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★卯の花が咲けばホトトギスが初夏を告げる

ヒメウツギ
  裏庭のヒメウツギ(姫空木)の小さな花が満開

いすみ市の山野ではヒメウツギの花がこぼれるように咲いている場面によく出会います。
しかし、香りはしません。あちこち調べましたが香りはしません。
どうやら種類が違うらしい。♪卯の花の匂う垣根に と歌われたのは「梅花空木」だそうです。

木の芯が空洞になるので「空木」で、木材としては役に立ちませんが初夏を呼ぶ花として古来より親しまれました。
「ウツギ」の語頭がウだから、ウの花と言えばウツギの花と言うこです。。
鈴木さんを「スーさん」。惚れたを「ホの字」、ついでに言えば変態者を「H」という言い方は昔からの日本の言い方です。
「うの花」といえば、煮た大豆から豆乳を絞った残りカスです。しかし「カスじゃないよ、卯の花だよ」と言い換えるのは素晴らしい感性ですね。

卯の花の既設になりましたが、花は咲いてもなかなかホトトギスは鳴かないのが実情です。
万葉集以来、千載集、枕草子にもホトトギスの初音を待つ話が数多く伝えられています。
待ち遠しいのが常のようです。そこで有名な話が

   なかぬなら殺してしまへほととぎす   織田右府(織田信長)
   鳴かずともなかして見せふほととぎす  豊太閤(豊臣秀吉)
   なかぬなら鳴くまで待てよほととぎす  大権現(だいごんげん)様(徳川家康


と江戸時代後期の『甲子夜話(こうしやわ)』書いてあるそうです。よく出来た話ですね。

そこでようやく聞こえたら、その鳴き声はどんな声か、というと
  「東京特許許可局」 とか 「テッペンカケタカ」と聞きなしています。
いつ頃鳴くかーー朝晩が主。まだ暗い時分から暗くなってもの印象です。つまり朝の3時ごろから、夜の9時頃まででしょうか。真っ昼間はどうかと言えば、たまに鳴いていますね。
詳しく調べてはいませんが、昼間はこちらが忙しいから聞き逃し、朝晩は周囲も静かだから目立つと言うことかも知れません。

そんなホトトギスの鋭い叫び声とも聞こえるテッペンカケタカの声が聞こえてくると、確かにもう夏だなぁと思います。
ウグイスが鳴いてホトトギスが来て、シジュウカラが鳴いてキジのケーンケーンの高鳴きが聞こえて、というそんな自然の中での暮らしもまた贅沢な暮らしだなぁと思います。
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★菖蒲と民話あれこれ

水路脇湿地
  里山の山林際に水が流れ、菖蒲など湿地性植物が生い茂る
菖蒲の根 ショウブ花
菖蒲の根は良い香りがする。菖蒲湯の素材。右は菖蒲の花。目立たない。細い葉の中央に筋があり、不動明王の剣に似ている。

飯食わぬ女房という有名な民話を知っている人は多いことでしょう。
見目麗しく働き者で飯は食わぬと言う女を嫁に迎えて男はうれしかった。ところが米びつの米がどんどん減る。疑った男は屋根裏に隠れて見ていると、女が髪をほどくと中から大きな口が出てきた。炊いた飯を片っ端から大きな口に放り込む。驚きのあまり声をあげると女に気づかれた。女は山姥であった。逃げる男を大桶に閉じ込め、食い殺すために大桶を背負って奥山へ逃げ出した。その途中で緩んだ桶のふたから身をよじって抜けだし、大木の枝にしがみついて難を逃れた。逃げられたと気づいた山姥は猛スピードでとって返して追撃が始まる。果たして男は逃げ切れるか。

ここから先は地方によってストーリーが異なる。
①男は池の端まで追い詰められるが菖蒲とヨモギの群生の中に逃げ込み身を伏せる。
 山姥は草をかき分けて探すが、菖蒲とヨモギの香りに邪魔されれて男を見つけ出ず、あきらめる。
②草をかき分けているときに山姥は鋭い菖蒲の葉先に目を突き、目が見えず男は逃げ出せた。
③男は大木の枝に逃げたが見つかり、山姥も枝に上って追ってくる。あわやという時に枝が重さで折れて両者とも下に落ちる。男は池の中に落ち、山姥は群生した菖蒲の鋭い刃に身を貫かれて死んだ。

昔の人は菖蒲に摩訶不思議な霊力があると信じていたようです。
まず第一に芳香。全草にあると言いますが主に根。葉生姜のような色のついた部分を固い物で叩いてほぐすと香りが出やすい。水に溶けるので菖蒲湯にすれば香りの風呂になる。この香りが邪気を遠ざけると信じられました。
この効果があるのは画像の菖蒲だけ。別名、葉菖蒲、匂い菖蒲。
第二に葉の姿形。細身の葉の中央が背骨のように膨らんで丈夫な筋になり、まるで不動明王の持つ両刃の剣にそっくり。この葉がいざという時に硬化して邪悪な連中を切り伏せる力を発揮すると信じられました。
   不動明王掌
   右手に煩悩を切り捨てる剣を持つ不動明王。特に果てしなき欲望、激しい怒り、傲岸無知を憎む。
   
