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★バスルームのシャコバサボテン

シャコバ
  右:赤花シャコバサボテン  中央:白花シャコバサボテン  左:なんだったかなぁ

何有荘のバスルームは南面しており、工務店の設計担当者や当時ようやく出始めた家屋設計の支援ソフトでも推奨されなかった配置です。施主の意向ということで無理やり実行しました。
単に、夜空の月を見ながらお風呂に入りたい――という単なるわがままなのですが。

南面しているので日中の日差しが入り、バスルームは温室状態になります。
バスルームも二重ガラス窓になっているのに、それでも入浴中は窓からはコールドドラフトと呼ばれる冷気が舞い降りてきます。
二重ガラス窓のせいよりも、サッシの問題じゃないかと思っていますが、それは別の話題。
それで冷気遮断の簡易パネルを窓際に設設置しているのが画像からも確認できるでしょう。

バスルーム限らず、冬場の室温管理には窓からの温度流失をブロックすることが有効です。
こたつの場合には、床からの温度流失に考慮すべきです。

21世紀が始まる頃、理想の場所に理想の家を建てることを考えていました。
現実と妥協しながら今の何有荘になりました。
今、外気温は3℃ですが室温は暖房装置なしで19℃あります。
というのも「太陽熱暖房」のおかげです。

日中、屋根は太陽の光熱を浴びて熱くなります。そこで熱せられた空気を集めて床下に送風機で送って蓄熱し、室内暖房にするという床暖房のシステムです。
それで、冬には暖房用の石油を確保するという面倒から解放されました。

トイレも脱衣場も全館太陽熱暖房ですからヒートショックはありません。
今から思えば、イニシャルコストはかかりましたが、暮らしやすい家だと思っています。

画像のシャコバサボテンはサボテンの仲間ですから、寒冷地は苦手。
短日性といって、日照時間が短くなると花が咲く仲間です。
何有荘のバスルームでぬくぬくと花開きました。
月を見るには適さぬ季節ですが、風呂に入るのが楽しみになるアイテムです。

植物って不思議ですね。
環境さえ整えば何年でも生き延びる種類がある。
シャコバサボテンもそんな一種です。もう何年バスルームでその季節になると花が咲きます。
何か考えてしまいます。
その時節に合えば花開くものを、環境が整わねば枯れてしまう。

たぶん、私たちの人生もいたずらに朽ち果てた人もいたんだろうな、と。
平成最後の年末だとかでTVでは様々な人間模様が放映されています。
なんでそんな人生だったのだろうかと考えてしまいます。

もしも来年が今年より良い年になるならば、何がその人の人生に足りなかったのかを皆が考えることから始まるのでしょう。

 
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★北海道崩壊

地震
   震度7、厚真町では多くの山の斜面が崩れた。見たことのない景色だった。

日本列島はいったいどうなったのかと思うこの頃です。
地震、大雨、逆走する台風…。経験も想像も絶する事態が続いています。

北海道の胆振地方を震源とする地震の様子にはびっくりしました。
人間の営みなんか自然のちょっとした身震いでいとも簡単に崩れ去ってしまいます。

『地震・雷・火事・親父』と昔から言い慣わしてきました。
いずれも個人の努力では防ぎきれない厄災で、不意打ちとなる災難です。
親父は愛嬌ですが、何が何だかわからないうちに突然怒りだし、暴れだすというような親父殿が昔は多かったのでしょう。
虎の尾を踏んじゃったとか、地雷を踏んじゃったとか、最近は言うようです。

台風は大きな災害をもたらしますが、数日前から予告され、ある程度の事前準備ができるので、不意打ちとは言えません。
地震・雷…は現在のところ予測不可能です。

しかし不意打ちを食らうことがある、ということは昔から知られた事実です。
しかも胆振地方では余震が続き、明日は雨だとか。被害にさらなる追い打ち――これもよくある話。
では私たちに何ができるでしょうか。大自然の前のアリンコに等しき私たちに。

自然を恐れ、自然を敬い、災害を忘れないことではないでしょうか。
お盆という習慣も考えてみれば、単なるお祭りではなく、過去の死者との対話の期間であり、現在を生きていられる感謝の期間であったはずです。
納涼の景気の良い花火が一瞬静まり返った合間に、懐かしい過去の人との会話が持てる人は幸せだと思います。

準備を怠らなければご先祖様から褒められるでしょう。
それでも一瞬のうちに崖崩れに見舞われたならば、ご先祖様も同情して迎え入れてくれるでしょう。
しかし、残されたものは大変です。
ずっと耐えねばなりません。

どうしたら良いのか、良かったのか、完璧な方法などありません。
せめて思いつく一つひとつの些細なことを積み上げて暮らしていこうと思います。
悔いが残らないように。


 
 

★頼朝伝説、弓取川

弓取り橋
     小さな橋に「ゆみとりばし」の表札があります

いすみ市岬町長者から夷隅町・大多喜町に通じる古い街道があります。
現在の県道154号、中根小学校近くに流れる小川は弓取川。そこにかかる橋は弓取橋です。
車で通れば川も橋も気付かずに通り過ぎてしまうほどのあっけなさですが、往時は川幅もあり水量は豊かであったと思われます。

