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★本日(1/25)は旧正月。

梅
           近くの大栄寺のほころび始めた白梅。

旧正月を中国では春節と言い、武漢で流行中の新型コロナウィルスの保菌者が大量に日本に遊びに来るかと、検疫所や医療関係者は臨戦態勢のようです。
東アジアでは中国由来の太陰太陽暦を長らく使ってきたことから、今日ではキリスト教暦(西暦)を使用しつつも、旧来の暦を伝統的行事には使用することが習慣です。

旧正月とは旧暦元旦のことで、立春に近い新月の日が1月1日と定められます。
旧暦元旦を上総一宮である玉前神社では「太陽と月が連れ添って昇る日」と説明しているのが印象的でした。
ちなみに本日の日昇時刻(東京)は6:46。月出は7:03。
これだけ近いと太陽の光で月の姿は見えません。一日中、一晩中月が見えない日が新月で、一日です。

玉前神社の御祭神は玉依(タマヨリ)姫で、神武天皇の母君でいらっしゃる。
姉君が豊玉(トヨタマ)姫で夫が神武天皇の父君=鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)。
近くの椎木・中原の玉崎神社の御祭神が豊玉姫。
豊玉、玉依の姉妹はともに海神の娘で、豊玉は釣り針をなくして困っていた山幸彦と海王(ワタツミ)の宮殿で親しくなり妊娠する。
ある日、山幸彦は地上に戻るといい、豊玉は腹の子はあなたの子だと迫り、出産は嵐の日に地上にて行うので鵜の羽を使った産屋(ウブヤ)を作るように命じた。ところが産屋が完成する前に陣痛が起き、嵐に乗じて上陸する。
出産のときはのぞき見しないように誓わせたが、山幸は誓いを破りのぞき見する。すると豊玉は巨大なサメの姿で身をよじって出産するところだった。
山幸が驚いて逃げ出したかどうかは古事記、日本書記とも記述がない。豊玉は正体を見られたことを恥じ、子を山幸に預けて海の国に戻ってしまった。
度重なる夫の裏切りに愛想が尽きたということか。しかし、我が子はかわいい。それで妹の玉依を我が子の世話係として地上に送る。生まれた子は鵜の羽を利用した産屋が完成する前に生まれた子という意味でウガヤフキアエズノミコトという。
後に、玉依は自分が世話をしたウガヤフキアエズノミコトと結婚し、神武が生まれたという話が古事記、日本書記にある。

姉の豊玉が妹の玉依に託した和歌が
   赤玉は 緒さえ光れど 白玉の 君が装いし 貴くありけり
    (たぶんメノウでできた)赤玉のひもは輝いているけれど白珠のようなあなたの姿はさらに尊い――かな。
この歌はなかなか解釈が難しい。白珠のあなたとは誰の事か。夫の事が赤子の事か。それはさておき

玉前神社では太陽を海王の娘の子であり、海王の娘の夫でもある天皇家の先祖とし、月を海神の娘とし、太陽と月が仲良く連れ添って昇る1年最初の日が正月元旦としています。
山幸は海王の宮殿を去る際に、海王から鹽盈珠(シホミツタマ)と鹽乾珠(シホフルタマ)という満潮・干潮を自由に操れる秘宝をプレゼントされ、意地悪な兄=海幸を懲らしめたとも伝わっています。
つまり玉前神社の信仰集団は元々は太陽と月の神秘的な力を信じ、海の恵みに感謝する海洋漁労民族であったと推定できます。

房総半島の中央、太平洋に面した上総一宮である玉前神社が太陽と月と海洋を尊崇するのはしっくりする話です。
近くの太東崎付近の海域はサメが多く、大型のサメが居ついているという地元の民話があります。
サメは胎生で腹の中に子がいます。漁師さんの仕事場で初めて見たときは驚きました。
サメから生まれた天皇の先祖という話も海洋漁労民の実体験から生まれた神話なのでしょう。



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★バスルームのシャコバサボテン

シャコバ
  右:赤花シャコバサボテン  中央:白花シャコバサボテン  左:なんだったかなぁ

何有荘のバスルームは南面しており、工務店の設計担当者や当時ようやく出始めた家屋設計の支援ソフトでも推奨されなかった配置です。施主の意向ということで無理やり実行しました。
単に、夜空の月を見ながらお風呂に入りたい――という単なるわがままなのですが。

南面しているので日中の日差しが入り、バスルームは温室状態になります。
バスルームも二重ガラス窓になっているのに、それでも入浴中は窓からはコールドドラフトと呼ばれる冷気が舞い降りてきます。
二重ガラス窓のせいよりも、サッシの問題じゃないかと思っていますが、それは別の話題。
それで冷気遮断の簡易パネルを窓際に設設置しているのが画像からも確認できるでしょう。

