちです。
このスティックを1本、2本入れておけば、砂糖も塩も固まってしまうのをかなり防げます。

『カラリ』は四角いプレートとか、いくつかタイプがあり、消費者の使い勝手を考えています。
珪藻土ですから、汚れたら水洗いが効きます。
湿気を吸い取り、目いっぱいになれば日光に干せば回復します。

珪藻土のスプーンとか、珪藻土のポットなども最近は売り出されていますが、ちょっと高価。
安価な画像の商品でとりあえず満足しています。

★最近、何有荘前によく来るシジュウカラ
         シジュウカラ2

見上げて撮ったから、全体像が良く分かりませんね。正面横向きです。
スズメとほぼ同じ大きさで、頭と首が黒。そして首から腹の真ん中にかけて黒い模様。
この模様を「黒いネクタイ」と称します。
頬は白。羽は緑色がかった白黒でなかなか美しい。

都会地でも緑のある公園で良く見かけ、川崎に住んでいたころからのおなじみさんです。
ツピーッ ツピーッ ツピーッと良くさえずります。
小鳥にも縄張りがあり、昨年まではほとんど見かけなかったのに 最近よくやって来ます。

200mほど離れた電線には数十羽のムクドリがよく止まっていて、かしましい。
あの集団はいつもそこどまりで、何有荘前には来ません。
集団でやってくると迷惑なので、縄張りを拡張しないようにと切に願っています。

シジュウカラの仲間にはコガラ、ヒガラ、ヤマガラがいます。
このうち、ヤマガラのお腹は赤くて、一番の美人のような気がしますが、あまり見かけません。
もう少し山林ぽい場所が好きなのでしょう。

今、一番大声で鳴いているのはオオヨシキリ。
姿が見えないけれどウグイス、コジュケイ、ホトトギス。
今年からシジュウカラが加わり、にぎやかになりました。

何有荘前の大正堰には、天気が良いと海岸方面からアジサシという白い鳥が飛んできて、狙いをすまし、ダイビングして魚取りをします。
今日は雨模様なので来ていません。かわりにツバメが超低空飛行で飛んでいます。
今日はこれから大雨になるとの予報でした。
昔からの言い伝え通り、「ツバメが低く飛ぶときは雨」 です。


★最近読んだ本『猟師の肉は腐らない』

      本
            新潮文庫 小泉武夫著 680円

東京の大学の「先生」と福島・茨城・栃木にまたがる八溝山地の奥地で愛犬クマと自給自足の生活を送る猟師の「義っしゃん」の心の交流の物語。
「先生」とはおそらく著者の分身でしょう。著者は大学で発酵学や食文化の研究者。
「義っしゃん」は著者が出会った数多くの人々を総合化し理想化した人物だろうと思います。

『猟師の肉は腐らない』というタイトルにひかれて購入しました。
電気やガス、水道がなくとも捕まえたウサギの肉を何か月も腐らせずに保管するマタギの知恵がタイトルで示されています。

久しぶりに再会した先生と義っしゃんは、賢く勇敢な猟犬クマをお供にウサギを狩り、魚を獲り、虫を食らい、ヘビを喰い、時には木の皮だって食べます。五右衛門風呂を沸かし、毎晩宴会をひらいて旧交を温めます。
その狩りの様子や調理の仕方が丁寧に描かれており、まるでワイルドライフの手引書のよう。
その味は至福の味だそうで、生き物の命を頂くのだから、少しも無駄にはしないという生き方が描かれています。

先生はヤマカガシに手を食われ、あしながバチに刺されますが、マタギの知恵で手当てされて事なきをえます。
圧巻はラスト近く、猟犬クマと手負いのイノシシとの死闘。クマの健気さに思わずほろりとしてしまいます。

近所にスーパーなどなく、作った作物は年貢として領主に採られていた時代、人々は何を食べて生きのびてきたのか、なるほどなぁと納得します。
貧しいことが不幸であるとは限らない。
義っしゃんは、厳しくとも美しく豊かな自然に囲まれて好きなことして生きてきて幸せだぁと言います。

わたしたちが便利さ、効率、能率、清潔、現金を求めた結果、失ったものの多さに驚きます。
考えてみればほんの50年ほど前まで、NHK「ひよっこ」の時代までは田舎暮らしが普通でした。

いすみ市で知り合ったHさんは昔の少年で、今でもマムシを捕獲してマムシ酒だとか、ハチと闘いながら蜂の子を捕獲して炒めて食べるとか、少年の心を持っています。
若い人でその技術を引き継ぐ人はいないものかしら。
それは縄文時代から延々と続く日本の農山村、漁村の文化と知恵とを引き継ぐ貴重な作業なんだけれど。


 
 

★江戸防衛の高速運河

小名木川
  Wikiより転載:小名木川全体の空中写真。西の隅田川から東の旧中川を直線で結ぶ。

2月の中頃に腰を痛め、ベッドにいる時間が増えました。
暇つぶしに寝転んで読んだ本が知人から借りた『日本史の謎は地形で解ける』(竹村公太郎 PHP文庫)があり、目からウロコでおもしろかった。

家康が秀吉の命令で北条氏の旧領を与えるからと江戸に移されたのは1590年のことでした。
江戸に着いた家康家臣団は、そのあまりにも貧しくひどい景色に激高したと言います。
江戸城のすぐ前は海で、西も東も広大な低湿地帯で人が住む場所はありませんでした。
難攻不落・鉄壁の守りの大阪城とは地理的条件は雲泥の差です。

そのころはまだ秀吉は健在だったし、東北の伊達氏は天下をうかがう気配がありました。
豊臣・伊達・南蛮の反徳川勢力が一斉に江戸を攻撃すれば防ぎようがない「死地」でした。
家康は華麗な居城を作るのは後回しにし、江戸防衛の三つの巨大プロジェクトを命じました。

