★鶴ヶ城、亀ヶ城跡地

鶴が城
    椎木堰、中原堰に囲まれた中央部が城跡

戦国時代、いすみ市のほぼ全域を支配したのは土岐氏。
その主城が夷隅町の万木城で、岬町には鶴ヶ城、亀ヶ城と呼ばれる出城が画像半島状の中央部にありました。

鶴、亀というおめでたい命名ですが、実際、当時はこの地に鶴が舞い、亀が生息していただろうと推測できます。
乳幼児死亡率が高かった時代、戦乱に明け暮れた時代では長寿・長命を祈願して鶴、亀と名付けることはNHK、女城主井伊直虎の幼馴染の名前としても登場しています。

非常に特徴的な形の二つの農業堰は現在では左側を椎木堰、右側を中原堰と言います。
古い地図を見ると椎木堰は椎木古谷、中原堰は鶴ヶ城でした。
今は消えてしまった小字(アザ)地名には亀ヶ城、亀ヶ谷、屋敷台などがあり、かつて城があったことが偲ばれます。

おそらくこの半島状の台地(標高24m~40m)の東西部分に鶴ヶ城、亀ヶ城という二つの城塞が築かれていたのでしょう。
万木城の北東方面の守備の要(カナメ)であり、一宮や長南方面からの敵の侵入を防ぐ城塞でした。

昔の街道はどこを通っていたか、現代の常識で考えてはいけません。
昔は隣村に通うにも尾根筋の道を選びました。
一宮や長南から敵が攻め込むルートを押さえる絶好の位置にこの城塞がありました。
周囲は低湿地ですからう回路は不可能。難攻不落の城塞でした。

1590年、ほぼ関東全域を支配していた北条氏が滅びると、北条氏配下の房総の各豪族たちの諸城は怒涛の如く進軍してきた秀吉方徳川軍になすすべもありませんでした。
48の城があっという間に滅びたので「いろは崩し」と言われています。

万木城の当主・土岐氏も戦わずに逃亡したのですから、鶴ヶ城、亀ヶ城は言わずもがなです。
以後、廃城となり今日では笹薮に覆われ、往時の姿を思い起こす遺跡はほとんどありません。

この半島状台地からの景色、あるいは台地を見渡す周囲からの景色は画像のようになかなか風光明媚なものです。
民家や少数ながら別荘が散見できます。
しかし、現在では一宮方面に続く山道はもはや廃道となり、通じてはいません。
この台地の民家・別荘に通う道は太東駅方面からの、南からの細道ですが、この細道が急坂で道幅も狭く、車1台すれ違えないような道ですから開発が進まないのも無理はありません。
乱開発されるよりマシだ、と言えなくもありませんが…。

入口に相当する旧字(アザ)地名は調べた結果、「小滝」と判明しました。
岬町には旧「中滝 ナカタキ」村があり、隣町は「大多喜=大滝」ですから、大中小の滝がそろいました。
房総の山々は低く、華厳の滝や那智の滝のような壮大な滝はありませんが、
江戸時代の地元の人から見れば、大滝も中滝も小滝もある自慢の地域だったのでしょう。




 
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★戦国時代末期の「椎木城」跡地

椎木城
      般若寺入口の急峻な坂を登り、画像右手の台地

JR外房線・太東駅の東側に国道128号が通り、房総半島の主要な街道になっていますが、戦後になってから細道を直線化、拡幅、新設された道路です。
歴史のある古くからからの街道は太東駅西側の椎木商店街の街道で、伊南街道と呼ばれていました。
現在は県道152号です。
伊南とは夷隅郡南部という意味で、伊北とは夷隅郡大多喜方面を指していました。

戦国時代、伊南万木城(マンギジョウ)に陣取る土岐氏と、伊北に陣取る正木氏は敵対関係にありました。
それどころか、南の大原には槍田氏、北の長南には武田氏も穀倉地帯である万木の地を奪おうと死闘を繰り返していました。