バスルーム限らず、冬場の室温管理には窓からの温度流失をブロックすることが有効です。
こたつの場合には、床からの温度流失に考慮すべきです。

21世紀が始まる頃、理想の場所に理想の家を建てることを考えていました。
現実と妥協しながら今の何有荘になりました。
今、外気温は3℃ですが室温は暖房装置なしで19℃あります。
というのも「太陽熱暖房」のおかげです。

日中、屋根は太陽の光熱を浴びて熱くなります。そこで熱せられた空気を集めて床下に送風機で送って蓄熱し、室内暖房にするという床暖房のシステムです。
それで、冬には暖房用の石油を確保するという面倒から解放されました。

トイレも脱衣場も全館太陽熱暖房ですからヒートショックはありません。
今から思えば、イニシャルコストはかかりましたが、暮らしやすい家だと思っています。

画像のシャコバサボテンはサボテンの仲間ですから、寒冷地は苦手。
短日性といって、日照時間が短くなると花が咲く仲間です。
何有荘のバスルームでぬくぬくと花開きました。
月を見るには適さぬ季節ですが、風呂に入るのが楽しみになるアイテムです。

植物って不思議ですね。
環境さえ整えば何年でも生き延びる種類がある。
シャコバサボテンもそんな一種です。もう何年バスルームでその季節になると花が咲きます。
何か考えてしまいます。
その時節に合えば花開くものを、環境が整わねば枯れてしまう。

たぶん、私たちの人生もいたずらに朽ち果てた人もいたんだろうな、と。
平成最後の年末だとかでTVでは様々な人間模様が放映されています。
なんでそんな人生だったのだろうかと考えてしまいます。

もしも来年が今年より良い年になるならば、何がその人の人生に足りなかったのかを皆が考えることから始まるのでしょう。

 

★北海道崩壊

地震
   震度7、厚真町では多くの山の斜面が崩れた。見たことのない景色だった。

日本列島はいったいどうなったのかと思うこの頃です。
地震、大雨、逆走する台風…。経験も想像も絶する事態が続いています。

北海道の胆振地方を震源とする地震の様子にはびっくりしました。
人間の営みなんか自然のちょっとした身震いでいとも簡単に崩れ去ってしまいます。

『地震・雷・火事・親父』と昔から言い慣わしてきました。
いずれも個人の努力では防ぎきれない厄災で、不意打ちとなる災難です。
親父は愛嬌ですが、何が何だかわからないうちに突然怒りだし、暴れだすというような親父殿が昔は多かったのでしょう。
虎の尾を踏んじゃったとか、地雷を踏んじゃったとか、最近は言うようです。

台風は大きな災害をもたらしますが、数日前から予告され、ある程度の事前準備ができるので、不意打ちとは言えません。
地震・雷…は現在のところ予測不可能です。

しかし不意打ちを食らうことがある、ということは昔から知られた事実です。
しかも胆振地方では余震が続き、明日は雨だとか。被害にさらなる追い打ち――これもよくある話。
では私たちに何ができるでしょうか。大自然の前のアリンコに等しき私たちに。

自然を恐れ、自然を敬い、災害を忘れないことではないでしょうか。
お盆という習慣も考えてみれば、単なるお祭りではなく、過去の死者との対話の期間であり、現在を生きていられる感謝の期間であったはずです。
納涼の景気の良い花火が一瞬静まり返った合間に、懐かしい過去の人との会話が持てる人は幸せだと思います。

準備を怠らなければご先祖様から褒められるでしょう。
それでも一瞬のうちに崖崩れに見舞われたならば、ご先祖様も同情して迎え入れてくれるでしょう。
しかし、残されたものは大変です。
ずっと耐えねばなりません。

どうしたら良いのか、良かったのか、完璧な方法などありません。
せめて思いつく一つひとつの些細なことを積み上げて暮らしていこうと思います。
悔いが残らないように。


 
 

★頼朝伝説、弓取川

弓取り橋
     小さな橋に「ゆみとりばし」の表札があります

いすみ市岬町長者から夷隅町・大多喜町に通じる古い街道があります。
現在の県道154号、中根小学校近くに流れる小川は弓取川。そこにかかる橋は弓取橋です。
車で通れば川も橋も気付かずに通り過ぎてしまうほどのあっけなさですが、往時は川幅もあり水量は豊かであったと思われます。

1948年に太宰治が入水自殺した玉川上水は、今行けばこんな場所で入水自殺できるわけがないと思われるささやかな流れですから、弓取川が今はささやかな農業用水のようにしか見えないとしても 昔は大河のように思われたと想像力を働かせることが大事です。

治承4年(1180年)8月、平家打倒の旗揚げをした源頼朝は伊豆の石橋山の戦いで一敗地にまみれ、命からがら小舟で房総半島に逃れて再起をはかります。
その時に頼りにしたのが房総半島の実力者、上総権介平広常でしたが、『吾妻鏡』によれば広常は色よい返事をしなかったそうです。

