★頼朝伝説、弓取川

弓取り橋
     小さな橋に「ゆみとりばし」の表札があります

いすみ市岬町長者から夷隅町・大多喜町に通じる古い街道があります。
現在の県道154号、中根小学校近くに流れる小川は弓取川。そこにかかる橋は弓取橋です。
車で通れば川も橋も気付かずに通り過ぎてしまうほどのあっけなさですが、往時は川幅もあり水量は豊かであったと思われます。

1948年に太宰治が入水自殺した玉川上水は、今行けばこんな場所で入水自殺できるわけがないと思われるささやかな流れですから、弓取川が今はささやかな農業用水のようにしか見えないとしても 昔は大河のように思われたと想像力を働かせることが大事です。

治承4年(1180年)8月、平家打倒の旗揚げをした源頼朝は伊豆の石橋山の戦いで一敗地にまみれ、命からがら小舟で房総半島に逃れて再起をはかります。
その時に頼りにしたのが房総半島の実力者、上総権介平広常でしたが、『吾妻鏡』によれば広常は色よい返事をしなかったそうです。

そりゃそうです。指名手配中の敗残の将の首を取れば大手柄です。負け犬に加担して一族の未来を棒に振るほど頼朝に恩があるわけではありません。
けっきょく 頼朝は外房の広常館に立ち寄ることなく下総に向かい、千葉介常胤の一族郎党300騎に迎えられて息を吹き返します。

したがって広常勢力下にある危険な夷隅郡を頼朝一行が堂々と通過したとは考えられませんが、この地には数々の頼朝伝説が残されており、この弓取川もその一つです。

安房の国に上陸した頼朝には北条義時や和田義盛など有力武将がつき従っていました。
彼らと共に 道々兵を募りながら長者・江場土方面に行進している時のことです。
折からの雨で前途の川の水は増水しておりました。川を渡る適当な場所はないかと偵察している際に部下がうっかり弓を引っかけて落とし、川に流してしまいました。
それを見た頼朝は間髪を入れずに川に馬で乗り入れて弓を追い、弓を拾い上げると高々と掲げ、

   「見よ!! 流された弓は見事に我らが手にした。我らが戦(イクサ)もかくあらん。
    最後に勝つのは我らだ」 と大音声で叫びました。

さらに頼朝は対岸に渡ってこちらを振り向くと、馬上で弓を大きく振り回すという勝利の儀式を演じました。
つき従った部下たちから盛大な拍手と声援が送られたのは言うまでもありません。
弓を流した部下に、「弓には神霊が宿る。ゆめゆめ おろそかにすることなかれ」と言いながら弓を返しました。

以後、この川は「弓取川」と名付けられ、この川を渡ることは出世の前兆、縁起の良いことだと村人に伝えられました。

この川に流れてきた弓、あるいは流された弓を拾い上げた武将が実際にいたのかもしれません。
その弓を拾い上げたのが頼朝であるという事実は確認できませんが、頼朝だったら絵になりますし、話もおもしろくなります。

京の都の番犬と卑しめられた武士階級でしたが、頼朝によって武士の時代という新しい時代が切り開かれました。
その新しい時代の幕開けの苦しい時に頼朝を支えてきたのが房総の武士団であるという自負がこの地に数々の頼朝伝説を残すことになったのでしょう。


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★御宿にある上総広常供養塔

伝上総広常供養塔
     御宿町上布施1474 真常寺境内にて

鎌倉で非業の死を遂げた、上総介平広常の供養塔と伝えられています。
一見すると二段重ねの古びたただの石で。
教育委員会が脇に立てた『真常寺石塔』と表示された標識がなければ不要物として捨てられそうな雰囲気です。苔むし、上部からは雑草が生えていますから。

真常寺はこの付近では大きなお寺で、子供の虫封じで有名な虚空蔵菩薩があります。
3月の縁日には県内各地や首都圏からも子供の健康を願う参拝人が多数訪れるそうです。
この石塔は本堂と虚空蔵堂の間に無造作に置かれていました。