菖蒲と書いてアヤメと読む美しい花は有名ですが、これに破邪の霊力は期待できない。特に芳香があるわけでもなし、葉はペロペロで強力な武器にはなりそうにない。
なによりも「ショウブ」という発音が「勝負」に通じ、武を尊ぶという「尚武」に通じる。そこで端午の節句の重要な小道具として「菖蒲」が使われる。魔除け・厄災除けの強力なシンボルが菖蒲となる。
しかし、菖蒲の姿はあまりに地味で絵にならない。
そこで登場するのが花菖蒲。花菖蒲の名にはショウブの名がついているし、花菖蒲の葉は中央に固い筋があって両刃の剣の形をしている。これなら絵になるし、武者絵や鎧飾りの脇に添えても見劣りしない。ついでに縁者であるアヤメやカキツバタもペロペロの軟弱な葉であっても飾られることになる。
ここまで広がるともはや花の装飾的な意味合いしかなく、単に5月の花を添えたにすぎない。
尚武の意味合いは消えてしまいます。

やはり本来の魔除け・厄除けの機能を持った薬草は「菖蒲」です。
そしてヨモギ。お灸の原料で草餅として食べるヨモギは昔から万能の薬草として知られ、魔除け・疫病除けとしても実績があります。
菖蒲とヨモギをまとめて一株にして、いくつも屋根から軒先につるす「軒菖蒲」の習慣も全国にあったと言いますが残念ながら見たことはありません。
近代社会では迷信として退けられ、忘却の彼方に押しやられました。みじかに野生のヨモギや菖蒲など見つからない社会になりました。

しかしいすみ市ではどのスーパーでもどの産直店でも菖蒲湯用の菖蒲が売っています。
いすみ市はそんな昔からの自然と風習がまだ細々とと生き延びている地域です。

★絶滅危惧種のラン科:クマガイソウ

クマガイソウ
  近くの竹藪(ヤブ)にて 竹の葉が散っている

蘭(ラン)の花はどれも個性的で、園芸種も野生種も人気が高い。
画像のクマガイソウは大きな花びらが袋状になるので、その袋が騎馬武者が背負った母衣(ホロ)似ているとの連想が働いています。
主に戦場を騎馬で駆け巡る武者や伝令が背負った布製の防具で背後からの敵の矢を防ぎます。
源平の時代、武蔵の豪族熊谷直実(くまがいなおざね)の母衣が名前の由来。

源平一ノ谷の合戦で、直実は逃げる平家の公達(キンダチ)平敦盛(たいらのあつもり)を卑怯者呼ばわりをして呼び戻し、組み合った末に首をはねる。その際、敦盛が自分の息子と同じ年頃の若武者と知る。一瞬助けようかと思ったが「早く首を取れ」と促されて首をはねた。後の直実は武士の生き方に矛盾を感じて仏門に入る――と平家物語にあり、高校の古文の授業で習いました。

この名場面は能や歌舞伎にも取り上げられます。
信長が本能寺で自害する前に踊ったという幸若舞は「敦盛」。人間(ジンカン)五十年、化天(ゲテン)の内をくらぶれば 夢幻のごとくなりのセリフは有名です。
歌舞伎では『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』でストーリーはさらに複雑でお涙頂戴になっています。

熊谷直実とセットで語られてきた平敦盛ゆえ、クマガイソウと見た目はそっくりだが赤紫の高貴な色合いの花があり、その名をアツモリソウと言います。
こちらも絶滅危惧種で盗掘の対象となっています。
源平合戦に由来するこの二つの花の名は源平合戦以前はどのような名だったのでしょうか。
記録がないのでわかりません。

ただ、地方に消えずに残ったその地方独特の名を調べて見ると、それが古くから伝わった名だと分かると言います。
今は便利でネットで調べて見ました。
ふぐりばな(長野/佐久)、ふんぐり(佐渡)、へのこばな(青森)などとあります。
花の形を男性性器(陰嚢)に見立てたものでしょう。昔は「下品」だったと言うよりも「おおらか」だったと言うべきなのでしょう。
姿形とネーミングがぴったりで,思わず笑ってしまいます。
一目でそれと分かる絶妙な命名だともいえるでしょう。

★いすみ市の梨農園の梨の花。今が盛り。

梨花
    ワイヤーが張られているのは梨園だから。

いすみ市は梨の名産地で、多くの農園があります。その季節になると梨農園を訪れ、都会の友人に梨を送ったりします。最近は梨にも様々な品種があり、その違いが楽しめます。
梨農園を直接訪れるのはもう一つの楽しみがあります。それは商品としてはちょっとという梨を安く手土産に持たせてくれるからです。
梨を育てるのは大変な苦労だと聞きました。食べるのは一瞬ですけどね。