一つ目は江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子方面へと付け替える「利根川東遷工事」です。
これは江戸を洪水から守るとためと言われていますが、竹村氏は本当の目的は江戸防衛の軍事工事だった言います。
南下する伊達軍を坂東太郎(利根川)でくい止めるのが隠れた狙いだったといいます。

外房九十九里浜の中央に東金市があります。
ここを家康は鷹狩と称して二度訪れており、その経路は「御成街道」といいます。
その道路は昼夜兼行で3日でできた、とうわさされる突貫工事でした。

江戸から東金までほぼ直線の御成街道は、家康の鷹狩のためと称していますが、たった二度の鷹狩でもう東金には来なかったのは権力者の気まぐれでしょうか。
低湿地帯を何万という軍勢が通過するのは不可能です。
竹村氏は徳川軍を素早く房総に展開するための軍用道路だったといいます。
武田信玄が建設した棒道(直線道路)と同じだと考えると良いでしょう。

そして画像の小名木川開削工事です。
当時、ここは低湿地帯で、当時の海岸に沿って直線の運河を作ったのは、船橋の塩を江戸に運ぶためと称していますが、大量の軍事物資を船で房総へ運ぶことが真の目的だったと言います。
低湿地帯の水はけを良くし、掘削でできた土砂は埋め立てに使う一石四鳥の計画でした。

家康が江戸に着任して真っ先に行った工事が、利根川東遷、御成街道、小名木川の工事でした。
それは江戸防衛の必要最低限の緊急工事だったともいえるでしょう。
江戸城と城下町が本格的に整備されるのは1615年豊臣氏が滅亡し、世の中が落ち着いてからでした。

以上、竹村氏の説をかいつまんで紹介しました。
家康の江戸防衛の深慮遠謀に感心した次第です。
わたしは民生安定の土木工事だと思っていましたから、裏には軍事目的があったとは驚きです。

竹村氏は触れておりませんが、江戸湾入口にある館山藩(里見氏)が些細なことで山陰へ追い出されて滅亡するのは大坂夏の陣の直前、1614年のことでした。
家康が関東を留守にしたとき、外様の里見氏が謀反するのを事前に防ぐ目的だったのでしょう。

歴史が専門ではなく、土木工学が専門の竹村氏から見た日本史の姿は、どの項目を見ても「そういう見方が成立するのか!」という驚きの連続でした。


 

★節分あれこれ

節分ザル
     画像は中央市豊富郷土資料館HP(→こちら)から転載

暇つぶしに 『目からウロコの民俗学』 という古本を読んでいたら、いすみ市の北隣町、長生郡睦沢町の昔の節分の行事が記載されていました。

――ヒイラギや豆の木を燃やした火を使い、焙烙(ホウロク=素焼きの皿)で豆を炒り、神棚に供えた後、「鬼は外、福は内、鬼の目玉ぶっ潰せ」と言いながら家中を清める。――
最近は鬼の面をかぶったご主人が鬼に扮し、豆をぶつけられる役回りになっていますが、
もともと、家にすくった鬼は目に見えるわけがない。
だから、家中、家の隅々まで豆を撒いて清めるのが本来の豆撒きなんでしょうね。
なにせ、豆は ”魔滅 マメ” ですから、小豆より大豆の方が強力そうです。
家に住み着いた不幸の根源=鬼を追い出し、立春の日をすがすがしく迎える伝統行事でした。

さらに、―――年齢の数だけ豆を食べると厄を逃れる――
昔は0歳児というのはありませんでした。誕生と同時に1歳でした。
また、誕生日を祝う習慣もありませんでした。
家族全員、いや日本中の人々が節分を区切りとして一斉に1ツ、齢を重ねました。

現代社会では誕生時は0歳から始まり、誕生日ごとに年齢を1ツ加える「満年齢」が基本ですから、節分で食べる豆の数はいくつなのか混乱があります。
今年、何歳になるのか、その数だけ食べるのが現代風でしょうか。
もっとも、私ぐらいの年齢になるとその数の豆を食べるのは大変ですから、1粒で10歳としています。

睦沢ではさらに独特の習慣がありました。
――大きくて目のあらいザルを逆さにして竹竿の先にくくりつけ、屋根の上に載せておく。
翌朝、「鬼がかかっているぞー」と叫び、子どもたちをおこす――

いすみ市でもそんな習慣があったのかと年配の方に訊きましたが、知らないとのことでした。
睦沢町の歴史民俗資料館の話では、「皆無とは言えないが、もうそのような習慣はないでしょう」 とのことです。

調べてみると他にもザルを掲げる習慣があった地域がありました。
西隣りの大多喜町西畑地区でも竿につけた目のあらいザルを屋根におく習慣があったといいます。
画像をお借りした山梨県中央市豊富地区も郷土資料館のHPに掲載されていました。
どうやら鬼は一つ目小僧のようで、目が多いザルを見るとおびえて逃げ出すと考えたようです。

睦沢町の続きです。
1年の区切りである節分の夜はこの1年の天候・吉凶占いも豆で行いました。
――12か月に見立てた12個の豆を囲炉裏の炭火におき、黒くなれば日照り、白い灰になればシケ、転がってしまえば強風だという。その焦げ具合を見て稲の作柄を選ぶ。ワセ、ナカテ、オクテの三通りで判断して種を撒いたという――
節分が神事だった頃の名残でしょう。
今では節分の豆は、炒り豆を購入するのが普通ですから、このような豆占いはできませんね。

もうみんな昔の習慣となり、知る人もいなくなりました。
今では節分というと、どこのスーパーでも恵方巻の大宣伝。
子どもたちは節分といえば恵方巻を思い出すことになるのでしょう。