おそらく建立時の供養塔上部は崩れたかどうにかしたために撤去され、下部の石二つだけが残されたものでしょう。
建立当時からここにあったのかも疑問で、由緒ある塔石だから捨てるに捨てきれず、ここに置いておいたのだと思われます。

昭和46年の千葉県の調査では、中が空洞で「格狭間コウザマ」模様が彫刻されており、鎌倉時代の様式だそうで、夷隅地方産の凝灰岩で出来ています。
しかし、この石塔が広常の供養塔であるという証拠はと言うと、戒名が彫られているわけでもなく、昔から広常供養塔と伝承されてきたということに尽きるようです。

真常寺のある御宿町上布施という住所は大原町に属する上布施と隣接しています。
昔は一つの村だったのに諸般の事情で御宿町と大原町に線引き区分されて今日に至るのでしょう。
江戸時代、房総は譜代大名や旗本の領地となり、石高調整のために一つの村に複数の領主が存在することもめずらしくありませんでした。
そんな都合で、二つの上布施地区が存在するのだと思います。

二つの上布施地区が鎌倉時代は一つの布施村だったとすると、布施村には二つの広常供養塔が存在することになります。
一つはこの真常寺にある供養塔。
もう一つは布施の供養塔
つまり広常の館址と推定される布施の殿台の南北に二つの供養塔があることになります。
そして東には大原町の金光寺にも広常供養塔があります。

外房の勝浦町、御宿町、大原町は鎌倉・室町時代には “伊南” と呼ばれていました。夷隅郡南部という意味です。
この地域に広常関連の遺跡や伝説が集中して存在していることは、伊南が広常の地盤であったことをうかがわせます。
伊南を地盤とする広常が、「周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の約二万騎を率いて頼朝の陣にはせ参じた(『吾妻鏡』)ことは地元の誇りだったのでしょう。

ところが謀反の疑いで斬殺される--そんなはずがない。あのお殿様に限って…という思いが数々の供養塔や伝説を残すことになります。
それだけ地元民に慕われてきた武将と言うのもめずらしい気がします。


 

★今も広常公を供養し続ける渡辺家の人々 

渡辺氏宅かぶき門
  江戸時代の名主の格式を残す渡辺家の黒塗り冠木(カブキ)門 

上総広常は源平の時代に源頼朝を支援し、多大な功績がありましたが、その勢力が強大であったために謀反を疑われ、1183年に謀殺されて一家断絶になってしまいます。

しかし広常に反意がなかったことは、広常が玉前神社へ奉納した鎧から証明されました。
頼朝は悔やんで、上総国で最大な供養を行ったそうです。
その供養のための布施料にあてられたのが現在のいすみ市大原の布施地区。

その布施地区の殿台は広常の館跡と目されており、その台地に登る手前に牛舎があります。
「いすみライフスタイル研究所」のSさんはその牧場に勤務していたことがあり、Sさんの紹介で牧場の渡辺さんにお会いしてきました。

渡辺さんのご先祖は広常の重臣で、広常の死後、布施名熊に定住し、一族は以来八百数十年にわたり広常公の供養を続けています。
いすみ市は歴史の古い町ですが、現在も古い歴史がそのまま生きているのかと感嘆してしまいます。

高さ30数cmほどの厨子扉の裏に、「総見院殿観寶廣恆大居士」という広常の戒名と 「建久辰七年九月廿五日  上総之介従三位平之朝臣広常卿」 と書かれ、中に広常の木造坐像が収められております。
相当古いものでボロボロに近くなったので、塗り直したら新品のようによみがえってしまいビックリしたと笑っていました。

その実物や写真は残念ながらお手元になく、拝見できませんでした。
というのも渡辺家の子孫一族、現在は十数軒持ち回りでこの厨子の広常公像を1年交替で自宅に安置して広常公の霊を祭るとともに渡辺家の先祖の供養ならびに渡辺一族・一家の家内安全等を祈願しており、「今年はどこの渡辺さんちにあるのかなぁ」ということでした。