今から思えば、何も殺し合いをしないでも、と思いますが、戦国時代とはそういう時代で、親族が殺されたから復讐だ、という負の連鎖の時代でした。
椎木城は北の武田氏にそなえる砦のような城です。

伊南街道・椎木交差点を北に少し行くと太東郵便局になり、交差点付近がかつての繁華街の中心かと思われます。郵便局をさらに少し北上すると般若寺があります。
周囲を崖に囲まれ台地の上にあり、平安時代から続く天台宗の名刹です。この急坂は自動車でもキツイので、自転車族が体力を競い合う舞台になると聞いたことがあります。

つまり椎木城は伊南街道には接していませんが、伊南街道をすぐ封鎖できる位置にあり、しかも旧矢上村へ続く街道に接しており、また旧古沢村に続く街道との分岐点にあります。
武田氏がどこから侵攻してくるか、どのルートからであっても対応できる場所です。

昔はここが交通の要衝(ヨウショウ)の地だった位置にありました。
東西南北どちらの方角にも出陣できる好位置に砦を築いたのは昔の人の慧眼(ケイガン)です。

般若寺の急坂を登り、本堂の南西の不動堂付近が椎木城の本体があった場所だと考えられています。
防衛に適したこの急峻な高台から周囲を見渡し、いざという時に備えたのでしょう。

わたしの手元に 『千葉県いすみ市を対象とした集落形成の調査』2015 という小冊子があります。
千葉の某大学院建築学の院生が中心になってまとめたようです。
その冊子の地図では、椎木城が伊南街道沿いで、隣町・綱田村との境界付近に図示されていました。

院生がどのような資料に基づいて ここが椎木城跡地としたか 知る由もありませんが、
その位置だと伊南街道はすぐ封鎖できますが、他ルートを侵攻する武田軍には対応できません。
何よりも防衛に適した急峻な丘がありません。

院生が椎木城はどこにあったのか、『岬町史』など基本資料さえ参照していないのは残念なことです。
一度文章になって公表されると、それが独り歩きすることもあります。
文章を発信する人は裏付けをきちんと取る――ブログを書くわたしの自戒です。


 

 
 

★戦国時代末期の「和泉要害」城跡地

和泉要害
    スーパーレオ駐車場から見た要害跡地。左手が人工的な急斜面の特徴。

戦国時代末期、現在のいすみ市に相当する地域を治めていたのは土岐氏で、土岐氏と言えば鎌倉時代からの名門で特に美濃国で栄えました。
しかし、美濃土岐氏はマムシの異名を持つ斎藤道山に追われて没落します。

明智光秀の前半生ははっきりしませんが、美濃土岐の一族を自称していました。
その家紋は桔梗紋で、織田信長は本能寺の変では桔梗紋の旗差し物に囲まれて光秀の反乱だと悟ったと言われています。
いすみ土岐氏の家紋もまた桔梗紋でした。
光秀の意図は滅びた土岐氏を再興するところにあったとみてよいでしょう。

いすみ土岐氏の先祖は流れ流れて房総半島に定着し、はじめは安房の里見氏に仕え、やがて頭角を現し、土岐弾正少弼為頼は「里見三羽ガラス」と呼ばれるほどになりました。
しかし、そうであればこそ野心も人一倍あったのでしょう。里見氏と手切れて独立し、里見氏とは敵対関係にあった小田原の北条氏と同盟します。

そうは許さじと里見側の攻撃は厳しくなります。南の御宿から、あるいは西の大多喜から攻撃を開始します。
北側からは、現在の長生郡に威を張っていた武田氏の攻撃も繰り返され、どちらの方向から誰が攻め寄せてくるか気の休まる暇もなかったことでしょう。
  
東側は断崖と遠浅の続く太平洋で、防衛上はやや安心できます。
ドカリの波と地元で呼ばれる荒波の海岸ですから、当時の船では大軍を運ぶのは困難です。
とはいえ土岐氏にとっては油断は大敵ですから、東側の防衛拠点として設置したのが画像の
「和泉要害」です。

