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★長者町の天神社では紅梅・白梅が咲き始めた。

紅梅
白梅3

受験生に絶大なる人気を誇る天神様(天満宮)は菅原道真(スガワラミチザネ)を祀っています。
菅原家は代々学問で朝廷に仕えた家柄ですが、道真は今や学問の神にまで出世しました。
しかし、天神様と呼ばれるようになったのは残酷な理由があります。

当時の朝廷は藤原氏が実権を握り、天皇といえども思い通りの政治ができません。
下級役人だった道真を見出して側近にまで引き上げたのは宇多天皇でした。
藤原氏をけん制して天皇権力を確立するためにです。
藤原氏は道真を遣唐大使にして体よく追放しようとしますが、逆に道真の建言で遣唐使じたいが中止となります。(894年)

宇多は息子の醍醐に天皇位を譲り上皇になって天皇をバックアップします。
天皇の権威があった醍醐の時代を理想としたのが、のちの後醍醐天皇ですが、それはまた別の話。

若き左大臣藤原時平は、年上で学も弁もたつ右大臣道真を無実の罪を着せて太宰府に左遷します。(901年)
その時の歌が

   東風(コチ)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主(アルジ)なしとて春な忘れそ

道真の屋敷は梅の花屋敷として有名でした。屋敷を去るにあたって、花が咲いたら香りだけでも東風に乗せて西の太宰府に送れと梅の老木に話しかけたのでした。
太宰府で失意のうちに病没したのが903年。

道真追放の一員であった藤原定国が41歳で急死したのが906年。908年には藤原菅根が落雷直撃で死亡。
道真のタタリだと朝廷でウワサされ、翌909年、首謀者時平は39歳の若さで狂死。
913年には一味であった源光(ミナモトノヒカル)が底なし沼で落馬。遺体発見されず神隠し。

923年、醍醐天皇の皇太子であった保明親王が21歳で急死。次の皇太子になった保明親王の息子は5歳で病死。次は醍醐天皇がターゲットかと恐れられ、天皇は太宰府左遷を取り消し、道真を右大臣に復し、正二位を追贈しますが、台風・洪水・疫病と天変地異は収まりません。

930年、ついに皇居清涼殿に落雷、炎上。多数の死傷者を出します。中でも道真の監視役であった藤原清貫(キヨツラ)は落雷の直撃でむごたらしい死にざまでした。
惨状を目撃した醍醐天皇はショックで寝込み、三か月後に崩御。

すざましい道真の怨霊(オンリョウ)だと人々は恐れ、道真を雷を操る天神様だど敬うようになります。
こうして太宰府の天満宮、京都の北野天満宮など道真を祀る天神様信仰が広まります。
やがて人々の信仰を集めるようになったためか、天神様の怒りは収まり、学問の神様に昇格していきます。

なお首謀者時平の弟であった忠平は道真に同情的であり、道九州の真に励ましの手紙を送っておりましたので祟られておりません。この後、忠平は摂政・関白に出世し、一族が藤原氏をリードすることになります。天神様の加護があったということでしょうか。
人々はそう信じたことでしょう。

 
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★モグラ退治といってもいやがらせですが。

もぐ穴
        我が家のモグラ塚
唐辛子
       唐辛子でいやがらせ作戦

立春を過ぎるとモグラが活発に動き出します。
地中のモグラも季節を感じるのでしょうか。天神様の境内にはあちこちにかなり大きなモグラ塚ができています。
何有荘ではさほど大きくありませんが、モグラ塚が何カ所もできておりました。

まず土をどかして穴を露出させます。
その穴に水を流し続けます。長大なモグラ穴であることを考えると、その水でモグラが窒息するとは考えられませんが、嫌味程度にはなるでしょうし、モグラ道をつぶしやすくなります。

その穴にコーヒー糟を入れ、水で流します。
臭いのきついコーヒーをモグラは嫌うでしょうか。好んだら逆効果ですが、今のところ、コーヒー糟を入れてモグラが活発化したことはありません。

次に入れるのが唐辛子です。画像のように適当な大きさに刻んで穴に落とし込み水で流します。
これがかなり効くようです。
唐辛子を入れたモグラ穴は廃道になるようです。そのモグラ道を使ってさらにモグラ塚を作ることはありません。
だから効いたのだと思っています。

数年前に野良猫がモグラを捕まえたことがありました。
それからしばらくモグラは出てこなかったのですが、その野良猫がまるで飼い猫のように餌を支給されるようになると、モグラを捕まえなくなりました。
そんな猫をバカにしてモグラが再び出てくるようになったのでしょうか。

モグラを皆殺しにしようなどとは思っていません。
庭を荒らさないでほしい、庭から出て行ってほしいと思っているだけです。
それで、唐辛子嫌味作戦というわけです。

  

★春を告げる山菜――フキノトウ

フキノトウ
    庭にもフキノトウが顔を出した

冬のいすみ市は一面の枯れ野原とは言え、一年中緑の茂る照葉樹林があるし、年末から咲いている水仙もあるし、畑にはソラマメやサヤエンドウの苗が育っています。
冬でも緑は珍しくないとはいえ、やはりフキノトウが顔を出すと、もう春だなと実感します。
雪が降ったって、雪の間からもう春だと告げているのがフキノトウです。