昔は春秋年に二度、渡辺一族が集まり、広常像に礼拝し供養する集まりがあったと聞いていますが、やがて年に一度となり、現在は全員集合はめったになく、渡す家と受け取る家でお互いの都合の良い日どりで儀式が行われています。それで他の渡辺さんには広常公像が今どこの家にあるのか、調べないとすぐには分からない、とのことでした。

先祖伝来の貴重なものであり、受け取った家は1年間責任を持って預かり毎日礼拝するのだそうで、置き場所は床の間が多く、泥棒に盗まれないように気を遣い、その1年間は真心を込めて奉仕しており、決して義理や習慣だからと続けているのではないと強調されていました。

後日、Sさんを通じて渡辺さんから広常の下の木造画像がメールで届きました。
何かの役に立てば、ということでありがたいことです。

広常公

衣冠束帯という当時の高級貴族の正装で、黒い衣装は四位以上の者に限定されます。
右手に杓(シャク)を持つ若い姿で、やや微笑んでいる穏やかなお顔の像です。
鎌倉時代の芸術はリアルな写実主義が特徴なので、この木像が生前の広常公の面影を少しは伝えているのならば、広常公は穏やかな性格であり、『吾妻鏡』が伝えているような傲岸不遜な人物ではなかったことでしょう。

仏像のように壇の上に載っており、その壇の模様は笹の葉のように見えます。
頼朝の紋章は笹竜胆(ササリンドウ)とされ、現在は鎌倉市の市章になっていますが、当時、頼朝は無地の白旗を掲げ、無紋であることを源氏嫡流の誇りとしていました。
しかしながら、頼朝=笹竜胆という俗説が流行する下地として、鎌倉=笹という認識が当時からあったことを推測できる興味深いデザインです。

民俗学的にはこのような一族の集まり・グループを“名字講”といいます。
先祖を同じくする渡辺一族の集まりですから“渡辺講”というのが適切でしょう。

なお、厨子にある建久七年(1196)とは広常公の十三回忌にあたって厨子と広常公像を造ったと読み取れます。
また戒名は名熊の石造供養塔に刻まれたものとまったく同一ですから、これが広常公の正しい戒名だと断定して良いでしょう。
贈従三位という高位は余人には にわかには信じられませんが、この厨子と坐像が建久七年の物とすれば同時代資料として尊重されねばなりません。

若いご主人は、色々ある資料をそのうち整理してまとめてみようと思っているのですがなかなか暇がなくズルズルと、とおっしゃっていました。
ぜひその作業が成就するようにとお願いして渡辺家を辞しました。


  

★東光寺――上総広常公の位牌 

上中下
   位牌の上部・中部・下部

いすみ市に合併する前の『大原町史』(1993年)に次のような記述があります。

――春谷山東光寺(曹洞宗) 上寄瀬区
当寺に現存している上総介広常の位牌に「天養元甲子年八月二十八日」とあるが天養元年は一一四四年であるので、広常没後八四〇年になる。―――

この記述は一読すると論旨明解ですが実は意味不明。
まず没後840年とは何を基準にして840年としたのでしょうか。
文章上からは天養元年を基準にしたと読み取れますが、広常の没年月日は1183年12月20日。
1183年を基準にして没後840年は2023年になってしまいます。

1144年(天養元年)を基準に840年加えれば1984年となり、町史原稿執筆当時まで840年となりますが、天養元年が広常の没年月日であるはずがないので、「広常没後840年」の記述は宙に浮いてしまいます。

原稿執筆者は位牌にある「天養元甲子年八月二十八日」を広常没年月日と勘違いして、本当の没年月日を調べなかったのではないでしょうか。
怠慢と言わざるを得ませんし、そのまま出版した編集責任者の責任も重いはずです。