いすみ市夷隅の万木城を拠点とする土岐氏を海上から攻めるとなると、上陸推定地は御宿、大原、大東の三カ所が考えられます。
「和泉要害」は現在の太東漁港から続く昔からの一間(180cm)道路が続く先にあります。
この狭い山道を封鎖すれば敵の進軍を阻止し粉砕することができるでしょう。その拠点です。

敵は現在の国道128号を進軍するかもしれませんが、当時この付近は湿地帯で行軍には不向きです。
しかし、その場合にも対応できる立地条件にあります。

画像を見て、あぁやはり房総の城跡だと特徴づける光景が見られます。
山頂部の左側が急に傾斜していますね。
戦国時代、房総の山城には石垣がなく、人工的に山を削って砦としました。
石垣を築き天守を建てたのは信長以後の話。房総にはその流儀は伝わっていなかった。
この急斜面で守られた難攻不落の砦が「和泉要害」でした。

いまではここが城跡(砦跡)だと知っている人は地元でもほとんどいなくなりました。
延寿寺というお寺がそこにあります。
なんとなく触れがたい特別な場所だという意識から放置され、やがて神社やお寺の敷地になるんでしょうね。

和泉要害で、どれほどの戦闘があったのか、記録は全く残っておりません。
1590年の小田原北条氏滅亡とともに、この和泉要害の歴史も終わりました。








 

★153km先の富士山夕景

富士山2
    何有荘前、大正堰越しに富士山が見える

移住する前、外房から富士山が見えるとは考えたこともなく、最初は目を疑いました。
地元の人にしてみれば、見えるのが当たり前ですから、見えたからと言って別にはしゃいだり、興奮したりしませんが、移住者からすればびっくりです。

わたしがカメラを構えていると犬の散歩の若い人が来ました。
「今日は良い天気でしたねぇ」なんて話して、あそこに見えるのが富士山ですと指し示すとエー、アー、あれですか?と驚いていました。
つくづくいすみ市って不思議な場所だなと思います。

いすみの外海で漁をしている漁師さんによると、船からはっきりと富士山が見えると言っていました。
富士山が見えるのは空気が澄んだ冬です。2020オリンピックは夏場ですから富士山を見るのは厳しいかもしれませんが、サーフ会場から富士山が冬場なら見えるはずです。
サーフしながら、富士山が見えたら素晴らしいですね。

葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」は実はいすみ市の海がモチーフになっているのではないかと推測しています。
富士山4

1.東海道神奈川宿の湊からあの方向で富士山は見えない。
2.神奈川沖、つまり多少沖合に出て、神奈川宿方面を見返れば富士山はあの位置で見える。
3.しかし、富士山が遠方に過ぎる。もっと近くに大きく見えるはずだ。
4.神奈川沖に出たとしても、江戸湾であのような大波は起きない。
  仮に起きたとしたら、船は出ない。出航見合わせのはず。
5.船に乗っている客は商人らしい。すると木更津=神奈川の船客か?
6.木更津付近から見た景色を「神奈川沖」と称してもウソとは言い切れない。
7.しかし木更津も江戸湾だから大波は来ない。つまり神奈川沖にあのような大波はない。
8.北斎はいすみ市に来たことがあり、波の伊八の彫刻を見たことがある。
  一つは行元寺の『波に宝珠』であり、一つは飯綱寺の『波に龍』。
9.いすみ市のドカリの波と言われる大波の彼方にある富士山を北斎は見たのではないか。
10.木更津・江戸を結ぶ船便を木更津で見た時、北斎は外房のドカリの波が思い浮かび、
そんな波が来たら商人たちは肝を冷やすだろうなぁとアイデアがひらめいた。
11.北斎のこのシリーズの版画は事実上、東海道からの景色と銘打っているわけですから
  木更津とも外房とも表記できず『神奈川沖』にならざるを得なかった――。