江戸時代から昭和初期までを地代背景とした小説で、フキという名の女性が出てくると、たいてい目立たないけどしっかり者で苦難に耐える女性と描かれている感じがします。
フキという名の女性にはなんとなく親しみが湧き、感情移入して読んでしまいます。

天ぷらにして食べるのが一番ですが、フキ味噌もよろしい。
スーパーに行けばいつでも季節外れの食材が豊富に並んでいます。
旬の季節がわからなくなっていますが、山菜は旬の季節にしか出回りません。
フキノトウも並び始めました。
山野に足を延ばせば、タダで手に入る場所がいすみ市にはまだまだたくさんあります。
季節を感じて満喫しましょう


 

★討ち入りは西暦に直せば1月30日

忠臣蔵
    忠臣蔵のクライマックス場面

元禄15年12月14日はもちろん旧暦表記です。明治以来の西暦に直せば1703年1月30日のことでした。
2月1日が東京圏では中学入試日です。今頃の時期になると忠臣蔵と雪の入試を思い出します。
この時期は東京でも雪が舞うことが多い。今日は晴れだけど、すごく寒い日です。

赤穂浪士の吉良邸押し込み殺人事件は忠臣蔵として日本人の心性に大きな影響を与えました。
庶民は圧倒的に浪士の味方で大喝采だったことは史実のようです。

時は犬公方の綱吉の時代。人間よりも犬の方が大事なのかと幕政に対する不満が鬱積していました。
そこへ浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介は無罪――不公平じゃないか。幕府を恐れず主君の仇討とは近頃見かけぬ立派な行いだと幕政批判は一層高まりました。

この事件は今でも謎が多いのです。内匠頭は何に怒ったのか――賄賂を断ったから意地悪されたと歌舞伎は演じ、観客は浅野ひいきにぐっと傾きました。でも裏付け資料はありません。
浅野・吉良の確執の原因を浅野は一切を黙秘し、吉良は思い当たらないとしたので、今日でもそれは不明です。

わたしが不審に思っているのは、浪士たちが無事本懐を遂げ、泉岳寺まで凱旋行進をしたことです。
幕府は不満分子である浪士たちの動向をつかんでいなかったのでしょうか。信じられません。
幕府は仇討を黙認しただけではなく、むしろ援助したと考える方が理にかないます。

吉良邸が丸の内から本所に強制移住させられたことは浪士にとってラッキーでした。
川向うで蔵屋敷と空き地が多く、幕府の警戒が緩い地域です。
上野介は身の危険を感じ、実の息子が婿入りした米沢藩邸に入り浸っていた――吉良邸にはめったに帰らなかった――それなのに14日は在宅とどうして知りえたか――大高源吾の手柄ということになっていますが、それは本当か?

事件後、吉良家は領地没収、当主の吉良義周(18歳)は高島藩お預け、座敷牢状態で21歳で病没。
つまりお家断絶。

幕府は吉良家を見殺しにすることで幕政批判を回避する、これで喧嘩両成敗になったでしょう、文句あるかという状態を作り出したのが本当の事情じゃないかと思っています。


★ロウバイの花咲く頃

roubai2.jpg
      近所でロウバイが満開でした

いつもと違う散歩コースを歩いていたら、満開の蝋梅(ロウバイ)に出会いました。あたりに良い香りが漂っています。
思わず立ち止まってしげしげと眺めていたら、おうちの方が出てきたのであいさつしました。立派な蝋梅ですねとお話したら、枝を数本カットして持たせてくれました。今、玄関で良い香りを振りまいています。

川崎にいたころはTVでロウバイが放映されるとそそくさと見物に出かけたものですが、いすみ市ではときおり庭で咲いているロウバイを見かけます。それですっかり出不精になってしまいました。
それにしても、このお宅のロウバイは大きくて見事でした。

ロウバイはまるでロウ紙の造花のような雰囲気なのでロウバイと言うのかと思いますが、
実は、臘月(ロウゲツ)の頃に咲く、梅に似た花なのでロウバイ(蝋梅)なのだそうです。
臘月とは旧暦十二月の異名。

古代中国で1年最後の狩猟納めの祭礼を“臘(ロウ)”といい、その祭礼がある月だから十二月の異名が臘月なのだとか。ロウソクのロウとは無関係です。
冬至から数えて3回目の戌の日が臘の祭礼日。
調べてみると、今年でいえば、本日、1月25日が冬至から数えて3回目の戌の日でした。
つまり、旧暦でいえば、本日はまだ12月、臘月二十日ということになります。

俳句の世界では季語という規則があります。
ロウバイは冬の季語。小寒から大寒にかけての季語だそうで、ほぼ臘月と重なります。
2月4日の立春を過ぎればもう春ですから、ロウバイを詠んではいけないようです。

冬至から比べるとずいぶん日差しが伸びてきました。
寒さは一番厳しい“大寒“ですが、もうすぐ立春だとロウバイが教えてくれます。
旧暦の元日は、今年は立春の翌日、2月5日。

満開のロウバイを見ると、なんとなく励まされているような気がします。
春はもうそこまで来ていると。