さて、そういうわけで東光寺をお尋ねして現物を拝見し、お話をお伺いしました。
高齢のご住職は快く応じて下さり、位牌を奥から取り出して見せてくれました。

位牌は高さ40cm程度、黒漆塗り。長い年月で漆が乾燥しすぎて剥げ落ち、下地の木部や胡粉が一部見えていますが、文字はかろうじて読み取れます。

右にやや小さな文字で、「天養元甲子年八月二十八日」
中央に 「〇(判読不能)館 當寺開基 春谷院殿音山道観大居士 尊霊」とあり
左下にやや小さな文字で、「當国領主 上総之助廣庸公」 とあります。
背面は無地。

正直言って困惑しました。
一・二行目を素直に読めば、これは天養元年に亡くなった東光寺初代住職のご位牌です。

開基とは、たとえば唐招提寺の開基は鑑真和上である――のように初代住職を意味します。
法名(戒名)の書き出しに 「當寺開基」 と初代東光寺の住職だとはっきり明示してあり、春谷院殿とはこの寺の山号“春谷山”と同じですから、初代ご住職の法名にまず間違いありません。

通常、法名(戒名)は故人の業績、人柄、氏名等を暗示する文字が入るものです。
布施にある石造の広常供養塔に刻まれた戒名は「総見院殿観宝広恒大居士」で、いかにも上総の実力者にふさわしく、広恒と表記することで広常の戒名であることを暗示しています。

ご位牌と供養塔では戒名が異なり、それでもなお、このご位牌が広常の位牌だと記述した理由を原稿執筆者は何も語っていません。

問題は三行目で、奇妙な文字使いです。
通常、 「上総介」 と三文字で書くべきところを、「上総之助」 と四文字表記でしかも 「スケ」 の文字が異なります。
さらに「広常」が 「廣庸」 となっています。
はじめは広常とは別人、広常の親族の誰かが僧になり、このお寺の開基になったのかと思い、年上親族を調べみると、一族に廣庸なる人物はいませんでした。
漢字辞典で調べると、廣庸でヒロツネと読むことができます。
廣庸=広常と認定して良いでしょう。

今日の位牌は「俗名 〇〇××」と表記されるので誤解の余地はありません。
このご位牌の場合、法名の人物が俗名広常だとすると、広常=初代住職の意味になってしまいますが広常が僧職にあったとは聞いたことがありませんし、第一、没年月日が合いません。

ではなぜ三行目に広常の名が刻まれているのか、この位牌が広常の位牌であると断定してよいのか、謎は深まるばかりです。
しいて言えば、亡くなった初代住職のために立派な位牌を作ったのが広常である、と位牌に表記したと推測すれば合理的な解釈ができますが…。

ご住職は、「さぁ私たちもはっきりわからないのです。このご位牌だって本物だかどうだか。お寺に代々伝わっていますから大切にしています」と正直なお話でした。

『大原町史』の記述としては “上総広常の名を刻んだ位牌が伝わっているが、広常本人の位牌かどうか検討の余地がある” 程度の記述にしておくべきでした。
“現存している上総広常の位牌”と何の論証もなしに断定したのは早計でした。

なお、『大原町史』はこのお寺の山号を 「春谷山」 と表記していますが、これも間違いです。
昭和28年に釈迦谷(シャカヤツ)にあった龍谷寺を併合してから、龍谷寺の本尊も合わせ、山号を 「龍谷山東光寺」 と今は称しています。

釈迦谷の龍谷寺は広常の館があった布施の殿台に近く、広常の子息の病気平癒の祈願が行われたそうです。東光寺には広常の名を刻んだこの謎の位牌があります。
どちらのお寺も広常に関係深いお寺です。だから龍谷寺を吸収合併したのでしょう。

大原地域は広常の影が今でもチラホラ垣間見える地域です。


  

★大原の頼朝伝説――二つの神社

御嶽神社八坂神社
        御嶽神社(大原6894)             八坂神社(大原7004)   