富士山を見ただけでも感激するのに、大波と一緒であったらどれほど素晴らしいことでしょう。
ましてそこに金の亡者の商人がうずくまって神仏の加護を祈っている――北斎という人の性格がにじみ出た絵だなぁと思います。

そんなドカリの波の素晴らしさを表現したくて『神奈川沖』と偽って北斎は発表しました。
その大波が世界から評価されて2020のサーフ会場になりました。
ようやく外房のドカリの波が世に知られるようになり、門外漢ながらうれしく思います。

富士山距離jpg
富士山―何有荘の地理画像。測ったら153kmでした。

★2020オリンピック サーフィン 一宮海岸に決定

志田下
      一宮東浪見(トラミ)の釣ケ崎海岸はサーファーの聖地

何有荘から車で10分ほどの海岸、地元では釣ケ崎海岸というけれど、サーファーは志田下(シダシタ)という、いわば業界用語で全国的に知られた海岸です。
この海岸が2020のサーフィン会場になったとIOCから発表がありました。
4年後の話ですが、たぶん地元は大混雑することでしょう。

志田下という理由は近くに志田商店があったからだそうで、一宮町の一宮川からいすみ市の太東海水浴場までが九十九里浜の最南部にあたり、どこもサーフィンができますが、とりわけ優れた波が来る場所が「マツイさん」=松井さんの家の前のポイント、「馬小屋前」=乗馬クラブの前のポイント、「シダトラ」=志田下と東浪見の中間などとその筋では言われてきたようです。

平日のこの日、多くのサーファーが来ていました。
画像のように大きな鳥居があり、ここは上総国一宮である玉前(タマサキ)神社の祭場で、上総十二社祭りという例大祭の時は周辺の神輿が集結し浜降り神事が執行される場所です。
ところが9月の例大祭以外の時は完全にサーファーに占拠されていると言っても良いでしょう。

波乗りの全国大会なども開催される場所で、プロサーファーお気に入りの場所ですから、初心者は冷たい目で見られ、邪魔者扱いにされるという話も聞いたことがあります。
ドカリと呼ぶ大波が来て、チューブの中をサーファーがボードで波を乗りきる姿を見ると、シロウト眼にも素晴らしいものだと感激いたします。

何年か前まではさびれた場所だったのです。最近は駐車場が舗装化され、トイレもでき、町当局がサーファーを呼び込んで町を活性化させようとしていることがわかります。
たしかに町の人口は多少増加し、その多くがサーファーで、サーフショップやサーファー相手のしゃれた飲食店がずらりと並んでいます。

オリンピック前にいくつかの問題点も指摘されています。
東京から一宮までの特急列車が日に数本しかないこと、高速道路から東浪見海岸までの連絡道路が心細いこと、宿泊施設が足りないこと、駐車場不足。
何よりも観覧席が全くと言っていいほどないこと。津波避難場所の不足…。

ただし、周辺には広い防砂林、海浜キャンプ場があり、ここを再開発すれば何とかなると思います。
これでガッポリ儲かるぞ、と胸残用を弾いている連中もいることでしょう。
大規模開発は利権がらみで、頭の黒いネズミの活躍場所です。

玉前神社ではオリンピックがらみではありませんが、最近は「波乗り守り」なるものを頒布しています。
北条政子も祈願したという安産の神様だったのですが、最近はサーファーの神様として売り出し中です。頭の良い人がいたのでしょうね。
サーファーだけではなく、だれでも人生には荒波がつきもので、その荒波を無事乗り切るお守りだそうです。

いすみ市の誘致活動はやや遅れていると思います。
志田下といすみ市太東海岸とは隣接していますがどうするのでしょうか。
いすみ市では少し離れた三軒屋海岸がサーフポイントとして有名ですから、どう志田下と連携するか問われることでしょう。

ご近所の飯縄寺は「波の伊八」の彫刻で有名で、住職さんは常々このお寺はサーファーさんの守り寺だよとおっしゃっていました。
玉前神社の二番煎じになりますが、この辺もセールスポイントになるかもしれません。