そりゃそうです。指名手配中の敗残の将の首を取れば大手柄です。負け犬に加担して一族の未来を棒に振るほど頼朝に恩があるわけではありません。
けっきょく 頼朝は外房の広常館に立ち寄ることなく下総に向かい、千葉介常胤の一族郎党300騎に迎えられて息を吹き返します。

したがって広常勢力下にある危険な夷隅郡を頼朝一行が堂々と通過したとは考えられませんが、この地には数々の頼朝伝説が残されており、この弓取川もその一つです。

安房の国に上陸した頼朝には北条義時や和田義盛など有力武将がつき従っていました。
彼らと共に 道々兵を募りながら長者・江場土方面に行進している時のことです。
折からの雨で前途の川の水は増水しておりました。川を渡る適当な場所はないかと偵察している際に部下がうっかり弓を引っかけて落とし、川に流してしまいました。
それを見た頼朝は間髪を入れずに川に馬で乗り入れて弓を追い、弓を拾い上げると高々と掲げ、

   「見よ!! 流された弓は見事に我らが手にした。我らが戦(イクサ)もかくあらん。
    最後に勝つのは我らだ」 と大音声で叫びました。

さらに頼朝は対岸に渡ってこちらを振り向くと、馬上で弓を大きく振り回すという勝利の儀式を演じました。
つき従った部下たちから盛大な拍手と声援が送られたのは言うまでもありません。
弓を流した部下に、「弓には神霊が宿る。ゆめゆめ おろそかにすることなかれ」と言いながら弓を返しました。

以後、この川は「弓取川」と名付けられ、この川を渡ることは出世の前兆、縁起の良いことだと村人に伝えられました。

この川に流れてきた弓、あるいは流された弓を拾い上げた武将が実際にいたのかもしれません。
その弓を拾い上げたのが頼朝であるという事実は確認できませんが、頼朝だったら絵になりますし、話もおもしろくなります。

京の都の番犬と卑しめられた武士階級でしたが、頼朝によって武士の時代という新しい時代が切り開かれました。
その新しい時代の幕開けの苦しい時に頼朝を支えてきたのが房総の武士団であるという自負がこの地に数々の頼朝伝説を残すことになったのでしょう。


★御宿にある上総広常供養塔

伝上総広常供養塔
     御宿町上布施1474 真常寺境内にて

鎌倉で非業の死を遂げた、上総介平広常の供養塔と伝えられています。
一見すると二段重ねの古びたただの石で。
教育委員会が脇に立てた『真常寺石塔』と表示された標識がなければ不要物として捨てられそうな雰囲気です。苔むし、上部からは雑草が生えていますから。

真常寺はこの付近では大きなお寺で、子供の虫封じで有名な虚空蔵菩薩があります。
3月の縁日には県内各地や首都圏からも子供の健康を願う参拝人が多数訪れるそうです。
この石塔は本堂と虚空蔵堂の間に無造作に置かれていました。

おそらく建立時の供養塔上部は崩れたかどうにかしたために撤去され、下部の石二つだけが残されたものでしょう。
建立当時からここにあったのかも疑問で、由緒ある塔石だから捨てるに捨てきれず、ここに置いておいたのだと思われます。

昭和46年の千葉県の調査では、中が空洞で「格狭間コウザマ」模様が彫刻されており、鎌倉時代の様式だそうで、夷隅地方産の凝灰岩で出来ています。
しかし、この石塔が広常の供養塔であるという証拠はと言うと、戒名が彫られているわけでもなく、昔から広常供養塔と伝承されてきたということに尽きるようです。

真常寺のある御宿町上布施という住所は大原町に属する上布施と隣接しています。
昔は一つの村だったのに諸般の事情で御宿町と大原町に線引き区分されて今日に至るのでしょう。
江戸時代、房総は譜代大名や旗本の領地となり、石高調整のために一つの村に複数の領主が存在することもめずらしくありませんでした。
そんな都合で、二つの上布施地区が存在するのだと思います。

二つの上布施地区が鎌倉時代は一つの布施村だったとすると、布施村には二つの広常供養塔が存在することになります。
一つはこの真常寺にある供養塔。
もう一つは布施の供養塔
つまり広常の館址と推定される布施の殿台の南北に二つの供養塔があることになります。
そして東には大原町の金光寺にも広常供養塔があります。

外房の勝浦町、御宿町、大原町は鎌倉・室町時代には “伊南” と呼ばれていました。夷隅郡南部という意味です。
この地域に広常関連の遺跡や伝説が集中して存在していることは、伊南が広常の地盤であったことをうかがわせます。
伊南を地盤とする広常が、「周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の約二万騎を率いて頼朝の陣にはせ参じた(『吾妻鏡』)ことは地元の誇りだったのでしょう。

ところが謀反の疑いで斬殺される--そんなはずがない。あのお殿様に限って…という思いが数々の供養塔や伝説を残すことになります。
それだけ地元民に慕われてきた武将と言うのもめずらしい気がします。