1948年に太宰治が入水自殺した玉川上水は、今行けばこんな場所で入水自殺できるわけがないと思われるささやかな流れですから、弓取川が今はささやかな農業用水のようにしか見えないとしても 昔は大河のように思われたと想像力を働かせることが大事です。

治承4年(1180年)8月、平家打倒の旗揚げをした源頼朝は伊豆の石橋山の戦いで一敗地にまみれ、命からがら小舟で房総半島に逃れて再起をはかります。
その時に頼りにしたのが房総半島の実力者、上総権介平広常でしたが、『吾妻鏡』によれば広常は色よい返事をしなかったそうです。

そりゃそうです。指名手配中の敗残の将の首を取れば大手柄です。負け犬に加担して一族の未来を棒に振るほど頼朝に恩があるわけではありません。
けっきょく 頼朝は外房の広常館に立ち寄ることなく下総に向かい、千葉介常胤の一族郎党300騎に迎えられて息を吹き返します。

したがって広常勢力下にある危険な夷隅郡を頼朝一行が堂々と通過したとは考えられませんが、この地には数々の頼朝伝説が残されており、この弓取川もその一つです。

安房の国に上陸した頼朝には北条義時や和田義盛など有力武将がつき従っていました。
彼らと共に 道々兵を募りながら長者・江場土方面に行進している時のことです。
折からの雨で前途の川の水は増水しておりました。川を渡る適当な場所はないかと偵察している際に部下がうっかり弓を引っかけて落とし、川に流してしまいました。
それを見た頼朝は間髪を入れずに川に馬で乗り入れて弓を追い、弓を拾い上げると高々と掲げ、

   「見よ!! 流された弓は見事に我らが手にした。我らが戦(イクサ)もかくあらん。
    最後に勝つのは我らだ」 と大音声で叫びました。

さらに頼朝は対岸に渡ってこちらを振り向くと、馬上で弓を大きく振り回すという勝利の儀式を演じました。
つき従った部下たちから盛大な拍手と声援が送られたのは言うまでもありません。
弓を流した部下に、「弓には神霊が宿る。ゆめゆめ おろそかにすることなかれ」と言いながら弓を返しました。

以後、この川は「弓取川」と名付けられ、この川を渡ることは出世の前兆、縁起の良いことだと村人に伝えられました。

この川に流れてきた弓、あるいは流された弓を拾い上げた武将が実際にいたのかもしれません。
その弓を拾い上げたのが頼朝であるという事実は確認できませんが、頼朝だったら絵になりますし、話もおもしろくなります。

京の都の番犬と卑しめられた武士階級でしたが、頼朝によって武士の時代という新しい時代が切り開かれました。
その新しい時代の幕開けの苦しい時に頼朝を支えてきたのが房総の武士団であるという自負がこの地に数々の頼朝伝説を残すことになったのでしょう。


★御宿にある上総広常供養塔

伝上総広常供養塔
     御宿町上布施1474 真常寺境内にて

鎌倉で非業の死を遂げた、上総介平広常の供養塔と伝えられています。
一見すると二段重ねの古びたただの石で。
教育委員会が脇に立てた『真常寺石塔』と表示された標識がなければ不要物として捨てられそうな雰囲気です。苔むし、上部からは雑草が生えていますから。

真常寺はこの付近では大きなお寺で、子供の虫封じで有名な虚空蔵菩薩があります。
3月の縁日には県内各地や首都圏からも子供の健康を願う参拝人が多数訪れるそうです。
この石塔は本堂と虚空蔵堂の間に無造作に置かれていました。

おそらく建立時の供養塔上部は崩れたかどうにかしたために撤去され、下部の石二つだけが残されたものでしょう。
建立当時からここにあったのかも疑問で、由緒ある塔石だから捨てるに捨てきれず、ここに置いておいたのだと思われます。

昭和46年の千葉県の調査では、中が空洞で「格狭間コウザマ」模様が彫刻されており、鎌倉時代の様式だそうで、夷隅地方産の凝灰岩で出来ています。
しかし、この石塔が広常の供養塔であるという証拠はと言うと、戒名が彫られているわけでもなく、昔から広常供養塔と伝承されてきたということに尽きるようです。

真常寺のある御宿町上布施という住所は大原町に属する上布施と隣接しています。
昔は一つの村だったのに諸般の事情で御宿町と大原町に線引き区分されて今日に至るのでしょう。
江戸時代、房総は譜代大名や旗本の領地となり、石高調整のために一つの村に複数の領主が存在することもめずらしくありませんでした。
そんな都合で、二つの上布施地区が存在するのだと思います。

二つの上布施地区が鎌倉時代は一つの布施村だったとすると、布施村には二つの広常供養塔が存在することになります。
一つはこの真常寺にある供養塔。
もう一つは布施の供養塔
つまり広常の館址と推定される布施の殿台の南北に二つの供養塔があることになります。
そして東には大原町の金光寺にも広常供養塔があります。