はるか昔、高校一年でしたか漢文の授業で「長恨歌」を習いました。
唐の玄宗皇帝と楊貴妃の物語(詩)です。
絶世の美女・楊貴妃の伝説はこの詩と作者・白居易によるものでしょう。
宮中すべての女性が見劣りするほどの美しさだったと歌われています。
しかし、才色兼備の楊貴妃におぼれた玄宗皇帝は政治を怠り、国は乱れ、安禄山の反乱を呼びます。
死を賜り,東方の仙界に暮らす楊貴妃に玄宗皇帝の命で道士が会いに行った場面での彼女の描写は次の通り

     玉容寂寞涙闌干  美しい顔は寂しそうで涙が止めどなくこぼれ落ち     
     梨花一枝春帯雨  それは春雨に濡れる一枝の梨の花

滂沱の涙を流すひっそりとした楊貴妃はここでは一枝の梨の花にたとえられる。
逆に言うと、雨に濡れる梨の花は才色兼備だった楊貴妃の仙界の姿に例えられる。
それでかどうか韓国筆頭の有名女子大は「梨花女子大学」と言います。才媛の学校なのでしょう。
中国でも日本でも梨花女子大という名の大学はないのでたいした自信です。
日本では歌舞伎界を梨園といいます。
玄宗皇帝が宮廷の梨園でたびたび歌舞音曲の第一人者を呼んで宴を開いたことに由来するそうです。

観梅や桜の花見はあるのに梨の花見は聞きませんね。
清少納言は、枕草子第37段で、紅梅を第一とし、桜や藤など様々な花をあげています。梨の花については「すさまじき」として低評価ですが、白居易が楊貴妃に例えたのでよく見てみれば案外カワイイねと再評価したと述べています。
とはいえ、いまだ日本では花見をしようとまでの人気は出ない花のようです。

赤い花なら濃いも薄いも梅の花だ、という清少納言は令和という単語の語源となった大伴旅人と同様に幸福は赤色だという中国文化の影響を受けているのでしょう。
すると不幸を象徴するのが白で、純白に近い梨の花は不幸の象徴として避けられたのかもしれません。
仙界は生身の人間が行くことの出来ぬ世界ですから、白く美しい花の楊貴妃は異界の楊貴妃だと見た白居易の感性を私たちも知らずに少し引いているのかもしれません。

★河津桜――満開です

河津桜

   灯台へ上る道はピンクの花の並木道。

早咲きの河津桜は実は戦後生まれの品種です。1955年、伊豆半島の河津で発見されました。
地元の人が大事に育てて温泉もある河津は早咲き桜の名所として大変有名になりました。
それを見ていた全国のあまり観光客が来ない地域は河津桜を植えて観光名物にしようと企てました。

外房地区で言えば大原が一番早かったでしょうか。海を見渡す展望台の河津桜は見事です。
いすみ市では10数年前に植樹が始まりました。
灯台への河津桜並木は当初、細くて頼りなかったのですが、ようやく見栄えある姿になりました。
布施地域の人々は1000本も河津桜を植え、今年は本当に見事で「千本桜祭り」が催行されています。
いすみ市の各農家さんも空き地に植えたりして、本数としては梅に迫る勢いで増えました。
遠目に「あれ?紅梅かな」と思うと河津桜だったりします。

伊豆の河津桜見物にだいぶ前に出かけたことがあります。
その時の目的はもう一つ、幕末の思想家吉田松陰の足跡をたどることでした。
河津と下田は隣同士。その下田にペリー艦隊が投錨しました。
松蔭25歳の時、河津に滞在し、夜陰に乗じて米艦に乗り込んで米国密航の依頼をします。
ペリーはこの依頼を断ります。密航が幕府にばれれば日本開国の使命の妨げになるからですが、松蔭が当時皮膚病に感染していたことを嫌ったのかもしれません。

松蔭は単細胞の尊皇攘夷主義者ではなかったのです。国禁を犯してでも欧米先進国の実情を知ろうとしていました。
10年ほど前に「八重の桜」というNHK大河ドラマがありました。その中で会津藩砲術師範の家に23歳の松蔭が尋ねてくる場面があって驚きました。
松蔭は長崎をはじめ九州各地、そして東北各地も訪れて識者・学者と交遊して教えを請うていました。
欧米各国の文化文明の高さと凶暴な侵略性を学ぶ中で幕藩体制の終わりもぼんやりと見据えていたことでしょう。

松蔭は天才です。10歳で藩校明倫館教授となり、11歳で藩主の御前で「武教全書」を講義したそうです。
その後馬術、兵学の免許皆伝となり、洋学も修めます。そして江戸遊学、全国遊学となるのですが、ペリー来航は新しい世界を知る絶好の機会だったから、命をかけて密航計画だったのでしょう。
河津には松蔭をかくまった庄屋の家や数々の遺跡が残されており、勉強になりました。

松蔭は河津で河津桜など見てはいませんが、わたしにとって河津桜は松蔭が潜伏した土地の桜として強い思い出がある桜です。