いすみ市大原の裸祭りは近隣十八社が競い合い、潮踏みすることでよく知られています。
その内の二社――上寄瀬(カミヨセ)の御嶽(オンタケ)神社、北寄瀬(キタヨセ)の八坂神社はともに創建が1180年と伝えられる古社です。

1180年に何があったのでしょうか?
1180年とは治承4年、源頼朝が反平家の旗を揚げた年です。
石橋山の戦いで惨敗し、命からがら真鶴半島から海を渡って安房の国に逃亡し、安房・上総・下総の武家を招集して再起をはかった年です。

上総の国の実力者は上総権介(ゴンノスケ)広常でしたから、頼朝のために実際に兵力を招集したのは広常のはずですが、伝説では頼朝がこの地に来たことになっています。
上寄瀬の御嶽神社の由緒について、明治二年の「社籍書上書」によると、

――治承四年(1180)、右兵衛佐(ウヒョウエノスケ)源頼朝、豆州石橋山に敗績の後再び兵を挙げんとして総州に至り、遠近の義兵を催促し、勢(イキオイ)漸(ヨウヤク)く振(ニギワ)う。兵を集めし地を後に寄勢村と名付く。陣中疾病の難を抜かんとし、命じて少彦名(スクナヒコナ)命並に素盞鳴(スサノオ)命を祭らしむ。後、人社を建て当地の鎮守とし春秋の祭礼を営み来れり――

寄瀬(ヨセ)という地名は頼朝が反平家の軍勢を寄せ集めた場所だからという地名起源伝説。
陣中の病害を除くために頼朝が神を祭らせたという神社起源伝説が読み取れます。

ところが下寄瀬の八坂神社もまったく同様の伝説が伝わっています。
境内にある石造の八坂神社縁起によると

――治承四年(1180年)、伊豆国で反平家の旗を挙げた源頼朝が、石橋山で敗れて安房に逃れ、上総・下総の有力武士を従えることに成功。その陣中、疫病の難を防ぐ為命じて、素盞鳴命、少彦名命を祭らしめたのを後世の人がこの地の鎮守としたもである、と「八坂神社明細書」に記されている―――

八坂神社に地名伝説はありませんが神社起源伝説は同一とみて良いでしょう。
ともに治承四年(1180年)に陣中の疫病の難を防ぐ為に頼朝の命により創建されたとしています。
違うのは祭神の順序――御嶽神社=少彦名命、素盞鳴命
                八坂神社=素盞鳴命、少彦名命

頼朝伝説には荒唐無稽の子供騙しみたいな話が多い中で、この地に伝わる伝説にはやや信憑性があります。
最上山の山裾になだらかな扇状地が広がり、旧街道に沿って四方からの交通の便も良い。
大原の地は夷隅地域南部の中心都市であり、昔から栄えた土地でした。この地域で武士を集結させるとなるとこの寄瀬地区はふさわしく思います。
ここで集結して、出陣決起集会を行い、武運長久と五体満足で凱旋することを神仏に祈願したことも十分あり得ることです。

ただ、武士を寄せ集めた場所だから寄瀬村と名付けたという地名説話は単なる語呂合わせで、いだだけません。
おそらくずっと大昔からこの地域は ヨセ と呼ばれてきたのでしょう。漢字を当てるとなれば 与瀬 が適当でしょうか。そこがたまたま集合場所になったため、寄瀬 という漢字に変更された考えられます。
寄瀬で ヨセ と無理やり読ませる理由はそんなことではないでしょうか。

また、祈祷を行った場所に社を建てて神社となったという伝説も疑わしい。
何もない所で祈願したのではなく、すでにそこに御嶽神社、八坂神社の前身となる社があり、そこに命じて祈祷・祈願を行ったと考える方が合理的です。
両社ともいつが創建とも知れぬ小さな古社だったが、それをエポックメーキングな名誉として創建は1180年という伝承が生まれたと思っています。

もちろん、何の根拠もない勝手な想像ですが…。