外房の勝浦町、御宿町、大原町は鎌倉・室町時代には “伊南” と呼ばれていました。夷隅郡南部という意味です。
この地域に広常関連の遺跡や伝説が集中して存在していることは、伊南が広常の地盤であったことをうかがわせます。
伊南を地盤とする広常が、「周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北輩等」の約二万騎を率いて頼朝の陣にはせ参じた(『吾妻鏡』)ことは地元の誇りだったのでしょう。

ところが謀反の疑いで斬殺される--そんなはずがない。あのお殿様に限って…という思いが数々の供養塔や伝説を残すことになります。
それだけ地元民に慕われてきた武将と言うのもめずらしい気がします。


 

★今も広常公を供養し続ける渡辺家の人々 

渡辺氏宅かぶき門
  江戸時代の名主の格式を残す渡辺家の黒塗り冠木(カブキ)門 

上総広常は源平の時代に源頼朝を支援し、多大な功績がありましたが、その勢力が強大であったために謀反を疑われ、1183年に謀殺されて一家断絶になってしまいます。

しかし広常に反意がなかったことは、広常が玉前神社へ奉納した鎧から証明されました。
頼朝は悔やんで、上総国で最大な供養を行ったそうです。
その供養のための布施料にあてられたのが現在のいすみ市大原の布施地区。

その布施地区の殿台は広常の館跡と目されており、その台地に登る手前に牛舎があります。
「いすみライフスタイル研究所」のSさんはその牧場に勤務していたことがあり、Sさんの紹介で牧場の渡辺さんにお会いしてきました。

渡辺さんのご先祖は広常の重臣で、広常の死後、布施名熊に定住し、一族は以来八百数十年にわたり広常公の供養を続けています。
いすみ市は歴史の古い町ですが、現在も古い歴史がそのまま生きているのかと感嘆してしまいます。

高さ30数cmほどの厨子扉の裏に、「総見院殿観寶廣恆大居士」という広常の戒名と 「建久辰七年九月廿五日  上総之介従三位平之朝臣広常卿」 と書かれ、中に広常の木造坐像が収められております。
相当古いものでボロボロに近くなったので、塗り直したら新品のようによみがえってしまいビックリしたと笑っていました。

その実物や写真は残念ながらお手元になく、拝見できませんでした。
というのも渡辺家の子孫一族、現在は十数軒持ち回りでこの厨子の広常公像を1年交替で自宅に安置して広常公の霊を祭るとともに渡辺家の先祖の供養ならびに渡辺一族・一家の家内安全等を祈願しており、「今年はどこの渡辺さんちにあるのかなぁ」ということでした。

昔は春秋年に二度、渡辺一族が集まり、広常像に礼拝し供養する集まりがあったと聞いていますが、やがて年に一度となり、現在は全員集合はめったになく、渡す家と受け取る家でお互いの都合の良い日どりで儀式が行われています。それで他の渡辺さんには広常公像が今どこの家にあるのか、調べないとすぐには分からない、とのことでした。

先祖伝来の貴重なものであり、受け取った家は1年間責任を持って預かり毎日礼拝するのだそうで、置き場所は床の間が多く、泥棒に盗まれないように気を遣い、その1年間は真心を込めて奉仕しており、決して義理や習慣だからと続けているのではないと強調されていました。

後日、Sさんを通じて渡辺さんから広常の下の木造画像がメールで届きました。
何かの役に立てば、ということでありがたいことです。

広常公

衣冠束帯という当時の高級貴族の正装で、黒い衣装は四位以上の者に限定されます。
右手に杓(シャク)を持つ若い姿で、やや微笑んでいる穏やかなお顔の像です。
鎌倉時代の芸術はリアルな写実主義が特徴なので、この木像が生前の広常公の面影を少しは伝えているのならば、広常公は穏やかな性格であり、『吾妻鏡』が伝えているような傲岸不遜な人物ではなかったことでしょう。

仏像のように壇の上に載っており、その壇の模様は笹の葉のように見えます。
頼朝の紋章は笹竜胆(ササリンドウ)とされ、現在は鎌倉市の市章になっていますが、当時、頼朝は無地の白旗を掲げ、無紋であることを源氏嫡流の誇りとしていました。
しかしながら、頼朝=笹竜胆という俗説が流行する下地として、鎌倉=笹という認識が当時からあったことを推測できる興味深いデザインです。

民俗学的にはこのような一族の集まり・グループを“名字講”といいます。
先祖を同じくする渡辺一族の集まりですから“渡辺講”というのが適切でしょう。

なお、厨子にある建久七年(1196)とは広常公の十三回忌にあたって厨子と広常公像を造ったと読み取れます。
また戒名は名熊の石造供養塔に刻まれたものとまったく同一ですから、これが広常公の正しい戒名だと断定して良いでしょう。
贈従三位という高位は余人には にわかには信じられませんが、この厨子と坐像が建久七年の物とすれば同時代資料として尊重されねばなりません。

若いご主人は、色々ある資料をそのうち整理してまとめてみようと思っているのですがなかなか暇がなくズルズルと、とおっしゃっていました。
ぜひその作業が成就するようにとお願いして渡辺家を辞しました。